羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 どきどきしたり寂しくなったり、思春期でもここまで情緒不安定じゃねーだろってくらいの感情の振れ幅を体験して若干気疲れした俺は、お手洗いを借りたいと言って立ち上がった。三分くらいでいいから一人で気持ちを落ち着けたい。
 マリちゃんは正座をしていたはずなのに、俺よりもよほど危なげなく立ち上がって案内してくれる。廊下に出るとすぐ庭に面しているので寒い。普通の家の感覚でいるとここのスケール感に置いて行かれそうになる。
「そこを右に曲がってすぐのところです」
「ありがと! マリちゃん先戻っててよ、寒いでしょ」
「大丈夫ですか?」
「だいじょーぶだって! 来たまま戻ればいいんだから任せて」
 じゃあお菓子食べながら待ってますね、と会釈して戻っていったマリちゃんを後目にトイレに入って用を足す。ついでに目を閉じて軽い精神統一の真似事みたいなやつをしてみた。……よし、もう大丈夫。
 気持ちも新たに廊下に出る。そこで俺ははたと気付いた。あの、来たまま戻ればいいとか言ったけど……これ、ほんとに大丈夫か? と。
 マリちゃんの部屋に面した廊下――いや、縁側ってやつ? そこまで出ることはできた。でも、恐ろしいことに家が広すぎて見渡す限り景色が一緒なのだ。障子の閉まった部屋がずらーっと続いている。
 来たまま戻ればいいとか言ったバカは誰だよ……それができないから方向音痴なんだろ……。
 すごい、家の中にいるのに迷子になった。迷子っていうかマリちゃんの部屋が分からない。誰かお手伝いさん通ったりしないかな、と思ったんだけど、しーんとしてるし。こっちってもしかして、客間とかじゃなくてこの家に住む人の個人的な部屋が集まってたりする区画なんだろうか。だとしたら尚更まずい。
 俺はそこでひらめく。そうだマリちゃんにメールすればいいじゃん。呆れられそうだけど仕方ないよね! ここに突っ立ってるよりマシだ、と思って携帯を取り出した、ら。
 電池切れだった。
「充電……!」
 こっちの携帯、滅多に使わないからすっかり忘れてた。やばい、やばすぎる。ブラックアウトした画面を見つめて俺は指先が冷えていくのを感じた。個人宅で迷子とか笑えないんだけど!? 誰かに見つけてほしいのに、見つかったら通報されそうだ。
 視線をうろうろさせていたら視界の端を人影が横切った。慌ててそちらを見ると、渡り廊下のような通路が延びた先にも部屋があり、すっと障子が閉められるところだった。とりあえずあそこに人がいるっぽい。これでダメなら門まで戻るか、と決心して俺はそっと足を進める。
 そこはいわゆる離れのような場所だった。
「す、すみませーん……」
 返事は無い。あれ、確かにここに人影が見えたんだけどな。というか、障子の向こうから息遣いが聞こえる。なんか荒い……?
 もう一度声を掛けて、そーっと障子を開けた。怖いひとじゃありませんように。そう祈っていた俺の目の前に広がった光景は、あまりにも予想外なものだった。
 目立つ家具は本棚。和風で統一された部屋かと思いきや、奥の方がフローリングの床に切り替わっていてそこには壁に沿って一面本棚が並んでいた。一目ですごい量なのが分かる。けれど一番目立っているのは、家具でも調度品でもなくそこにいた人。
 その人は和装で、障子に体の左側を向けていて、……一心不乱に、腕立て伏せをしていた。
 いや、それだけならまだいい。色々納得いかないことはあるが、腕立て伏せがしたかったんだろうな、という感じでスルーできたと思う。けれどそれができなかったのは、腕立て伏せをするその人の背中に横向きに、つまり障子の方を向いて座っている人がいたからだ。和装の人は、高校生くらいの男の子を背中に乗せて腕立て伏せをしていた。男の子は本を読んでいて、一定のリズムで体が上下しているのがあまりにもシュールだ。
 すると、本を読んでいたその子がちらりと視線を上げてこちらを見た。どうでもいいけど、酔わないのかな。
「……おい、あんた誰だ。不審者か?」
「め、めっそうもない……」
「こいつに何か用?」
「ええと、この家の間取りが分かる人にちょっと聞きたいことがあって……」
 完全に不審者を見る目でされた質問に答えると、その子は「こいつ集中してるとなかなか戻ってこねえから、あと二十回くらい待ってくれ」と言った。二十回ってもしかして腕立て伏せの回数のこと? マジで?
 この角度からだと腕立て伏せをしている人の顔は全然見えない。けれど、凄まじい安定感で上下するリズムを崩さないその人は、たぶんマリちゃんの血縁じゃないかな……と思う。
 そうこうしているうちにノルマが終わったのか、ぴたりとその人の動きが止まった。ゆっくり長く息を吐いて、「……ありがとう、もういいぞ」と背中に乗っている子に言う。
「おう。なんかよく分かんねえ奴きてるぜ」
「え? ……えっ」
 その人は障子の方を見上げて、俺の存在に気付いたのかさぁっと顔色を青くした。慌てたように体を起こして着物の裾をさばき、畳に正座する。呼吸が整うの、はやすぎない? そして、顔を見て分かったんだけどやっぱりマリちゃんの身内だと思う。というか、この人がよくマリちゃんの話に出てくる『兄さん』じゃないかな。俺のひとつふたつ下くらいの年齢だろうその人は、目つきは悪いけれどとても優しそうに見えた。
「も、申し訳ございません、見苦しいものを、あの」
「えっ全然そんなことないです! 勝手に開けちゃった俺が悪いし……あ、あと俺この家の正式なお客さんとかじゃないから、ほんとお構いなく」
 申し訳なさ半分羞恥半分みたいな表情で目を伏せたその人は、それでも俺に向かってふかぶかと頭を下げた。見苦しいっていうか、寧ろ目の保養って感じだったけどね。同じ男としてこの強さは憧れる。なんかこう、「生き残れる」人だなあと思う。
 っつーかマジでめちゃくちゃいい体してんね。着物の上からでも分かるよ。どうやったらそんな綺麗に筋肉つくのかご教授願いたいって感じ。俺も暁人乗せて腕立てするべき? 絶対無理なんだけど。
 きっちり正座しているのに着物の衿の合わせが僅かに乱れていて、それを左手でぎゅっと寄せているのがいかにもエロ本とかにありそうなシチュエーションだった。実際は腕立て伏せの後だけど。着物っていいよねー、普段は露出少ないところが。女の子が長い髪まとめてるのもエロいと思う。
 マリちゃんのいとこのお兄さんの隣で、本を片手にくつろぎモードな男の子が「こいつ無視したのに勝手に入ってきただけだし、お前が謝ることねえだろ」なんて言っている。っつーか俺は無視されたのかよ。悲しくなるから俺のいないとこでそういうことは言ってほしい。お兄さんは慌てたように「なんてこと言うんだおまえは……というか気付いていたなら教えてくれ」と訴えている。
「自分の部屋だろ。遼夜の好きなことしてりゃいいんだって。気にすんな」
「奥……」
 あ、お兄さんの名前は「りょうや」っていうんだ。どんな漢字なんだろう。そんでもって呆れたような表情のお兄さんが口にした「奥」って単語は、どういう意味だ……?

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