羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「生まれつき体が弱いんだ」
 すぐに自分の部屋へと戻るように言われたさくらちゃんはちょっぴり不満そうな表情で、それでも素直に戻っていった。後ろ姿を見送って、高槻は自分の妹についてそんな表現をする。
「入院してどうこうなる病気じゃねえし……なるべく一緒にいてやりたいから家で看てる。今回はちょっと、さくらが風邪ひいちまって」
「そうだったんだ……」
 学校には通えていないそうだ。調子がいいと今日のように部屋を歩き回る程度ならできて、調子が悪いと殆ど臥せっているらしい。高槻の遅刻や早退の理由がようやく分かった。
「なんかごめん、込み入ったこと聞いちゃった」
「いや……こんな色々してもらって、何も言わねえって逆に悪いし」
 高槻は、これまでだんまりだった分を取り返すかのように喋った。学校には事情を話してぎりぎり融通をきかせてもらっているのだということ。さくらちゃんは食事もその時その時で食べられる内容に差があって、高槻が作ったものを全て食べられるわけではないということ。さくらちゃんの和装は、脱ぎ着がしやすいように病院の入院着の代わりのようなものであること。妹に一人だけそんな色も素っ気もない恰好をさせるのが嫌で、家では高槻も和装でいるということ。そして――妹が可愛くて仕方ないのだ、ということ。
「病気は肩代わりしてやれねえんだよな……」
 ぽつりと呟いた高槻の言葉は重かった。運動が得意でまるっきり健康体な高槻が言うから、余計にそう聞こえたのかもしれない。何の病気も抱えていない高槻がこんなことを言うのははたして傲慢なのだろうか? オレには答えが出せなかった。
「なあ、お前飯まだならここで食ってけば。あんま豪勢なもんは出せねえけど」
「えっ流石にそれは……いいの?」
「家帰って飯ある?」
「コンビニのパンがある……」
「俺の作るオムライスとどっちがいい」
 それわざわざ答える必要あんの!? オレはいただきますと頭を下げて、高槻が嬉しそうに笑ったことにほっとしてしまう。
 オムライスを待っている間、ソファを勧められたのでダイニングテーブルからそちらに移動して待つ。すると、調理の音を聞きつけたのかさくらちゃんがそーっと忍び歩きしてくるのを見つけた。
「……寝てなくていいのかな?」
「今日は、あんまり苦しくない日だから。お兄ちゃんは心配性なんです」
 ひそひそ、と喋る。高槻は換気扇の音でこっちには気付いてないみたいだ。
「自己紹介してなかったね。オレ、八代っていいます。さくらちゃんのお兄ちゃんのお友達だよ」
「お兄ちゃんの友達、見るの初めてです」
 さくらちゃんは、「お兄ちゃん、わたしが外に出られないから、自分もあまり遊びたがらないの」と悲しそうな顔をした。
「わたしがもっと小さい頃に病院がいやだってわがままを言った日から、ずっとそうなの」
 どうやら昔は入院生活をしていたらしい。さくらちゃん曰く高槻は元々外に出るのが好きで、間違っても連休ずっと家にいるような性格ではなかったそうだ。まあ確かにそっちの方がイメージ的にしっくりくる。
「えっと……お母さんとかお父さんとかはお仕事、かな?」
 さくらちゃんに聞くのはずるいと思ったんだけど思わず尋ねた。まさか兄妹二人きりなわけはないだろうが、あまりにも高槻に負担がかかりすぎている気がする。
 さくらちゃんはオレの質問にあっさり答えてくれる。「お父さんは、お仕事から帰ってきて寝てる時間。お母さんはいないよ」オレは初めて高槻の弁当を貰った日のことを思い出して自分を罵っていた。見えてる地雷を踏み抜いた感じだ。ごめんね、と慌てて謝ると、「お母さんは最初からいなかったし、お父さんとお兄ちゃんがいるからわたしは寂しくないです」とさくらちゃんは笑った。
 さくらちゃんは家族のことがほんとうに大好きみたいだ。普段は、夕方から朝に高槻がさくらちゃんと一緒にいて、日中はお父さんが……という生活リズムらしい。
「今はお父さんのお仕事が忙しいときなの。でも、夜お仕事して昼にわたしとずっと一緒にいたら寝る時間がなくなっちゃうから、ちゃんと寝てるのが分かると安心するんです」
 なるほど、だから今は高槻が学校を休んで看ていたのか。夜はさくらちゃんも睡眠をとるから、そう言われてみるとお父さんはかなり大変なのかも。二人のお父さんは随分と激務らしい。
 ふと調理の音が途切れて、「あっ……さくら! お前なに起きてきてんだ、寝てろって言ったろ」という声がする。あらら、ばれちゃったね。
「だっておなかすいたから……もうおかゆもおうどんも飽きちゃった」
「んなこと言ったってお前、風邪ひいてんのに」
「もう治ったもん。熱は昨日の夜には下がってたよ。わたしもオムライス食べたい」
 ソファに座って足をぱたぱたさせるさくらちゃんに高槻は悩ましげな表情をした。さくらちゃんの希望と体調とを天秤にかけているのだろう。確かにおかゆとうどんのローテーションは飽きるよね。たぶん高槻のことだから味付けとかちゃんと工夫してるんだろうけど、それでも限界がある。
「……具合悪くなったら、すぐ残せよ。無理すんなよ」
「うん!」
 さくらちゃんの髪をそっと撫でた高槻の表情が、今まで見たなかでいちばん優しくてオレは思わず見入ってしまう。学校の奴らはみんなこの表情を知らない。こいつがどれだけ優しいか、知らないのだ。
 高槻はオレの方を向いて恥ずかしそうに「……できたから先食ってて。さくらの分作ってくる」と言った。
「お前の分は?」
「一人分ずつしか作れねえし、あんま待たせるのも悪いだろ」
「いいよ、一緒に食べようよ。オレどうせ猫舌だから熱々だと食えないし」
 さくらちゃんと一緒に待ってるね、と言うと高槻は一瞬何かを言いかけて、思い直すように「ありがとう」と言った。……こいつ今「ごめん」って言おうとしたな。
 高槻は手際がよかったから、そうは言ってもあまり待たされることなく二個目のオムライスは完成した。「さくらは、兄ちゃんと分けような」どうやら自分たちの分は一個にまとめてしまったみたいだ。完成したばかりのオムライスをスプーンで破って、黄色い卵でふんわり包まれていたチキンライスが顔を出す。いい匂いだ。
 テレビでよくやってる、真ん中切ってとろとろした卵が滑り落ちていくやつはやらないの、って聞いたら「生焼けと半熟は違う」と即答された。何やらこだわりがあるらしい。
 目の前のオムライスと、あとは勿論これを作ってくれた高槻に対して手を合わせて「いただきます」と言う。
 高槻の作るオムライスは、ふんわりバターの香りがして、卵はとても綺麗なつやつやした黄色で、ケチャップで色づいたご飯には鶏肉と玉ねぎが行儀よく交ぜ込まれていた。
「うっま……」
 笑っちゃうくらい美味い。そういえば、高槻の手料理をあったかい状態で食べるのは初めてだった。どうやったらこんな卵ふわふわになるんだろう。オレの家で出てくるやつ、なんか卵が硬いんだよね。焼きすぎなのかなあ。
 さくらちゃんはにこにこしながらオムライスを食べていたけれど、お皿の上に載っているのは小鳥がついばむ程度の量で、なんだかそれがオレの視界で強調されてしまう。このくらいしか食べられないのか。栄養摂取するのも大変そうだ。
 ふとさくらちゃんがオレを見上げて「おいしいね」と笑った。オレも「うん、美味しいね」と頷いて笑い返す。妹ができたらこんな感じなんだろうか。
 さくらちゃんは少しの量をゆっくり時間をかけて食べて、「ごちそうさま」と手を合わせる。それに倣ってから、高槻に片付けの手伝いを申し出た。ご飯作ってもらったし、片付けくらいはしたいなって。けれど、高槻は笑って首を横に振った。
「別にいいって。人の家で片付けとか気ィ遣うだろ」
「えー、でも」
「……代わりにさくらの話し相手になってやってくれると嬉しい」
 小さく囁かれる。「家族と医者以外話す機会無いんだ、こいつ」一も二もなく頷いた。オレにできることなら、するよ。なんでも。
 そうしてオレたちは高槻が片付けやら何やらをしてる間ソファに座っておしゃべりをした。さくらちゃんは、外の様子を話すととても喜んだ。どうやら入院生活よりももっと前は、外を出歩けるくらいの体調だった頃もあったらしい。そして、自然と高槻の話もたくさんした。たくさんの話を聞けた。
「ねえ、はるかちゃん。お兄ちゃんは、わたしがいるからたくさん我慢しちゃうけど……他のひとみたいに毎日遊んだりできないけど……ずっとお兄ちゃんと仲良しでいてください」
 白くてちいさい手はぎゅっとにぎられていて、オレはちょっと泣きそうになってしまった。周りにこういう子、いなかったんだよね。オレは手の甲をゆっくり撫でてできる限り優しく言う。「もちろん。ちゃんと仲良しだよ」手の力が少し緩んだ気がした。
「でもね、さくらちゃん。あいつはさくらちゃんが大好きだから、こんなに頑張れるんだよ。我慢ばっかりしてるわけじゃないと思うよ」
「……わたしもお兄ちゃんのこと大好きです」
「それで十分じゃないかなあ、きっと」
 かなり無責任な発言をした気もするけれど、実際あいつはさくらちゃんに何の見返りも求めていないだろうから敢えて言った。なんかこう、オレも末っ子だから分かるんだけど、姉とか兄とかって下のきょうだいのためなら色々無理しちゃうんだよね。姉ちゃんも三人がかりでオレのこと構ってくるし、オレが喜ぶと嬉しそうな顔をする。
 だから、この子が楽しそうに笑っていることが一番なんじゃないかなって思う。あいつにとって。
 その後は高槻も交えて喋っていたらいつの間にか日が傾いてきた。冬だから日が落ちるのも早い。この辺りはあまり治安がよくないからそろそろ帰った方がいい、と高槻が言うと、さくらちゃんはあからさまに残念そうな顔をした。もう帰っちゃうの、という顔だ。
「さくらちゃん、また来るよ」
「ほんと!?」
「うん。いいよね? 高槻」
 話を振ると、高槻は一瞬眉根を寄せて「……お前がいいなら」と言った。こいつ、ことあるごとに謝るそぶり見せるのどうにかなんねえかな。
 次の『約束』ができたことでさくらちゃんは笑顔になった。玄関まで出てきちゃうと冷たい風にあたっちゃうから、見送りはリビングまで。またね、と手を振られて手を振り返す。
「ありがとな、今日」
 さくらちゃんが寝室に戻っていくのを見届けてから、高槻がぽつりと言った。
「いやいや、こちらこそ昼ご飯ごちそうになっちゃって……美味かったよ、ありがとう」
 高槻はふわりと笑顔を浮かべた。やっぱりそれは優しくてきれいで、あったかい笑顔だった。
「……来てくれたのがお前でよかった」
「オレも、ここに来たのがオレでよかったって思ってるよ」
 玄関の扉を閉める直前にそんな言葉を交わして、別れる。
 外に出ると鮮やかな夕焼けで、昼間に比べて街が活気づいてきているように思えた。やっぱりここは夜の街なんだ。
 また来るって言ったのはその場しのぎでもなんでもない。本気だ。オレはここに何度も通うだろうな、って予感がした。普段は勘とかって全然信用ならないからこんな風に思うのは珍しいんだけど、確信めいた何かがあった。
 風は冷たかったけれど体の芯はぽかぽかしていて、なんだかスキップでもしたくなる心地だった。

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