羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「あ……電池切れてる」
 由良の家から半ば逃げるように出てきて、俺はポケットに入れておいた携帯がただの文鎮になってしまっていることに気が付いた。もし由良が電話掛けてくれてたりしたらどうしよう。電源入ってない、って怒るかな。わざとじゃないんだよと念じても通じるわけないので諦めて再び歩き出す。
 辺りをはばからず怒る由良を想像してちょっと楽しくなった。由良は感情表現が豊かだ。ちょっと目を離すと次の瞬間にはもう表情が変わっている。俺はあのひとの、生きることへのエネルギーに溢れているところに惹かれていて、そういうところがすきだった。
 そういえばあのときも分かりやすかったんだよな、と去年の九月のことを思い出す。由良は、あのときも怒っていた。意志の強そうな瞳は、俺に向かって「被害者面するな」と言っていた。当時腫れ物みたいに扱われていた俺にはそれがかなり珍しくて、昼休みにひと気の無い校舎裏で由良を見かけたとき、思わず声をかけたのだ。
 色々ぼろくそに言われるかと思っていたのだけれど、予想に反して由良は優しかった。煙草を分けてくれて、授業を一緒にさぼってくれて、やけくそになっていた俺のする「悪いこと」に付き合ってくれた。傍にいてくれた。
 たぶん、あのとき何かが決定的に変わったんだと思う。
 由良はクラスでも目立っていたから、それまで話したことはなかったけれど俺は由良のことをちゃんと知っていた。きれいに染めた髪にピアス。女の子と遊ぶのが好きで、男子からは「お前が来ると女子みんな持っていかれる」なんて言われながらも合コンで重宝される、そんなひと。俺は会話がずれてるってよく言われてしまうから、喋るのが上手な由良のことはすごいなと思っていた。もっと踏み込んだ言い方をするなら、憧れていたのだ。
 あんな風に喋ることができたら、新しい家族にも気を遣わせずに済んだかもしれない。
 俺は家族のことについて考える。俺の血縁上の父親は、小さい頃に離婚していなくなった。よくある性格の不一致というやつだ。俺が幼稚園に入園する前のことだったから、あのときは名字が変わって母親の旧姓になっても特に問題は無かった。だから高校一年生の半ばで再び名字が変わって、あんな扱いになるとは思っていなかったんだけど。
 そして新しい父親は、妻を病気で亡くしたひとだった。急な病でかなり早世だったとのことで、俺の母親と出会ったときは既に七回忌を過ぎた頃だったそうだ。優しそうなひとだった。今回の再婚は息子二人にかなり後押しされたらしくて、それだけでも家族仲のよさがうかがえた。いいな、と思った。
 俺は別に、新しい家族が嫌いというわけではないのだ。寧ろ好きだ。ただ、「家族なんだから気を遣わなくていいんだよ」と言われるたびに、俺の体は固まってしまう。
 俺がいると家の空気がぎこちなくなる気がして、それがとても嫌だった。だからなるべく家に居ないようにしたら余計に気を遣われてしまって、うまく振舞えない自分にがっかりした。新しい家族に謝る母親を見るのも悲しかった。
 再婚前にも何度か食事とかは一緒にしていて、新しい父親にも、兄弟が一気に二人も増えることにも、不安はあったけれどそれ以上にどきどきして楽しみだったのに。
「ただいま……」
 誰もいないだろうけど一応、と思って発した言葉は、「おかえり」と思わぬ方向から掬い上げられた。
 ぎくりと体が強張る。まだ幼い弟が廊下の向こうに立っていた。
「今日はお父さんもお母さんも遅いみたいだよ」
「そう……ええと、お夕飯とか、大丈夫?」
「兄ちゃんが作ってくれてる」
 一緒に食べよう、と笑う弟は中学二年生だ。反抗期真っ盛りの年齢だけど、俺の母親のことをきちんと「お母さん」と呼んでくれている。俺は未だに「あの……すみません」みたいな呼びかけを新しい父親に対してよくやってしまうので、すごいなと思う。
 どうやら大学生の兄もいるらしい。邪魔をしてしまったかなと一瞬思って、こういう考えだからよくないんだよなあとまたちょっと落ち込んだ。再婚を期に引っ越してきたこの家は、未だに「ただいま」より「お邪魔します」の方が感覚的に当てはまる気がしてしまう。
 ソファで一緒に待ってようよ、と弟に言われて、手を洗ってからリビングに行くと兄の後姿が見えた。由良の家でもこれと同じような光景をたびたび目にすることがある。俺の周りには仲のいい兄弟が多い。
「ひろくん、数学教えて」
 ソファに座ると隣から声をかけられて、数学の問題集が差し出されていた。おずおずと受け取って見てみると中学生にしては随分とレベルの高いことをやっている。
「こんな難しいこと中学校でやるんだ」
「僕、数学好きだから特別」
「そっか……俺でいいのかな教えるの。お兄さんには聞かないの?」
「ひろくんも僕の『お兄さん』でしょ。兄ちゃんは数学苦手だし……ひろくんは理系だってお母さんから聞いた。僕と一緒だね」
 お兄さんには聞かないの、なんて、まるで突き放すような感じに聞こえる言い方をしてしまって焦ったけれど、弟はさらりと流してくれた。別に嫌だったんじゃなくて、俺に教わるんじゃやりにくくないかなと思っただけなんだけど、それを上手く伝えられない。
 若干のぎこちなさを感じながらも数学の証明問題を解いていく。これで解けなかったら恥ずかしいなと思ったけれど大丈夫みたいだ。俺はふと、もう家族になってから一年近く経つというのに、弟が数学を好きだということも、兄が数学を苦手としているということも、知らなかったなということに気が付いた。
「えっと……あの、数学の他に好きなものとか、あるの」
「好きなもの? 兄ちゃんのハンバーグが好き。あと、パソコンで遊んだり……野球よりはサッカーが好き。でも運動は基本的に苦手。観てる方が好き」
 俺の突然の質問にもすらすら答える弟は不思議なくらい笑顔だった。「ひろくんは?」と聞かれて言葉に詰まる。
 なんだろう。昔から、特に好きなものとか嫌いなものとか無かった気がする。食べ物の好き嫌いも自分で分かっている範囲では何も無いし、運動そこそこ勉強そこそこ。どちらかと言うと文系科目より理系科目。我ながら面白みも質問のし甲斐も無い人間だと思う。黙ったままでいるわけにもいかないので何か無いかなと思いを巡らせて、ぽろっとこぼれた言葉に自分でも驚いた。
「明るくて……一緒にいると元気になれるひと、が、すきかな」
 自分で発した言葉に納得する。俺は、由良のことがすきだ。俺が自信を持ってすきと言えるひと。
 好きなものはぱっと思いつかないけれど、好きなひとならたくさんいる。もちろん目の前にいる弟もすき。家族のことはちゃんとすきだ。友達もすき。みんな優しい。
 なあんだ。俺ってこんなにたくさんの「好き」を持ってたんだな。
 なんだか嬉しくなる。「俺、まだうまく喋れないけど、父親と弟とお兄さんが一気に増えて嬉しかったんだよ」と調子に乗って言ってみた。弟はちょっと驚いたみたいで、少し黙ってから口を開く。
「ひろくんあんまり喋ってくれないから、僕たち何か嫌なことしちゃったかなって思ってた」
 はっとした。俺は、こんなに優しい家族を傷つけていたのか。うまく喋れなくてそのことに拗ねて、そんな自分が恥ずかしくなる。
「ご、ごめんね……むしろ俺のほうが、ちゃんとできてなくて」
 ふるふると首を横に振った弟は「兄ちゃんにも教えていい?」と聞いてくる。いいよと答えたら笑ってくれた。俺は今まで、家族という枠組みに俺一人馴染めないみたいな感覚でいたけれど、俺が勝手に壁を作って遠ざけていただけなのかもしれない。遠慮するふりで、拒絶していたのかもしれない。
 これは本当に、いよいよ由良に怒られちゃうかな。でも、被害者面がしつこい! と怒り狂っている由良を想像したら面白くなってしまう。なんかこう、怒られるのって嫌いじゃない。気に掛けてもらえてるってことだから。これを言うとまた怒られそうだけど。
 別にプラスの感情じゃなくてもいいから、俺に向けてほしいって思うのはよくないことかな。
 告白したことをまったく後悔してないかと言われると頷けないけど、そろそろ吹っ切れたいという気持ちの方が強かった。嫌がられるにしろ気持ち悪がられるにしろ、俺の気持ちを知っていてほしいと思ったから。
 返事は聞きたくなかった。だって俺は、女の子が大好きな由良のことも、女の子のために笑って女の子のために髪を整える由良のことも、すきなのだ。
「俺ねえ……実はついさっき失恋してきたんだ」
 由良のことを知らない誰かに聞いてほしくてそんな風に言う。弟は数学の問題集を握り締めたまま「えっ。ふられちゃったの?」とそわそわし始めた。
「ふられたというか、恥ずかしながら返事を聞かずに逃げてきてしまいました。きっと怒ってるだろうな……」
「何も聞いてないのに返事を決め付けちゃいけないと思うよ。ちゃんとその人に怒られなきゃだめだよ」
 妙に大人びたことを言うものだから驚いていると、「兄ちゃんが言ってた」となんとも素直な返事。本当に仲良しなんだね。
「兄ちゃんも、たまに『これ好きって言ってなかったっけ?』って僕の嫌いなもの料理に入れるからよくないと思う」
 それはたぶん勘違いとかじゃなくて好き嫌いしてほしくなくてわざとやってるんだと思うよ。とは、流石にまだ言えなかった。代わりに「ありがとう」と気持ちを込めて声に出す。
「おーい夕飯できた! お前らなに弟だけで仲良くしてんの? 兄ちゃんは仲間はずれなの?」
 ソファの背もたれ越しに振り返ると兄がいた。俺まで「弟」とひとくくりにされたことにちょっとむず痒くなって、思わず誰かに自慢したくなる。
 この二人には兄か弟かのどっちかしかいないけど、俺には兄も弟もいるんだよ。うらやましい?
 あんなに距離感が掴めずにいたのにちょっと話をしただけでたくさん仲良くなれた気がして、自分の現金さにちょっと呆れた。時間をかけてゆっくり、もっと仲良くなりたい。
 俺は、「お皿はこぶの手伝うよ」と兄に声をかける。
 今日の夕飯は、ハンバーグだった。

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