羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 見ればそこにいたのは同じクラスの体育祭実行委員で、午後一番目のプログラムの保護者対抗リレーによろしければ参加しませんか、というようなことを兄さんと智久さんに向かって言った。ちょうどアンカーが一人足りないのだそうだ。人が多いから捜せばいくらでも見つかるだろうけど、たまたまおれたちが近くにいて目に留まったのだろう。ここ、結構な大所帯だし。
 智久さんは「いや俺保護者じゃねえし」となんともあっさりしたものだったが、兄さんは少し困ったみたいに曖昧に笑った。おれと似ているのですぐ身内だと分かったのだろう、実行委員が「津軽くんのお兄さんなら速そうだね」とおれに笑顔を向けてくる。
 兄さんは、普段あまり「こうしてほしい」とか「こうしたい」とか、自分の希望を言うことがない。今、兄さんは何を思っているのだろうか。
「走ってくれば?」
 兄さんの沈黙を破ったのは智久さんの一言だった。兄さんが視線を泳がせて、「……いや、でも」と言いよどむ。走りたくないのか、いやそうではないけれど、というやりとりを一往復した後、智久さんが静かに言う。
「……もう、お前が走ったって誰も『ずるい』とか言わねえよ」
 優しい声だった。色々なことを知っている声音だった。
 俺がちゃんと見ててやるから行ってくれば、と言った智久さんに、兄さんは照れた様子で「……いってきます」と呟いた。羽織っていた上着を智久さんに預けて立ち上がる。
 おれはとてもどきどきしていた。今日、兄さんが和服でなくてよかった。来てくれたのが兄さんでよかった。お弁当を片付けて、グラウンドがきちんと見える場所まで移動する。もちろん、ゴールテープの近くだ。
「万里のお兄さんって足速いの?」
 大牙に聞かれて、おれは深く頷く。隣で智久さんが何やらごそごそしているかと思えば、「……あいつには内緒」と笑ってビデオカメラを構えていた。兄さんは目がいいけれど、きっと気付かないだろう。
 あれだけ集中していたら、ゴールテープ以外は目に入らない。
 保護者対抗レース、というのは名ばかりで、実際はOBや教師、要するに大人だけど走りたいな、という人が誰でも参加できる競技だ。男性が多いけれど、女性もいる。兄さんは一番外側のレーンの最終走者だ。
 偶然にもそれは、おれが走ったのと同じレーンだった。
 佑護以外は次の競技があるとかで、入場門の近くから見てるねと言って各々散っていく。はしゃいでしまいそうだったから、人が減って助かった。
 空砲がグラウンドに鳴り響いて、カラフルなバトンが眩しい。兄さんのチームは他より年配の方が多かったみたいで、半周とまではいかないけれどそれに近いくらいの差がついていた。おれはグラウンドの反対側に見える兄さんを観察する。このグラウンドは陸上競技専用のものではないから一周が二百メートルなのだが、他の走者とは違いアンカーだけは一周半を走ることになっている。
 兄さんは――笑っていた。
 みんな驚けばいい。ああいうひとのことを、「足が速い」と言うのだ。
 兄さんが最下位でバトンを受け取って走り出して、どこかから誰かの「うわ、あの人はっや!」という声があがるのを聞いた。司会をしている放送委員の驚きの声、ざわめきを運ぶ風、全てに心臓が高鳴った。そう、あのひとは――走るだけで他人の目を奪う。
 前を走っていた四人をごぼう抜きして、兄さんは一位でゴールテープを切った。グラウンド半周程度の差なんて、何の問題も無いとでも言うかのように。
「……お前の兄貴、陸上やってた?」
「うん、やってたよ」
「今はもうやってないんだな」
「うん……そうだね」
 佑護は遠い目をして、黙った。何も言ってこないのが有難かった。
 走っているときはあんなに堂々としていた兄さんは、競技が終わったかと思えばそそくさとこちらに戻ってきた。俯きがちで、どうしたのかと思えば次の瞬間ぱっと顔をあげて笑う。
「奥」
 智久さんを呼ぶ声がとても弾んでいて、だから次の瞬間聞こえてきた言葉に耳を疑った。
「おれはもうだめだなあ、奥」
 朗らかな表情にそぐわない台詞に、智久さんの方が寧ろ苦い顔をしていた。
「ふふ、脚は思うように動かないし筋力も落ちているし、衰えてしまったよ。慰め程度のトレーニングではどうしようもないな」
「……そっか」
「暗い顔をするのはやめてくれ。久々に走ってみて痛感したんだ、おれはもう零コンマ零一秒を争うことはできない。……悔しいけれど悪くない気分だ」
 スプリンターとしてのおれは五年前に死んでいたんだな、と言ってまた兄さんは笑った。
 話の内容は重いものだったけれど、悲しい笑顔ではない。とても晴れやかな表情だった。この笑顔は強がりとかではなかった。智久さんが、おそるおそる、といった風に「……後悔してるか?」と聞くと兄さんは眉を下げる。
「悲しいことを言うな。後悔したことなんて一度も無いよ」
「でも」
「くどいぞ。おれが走れなくなってもおまえは傍にいてくれるんだろう?」
 だったらおれはそれだけでいい、と言って、兄さんは上着を羽織りなおす。
「万里、おれたちは帰るよ。遅くなるようなら連絡をしなさい」
「わ、分かりました。あの、兄さん」
「うん?」
「また……兄さんが走っているところを見られて、嬉しかった」
 兄さんは、驚いた、みたいな顔をした。喜んでいるけれど恥ずかしいといった感じか。今日のことは秘密にしていてくれよと囁かれて頷いたけれど、そういえば智久さんがビデオを回していたのだったか。ものすごくいい位置取りだったから、ばっちり映っていると思う。
 結局ビデオのことは口に出せないまま、兄さんたちは「お友達にもよろしく伝えておいてくれ」と言って連れ立って帰っていった。途中、智久さんが一瞬おれを振り返って小さく落としたのは一言。
「……今日、来てよかった」
 おれも、兄さんと一緒に来てくれたのが智久さんでよかったと思う。そう伝えると智久さんは、「それ最高の褒め言葉だな」と歯を見せて笑った。
 小さくなっていく二つの背中を見つめる。
 隣でぽつりと佑護が言った。「……俺もいつか吹っ切れられんのかな」おれが軽軽と返事をしていいことではないと思った。だから、「おまえがそう思えるようになったら、おれはきっと嬉しい」とだけ言った。
 一陣の風がグラウンドを吹き抜ける。
 空の青がやけに、目に沁みた。

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