羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 それから、オレは宣言通り定期的に高槻の家に通うようになった。最初のうちは放課後だったり休みの日だったりばらばらだったけど、二年の夏になる頃には毎週土曜日の昼というのが習慣づいた。それというのも、ある日高槻が「やばい、本格的に勉強分からなくなってきた」とSOSを出してきたからだ。
 オレらの通ってる学校は、がり勉って雰囲気は一切ないのに偏差値も授業のレベルもかなり高い。たぶんこの独特の雰囲気の理由は、生徒の殆どが内部進学生で占められているからだろうと思う。要するに、自分たちのやっていることの難易度の高さに自覚が無いのだ。当然高校進学時とかは授業についていけずに外の高校に出て行く人も一定数いるけれど、たとえこの学校で下から数えた方が早い成績だったとしても、他の平均的な偏差値の高校に行けばトップ層に入れるらしい。しかも驚いたことに、塾通いしている奴も殆どいない。
 そんな環境だったから、いくら個別に課題を貰っているとはいえ授業自体の欠席が多かった高槻は限界を感じつつあったんだとか。「配慮してもらってるから、最低限は成績とってねえとまずいんだよ」二年の前期中間で危機感を覚えたらしい高槻に、じゃあオレが教えるよと自然に言葉が出てきた。どうせオレも休みの日は勉強するし、場所が変わって気分転換にもなるしいいかなって。勉強の後はさくらちゃんとも話せるし、何より高槻の家で出てくるご飯はおいしい。
 若干よこしまな理由も込みで提案した勉強会は、次の週からすぐ始まった。高槻は数学とか理科とかの理系科目、特に計算関係はまったく問題ない出来だったけど、文系科目は――中でも古典は酷かった。まともな日本語すら怪しいのに昔の言葉とか無理だろというのが高槻の言い分だ。古典は受験レベルなら短期間で対応できるんだから頑張ってほしい。いや、寧ろ苦手科目が古典でよかったと思うべきか。数学が得意って、かなり強いし。
 勉強を教えるようになってから、高槻について更に色々と知った。高槻は計算が速い。ちょっとした四則演算なら暗算してしまうし、正確だ。その一方で単純暗記はあまり好きではないらしい。四十七都道府県の位置関係すら記憶があやふやで、そのくせ人の名前を覚えるのはめっぽう得意だった。特に顔写真とかがあると一発だ。英語の文法も所々怪しいけど、発音の綺麗さはちょっとびっくりするくらい。こいつ、受験英語よりも留学に向いてるタイプだな。
 きっと地頭がいいのだろう高槻は、オレが教えれば教えるだけ勉強のノウハウを吸収していった。こういうの、打てば響くって言うんだよね。あっという間に学校でやる授業の範囲に追いついた後は、その一週間の授業でやった内容を総ざらいするという勉強法に変えた。二年の後期期末の頃にはまったく問題ない成績になっていたと思う。オレも復習になっていい感じだった。
 そして、さくらちゃんともかなり仲良くできた。さくらちゃんはオレのことを相変わらず「はるかちゃん」と呼んでいて、そう言われるといかにも女の名前みたいだなと最初は苦笑いしたものだけど案外悪くはなかった。オレだって、好意からくる親しげな呼び方とそれ以外の区別はつく。
 大体昼前に高槻の家に着いて、勉強してから昼ごはん。三人で一緒に食べたらとりとめのない話をして明るいうちに帰る――というのが決まったスケジュールだ。不思議とオレが高槻の家に通いつめるようになってからさくらちゃんはかなり体調が回復してきたみたいで、気候の穏やかな日にはちょっと外に出るくらいならできるようになっていた。
「お兄ちゃん、最近学校にちゃんといられるようになったでしょう」
 さくらちゃんは、高槻に内緒にしたい話をオレにしてくれるようになった。その内緒話ができるのは、高槻が昼ごはんを作って換気扇を回しているちょっとの間だ。
「そうだね、あんまり遅刻してこなくなった」
「わたし、このごろとっても調子がいいんです。お家の周りを歩いても疲れないの。朝も苦しくないから、お兄ちゃんにいってらっしゃいって言えるの」
 さくらちゃんはとても嬉しそうだった。自分の体調がいいこと以上に、高槻の行動の制限が緩んだことが嬉しくて仕方ないのだろう。
「はるかちゃん、今日はね、いつもよりもっと内緒の話をしたいんです」
「うん? どうしたの改まって」
 さくらちゃんと初めて会ってから一年が過ぎていたけれど、さくらちゃんはまるで時間を閉じ込めたみたいに一年前のままの姿だった。もちろん顔色は随分とよくなっている。でも、体の成長は感じられない小柄な姿だ。高槻とは四歳差と聞いて驚いた。だって、六、七歳は離れていても違和感ないくらいの見た目だったから。
 さくらちゃんはちらりと高槻の方を見て、小さな声で言う。
「……お兄ちゃんに、高校行ってほしいなって」
 オレはいつだったか高槻が言っていたことを思い出した。「高校は行かない」「中学は義務だから」。今なら理由がなんとなく分かる。高槻は高校に行きたくないんじゃなくて、早く働きたいんだ。
「わたしもお父さんも、お兄ちゃんには楽しく学校行って欲しいって思ってるの。でも、お兄ちゃんが高校行かないって言ってるのはわたしが理由だから……わたしがお兄ちゃんに直接『高校行って』って言うのは、ひどいことだって思う」
 オレはさくらちゃんの思慮深さにひたすら驚いていた。「わたしのせい」ではなく「わたしが理由」と言うところにも、高槻への思いやりに溢れている。
「ほんとは……わたしが入院していた方が、お父さんもお兄ちゃんも大変じゃなくなるって分かってるけど……もう、入院するって言っても聞いてくれないんだ」
 二人とも無理するのに慣れちゃったから、とうつむいたさくらちゃんに、どう言葉をかけていいか悩む。さくらちゃんが一度病院を嫌がった事実がある以上、高槻も高槻のお父さんも、さくらちゃんが寂しいのを我慢して「入院する」と言っているのが分かってしまうのだろう。あなたの負担を減らしたいからつらいけど我慢しますと言われて、そうか分かったと返せる性格ではないのだ。
「ん、ん……オレが何か言って、あいつ、聞いてくれるかな」
「はるかちゃんはお兄ちゃんと仲良しだから、きっと平気」
「そ、そうかな……家族に言われて無理なのに友達に言われて素直に聞くのかなあいつ……」
 というか、そんな人生変わるようなことに口出ししていいんだろうか。
「お兄ちゃん、最近お父さんに反抗期だから……」
「えっそうなの」
「お父さんはお兄ちゃんに高校とか、大学までちゃんと行ってほしいんだって。ほんとは今みたいにお兄ちゃんが学校遅刻したりするのもいやみたい。だから、この話すると喧嘩になっちゃう」
「おおう……」
 またディープな話を聞いてしまった。
 実は、この家に通うようになってからも二人のお父さんには一度も会ったことがない。根本的に活動時間が噛み合わないのだろう。確か前に一度、高槻が神妙な顔で「勉強教えてもらってるぶんのバイト代とか……」と訳の分からないことを言い出したので慌てて止めたとき、あいつは「父親が、そういうのはきっちりしとかないと駄目だって」と言ったのだったか。
 話によると、息子がたくさんお世話になっているのにまともに挨拶もできていないことを謝っていた、らしい。いや、別にお世話してるって意識は無いんだけどね。お弁当とかお昼ごはんとか作ってもらってるし、寧ろ毎週のように入り浸っていてすみませんという感じだった。オレはただ遊びに来ているだけなのだ。
 結局、どうにかバイト代は辞退できたのでほっとしていたのだけれど。
 オレはさくらちゃんに対して言葉を続けようとして、けれど高槻が調理を終えたらしく換気扇の音が止まったので口をつぐんだ。また来週ね、と人差し指を口元で立てる。
 さくらちゃんは察しがよくて、その日はお昼ご飯の後のおしゃべりも少し早めに切り上げて、自分の部屋に戻っていった。
「さくら、具合悪そうだった?」
「や、そういうわけじゃないと思うよ。最近調子よさそうだよね、さくらちゃん」
「ああ。病院でも問題無いって言われた。小康状態ってやつ」
「そっか、よかったー」
 うーん、切り出し方が分からない。こう……自然な会話運びってやつをしたいんだけど……。
「……さくらに何か言われたろ」
「えっ」
「なんとなく分かる。高校のこととかじゃねえの?」
 ごめんさくらちゃん、全部ばれてたよ……。
 こうなったら隠してもしょうがないので白状する。高槻は眉根を寄せて、ふう、とため息をついた。
「俺、早く働きたいんだよ。このままじゃたぶんさくらより先にあいつが潰れる」
 でもこの話をすると喧嘩になる、と悲しそうな顔をする高槻。あいつ、とはお父さんのことだろう。俺どうすればいいと思う、と尋ねられて言いよどむしかない。
「……悪い。お前に聞くことじゃねえよな」
「ご、ごめん……オレ自分で言うけどめちゃくちゃ平凡な人生を歩んでおりましてうまく答えられない……」
「いや、俺こそ変なこと言ってごめん」
「――う、うまく言えないけど! でも、さくらちゃんだってお前と一緒で、家族には笑っていてほしい、んだと思う……」
 このままこの話を終わらせちゃダメだ、と思って思わず言った。高槻は目をみはってまじまじとオレのことを見ている。
「もし高槻が、高校行きたいって思ったら言ってほしー……」
「なに、受験勉強みてくれんの」
「当たり前じゃん! オレ、お前が高校一緒なら楽しいだろうなって思うよ」
 高槻が微かに笑うのが分かった。「そういうこと言われると、嬉しくなるんだけど」なってよ。オレは本気で言ってるんだから。
 その後の別れ際の高槻は、最後までふんわりした笑顔だった。友達になりたての頃は無愛想だなと思っていたけれど、今はもう笑っているところを見ることの方が多い。
 最終的には全部高槻本人が決めることだけど、こいつがなるべく後悔の無い選択をできればいい、と思った。

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