羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

INFO / MAIN / MEMO / CLAP


 涼しい風が吹く五月晴れの今日、陵栄東高校では体育祭が行われていた。
 サボるやつもそれなりにいるけれど、やはりスポーツ特待生が多いこともあり結構盛り上がる行事だ。この学校は運動絡みの行事がやけに多く、夏休み直後には球技大会があるし、そこからもっと涼しくなってくるとスポーツ大会がある。冬にはマラソン大会も。弓道部なんかは、運動部だけれどあまり活躍の場は無いのが少しばかり残念かもしれない。
 そんなことを考えつつ深呼吸をする。ちょっと、緊張していたから。弓道の大会のときの緊張感は割と好きなのだけれど、こんな風に大勢の顔見知りがいるような場所というのはなんだか慣れない。無駄に屈伸なんてしてみたりして、時間を潰していると遠くから駆けてくる暁人が見えた。暁人は踵でブレーキをかけて、開口一番「お前落ち着きねーな!」と笑った。
「仕方ないだろ、緊張しているんだよ……」
「あー、茅ヶ崎から聞いたんだけどお前クラスリレーアンカーなんだって? 足速いとか知らなかったんだけど!」
「おれは別にそんな、特別速いというわけではないよ……平均よりは、少しは速いだろうけど」
 でもリレーメンバーの中で一番速いんだろ、と言われて言葉に詰まる。それもこれもクラスリレーの変なルールのせいだ。陸上部とかの、走ることを専門にやっているやつらは選抜リレーに出るのでクラスリレーでは走ってはいけないらしい。スポーツ特待クラスが有利になりすぎて不公平だから、なんだとか。そんなの別にいいだろと思う。得意なひとが全部やればみんな幸せだと思うのだけれど。
 この学校は生徒数が多いので、一人が参加できる競技はほんの二つ三つ程度だ。一年生のときは走るような競技がラインナップに無かったから油断していた。徒競走系はやはり分かりやすく盛り上がるから上の学年にお鉢が回るのだろう。
 おれは本当に、走るのが得意というわけではない。寧ろ苦手意識がある。苦手意識というか、おれ程度で「速い」なんて言ってしまっては本当に速いひとに失礼なんじゃないかと思ったり、する。
 おまけに、緊張している理由はもうひとつあって。
 クラスリレーに出ることをうっかり漏らしたら、美希さんが「あら。息子の勇姿を見に行くのも悪くないわね」なんて恐ろしいことを言い始めたのだ。料理長も張り切ってお弁当を作ってくれているみたいで、もうそろそろ届くんじゃないか……と胃が痛い。どうか気が変わっていてほしい。せめて姉さんが来てくれ、頼むから。
 クラスリレーは午前中最後の競技だ。うまい具合にリレーが終わってから来てくれないだろうか。
 そんなおれの願いもむなしく「万里」と後ろから声がかかる。おまけにその声は、おれの想像していた斜め上のものだった。
「あれ、オニーサンが来てる? お久しぶりでーす。今日は和服じゃない!」
「ふふふ、こんにちは。万里、お弁当を預かってきたよ。あと美希さんが、『仁さんが急遽帰ってきてしまったので代打を出しました』と言っていた」
 し、信じられない……美希さん、本家の長男を使い走りにしたのか。怒られるぞ、親戚に。兄さんの私服をほぼ初めて見た気がするのだけれどそれどころじゃない。もしかしなくてもこのままだと兄さんの前で走らなきゃならなくなるんじゃないか?
 胃が痛い……どうやら父さんも帰ってきているみたいだし、気になることが多い。
 すると兄さんの後ろから、何故か智久さんがひょこりと顔を出す。「よう、久しぶり」会釈と共に返事をする。智久さんは暁人と喋っている兄さんを横目に何やら思案げだ。
「お久しぶりです。あの、今日はどうしてこちらに……?」
「あー、元々遼夜と約束してたんだけど、なんか急に運動会に行くことになったとか言われて」
「す、すみません……」
「いやお前のせいじゃねえよ。待ち合わせ時間ずらそうと思ったら、こいつが『ビデオカメラの操作方法が分からない……』って言うからそのままついてきた。これから走るんだろ?」
 お前も足が速いんだな、と独り言のようにこぼれた呟きは文言以上の含みがあるように思えた。ビデオカメラとか恐ろしい単語が聞こえたけれどもう無視してしまおう。絶対に美希さんが兄さんに押し付けたんだ。智久さんはこれ以上なくとばっちりという感じだけど、いいのだろうか。
 リレーの入場時間が迫っていたので、ひとまず兄さんたちとは別れて入場門へと移動する。兄さんがグラウンドを眩しそうに見つめていることに気付いてしまって、なんとも言えない気持ちだった。
 流石にグラウンドまで出てしまうと腹も括れるといったところだ。走る順番待ちをしているひとがどんどん減っていって、あっという間にアンカーの出番がくる。
 バトンを受け取って走る。追い風が気持ちいい、と思いながら足を動かしているといつの間にかゴールしていて、周りに視線が向かなくて逆によかったかもしれないなと思いながら息を整えた。三位でバトンを受け取って二位でゴールしたから、まあ、許される範囲なんじゃないだろうか。走るのには苦手意識があるけれど、嫌いではない。
 昼休みが始まるというアナウンスを聞きながら戻るとみんながいた。宏隆が真っ先に、「万里くん足はやいねぇ」と言ってくる。ありがとう、とそれに返して、ふと手元を見るとお弁当があった。宏隆はおれの視線に気付いたのか、「兄が作ってくれたのです」と妙に改まった口調で言った。
「清水の弁当も兄貴作なの? 俺と一緒じゃん」
「んんん、別にいいって言ったんだけど……気を遣わせちゃったかも」
「空の弁当箱持って帰ればそれだけで喜ぶと思うけどな。お前が気にしすぎなんじゃね」
 みんなはいつもコンビニや購買のパンを食べていることが多いけれど、今日は全員お弁当の日みたいだ。兄さんたちは元々外で食べる予定だったみたいで、おれがお弁当を食べるのを見届けたら食事をしに行くとのことだった。
「おまえが走るのは初めて見たよ。頑張ったね」
 褒められてしまった。おれが勝手に気まずくなってしまったり、お弁当が重箱ではなかったことに安心したりしながらみんなで食事をしていると、そろそろ昼休みも終わろうかというときにふと頭上から声がかかる。

prev / back / next


- ナノ -