羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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「……あ。もしかして、名字?」
「はあ? あんた何なんだよさっきから」
「きみの名前、奥っつーの? 奥さん? なんかエロいな」
 推定奥さんは、俺の言葉にひくりと口の端を引きつらせた。甘そうなチョコレートブラウンのふんわりとした髪に、俺やお兄さんよりも低い背。もしかしたら暁人よりも僅差で低いかもしれない。男の割にくりっとした瞳の可愛い顔立ちが結構印象的。男子校とかでおとなしーくしてればアイドル的ポジションになれそうな感じ。だと思う。俺見立て。
 けれどこいつは、どうやら口も悪ければ愛想も悪い。
「言うに事欠いてお前、喧嘩売ってんのか」
「お、奥。もっと口調に気を付けて……」
「遼夜はちょっと黙ってろ」
 必死にフォローしようとしてくれているお兄さんが可哀想すぎる。おそらく俺は地雷を踏んだのだろう。この呼び方は嫌らしい。二人称が「あんた」から「お前」になってるし。
「あのな、俺はふざけてその呼び方されるのがこの世の事象で二番目に嫌いなんだ。年上だろうがなんだろうが嫌だ。分かったか」
 こいつ暁人とそう変わらない年齢に見えるんだけどすげータメ口きいてくるな。でもまあ確かにさっきのは俺が悪かった。「ん、ごめん」と素直に謝って、「……一番嫌いなのは?」と続けて尋ねてみた。
「誰かがこいつを煩わせることと悲しませること」
 俺の問いかけに真顔で即答して、奥さんは隣に正座するお兄さんを顎で示す。うわあ、情熱的。お兄さん愛されちゃってんね。ちょー羨ましー。言われてる本人は若干顔引きつってる気がするけど。
 とりあえずこの重苦しい雰囲気をどうにかしなければ。俺はそう思い、懐から名刺を取り出す。
「そういえばちゃんと挨拶してなくてすみません。セツって呼んでくーださい。ちょっと縁あって、マリちゃ……あー、万里くんとは仲良くさせていただいてます」
 こんなご立派そうな人に俺の名刺を渡すのは緊張するけれど仕方がない。マリちゃんからは思いっきり「セツさん」って呼ばれてるし、なんで本名と呼び方が違うんだと突っ込まれたり、何よりこの見た目から推察されたりすればいずれバレるだろう。はたしてどんな顔をされるか。
「ああ……万里の。いつも万里がお世話になっております。私は万里の従兄で、津軽遼夜と申します」
 お兄さんは僅かに目を瞠ったものの名刺をじろじろ眺めるなんてことはせずに、笑顔で頭を下げてくる。よしよし、とりあえずうっかり部屋に入ってしまったことから話題を逸らすことに成功した。
「えーと……りょうや、さん」
「漢字の説明が少し難しいんですが、治療の療のやまいだれをしんにょうに変える――でお分かりでしょうか。その字に、十五夜の夜で遼夜といいます」
「あー、ちょっと待って。……うん、うん、たぶん大丈夫」
 遼夜、でいいのかな? 司馬遼太郎の遼だよね。人名には結構使われるけど確かに説明は意外と難しいかもしれない。遼夜さんはちょっと悩んだような顔で、「名刺もお渡しできずすみません。あの……ちょっと今本名の載っているものがなくて」と言った。え、マジで? いや、俺のもそれ本名じゃないからね、気にしないでほしい。すると隣から、続けて声がかけられる。
「奥智久です。……よろしくお願いいたします」
 遼夜さんに倣ったのか敬語で話しかけてくる奥さん。表情は相変わらずだが。名刺は無いと言われてそりゃ高校生は無いだろと返したらどうやら奥さんは卒業目前の大学生だったらしくめちゃくちゃ怒られた。っつーことは俺の二つ下……いや、俺誕生日まだだからこいつが早生まれじゃない限り一つ下かよ。浪人とか留年とかしてたら俺より年上の可能性すらある。やばい、地雷踏みまくってるじゃん俺。
 これ以上奥さんの心象を悪くしたくなくて、俺は会話の糸口を必死で探っていく。
「あの、敬語使わなくていいんで……歳、ほとんど変わんないと思うし。気にしないでほしいっつーか」
「ええと、それは……」
 困ったような曖昧な表情で笑うその様子がマリちゃんとどことなく似ていて思わず笑顔になる。やっぱり優しいひとなんだろうな。
「学校の先輩後輩くらいの年齢差しかないっしょ。俺こんなんだし、あんまり畏まった敬語使われると恐縮しちまうし、俺のためにやめてくれると嬉しいんだけど」
 何より俺の敬語自体崩れてるし。絶対奥さん(もはやさん付けするのもどうかと思う)とヒートアップしたからだよこれ。どうしてくれんの。
「じゃあ……少しだけ」
 何度も断るのは逆に失礼だと思ったのか、遼夜さんは控えめに笑って快諾してくれた。こういうところ、上品だなと思う。奥さんなどはさっきの一度きりで敬語を捨て去ったのか「あんたのこと、不審者かと思ってた。悪い」と謝ってくる。不審者ってお前。あ、でも二人称が元に戻っている。よかった。
「ところで、ご用件は……」
「あー! 忘れてた、あの、マリちゃんの部屋が」
「はい?」
「えっ、あっ! いや、違う違う。このお家があまりにも広くて万里くんの部屋どこか分からなくなっちゃって、戻れないから連れてってくれると嬉しいです……」
 迷子だったのかよ、という奥さんの声がした。そうだよ迷子だよ。悪いか。悪いな……。
 完全に俺が悪いのに、遼夜さんは「案内の者もつけずに申し訳ございません」と言ってくれる。「おれが部屋までご案内させていただいても?」なんて笑顔を向けられたので一も二もなく頷いた。素だと「おれ」って言うんだな。あんまり畏まらないで、って言ったのちゃんと気遣ってくれてる。
 隣で奥さんが嫌そうな顔をしているけど、そうか、俺今遼夜さんの手を煩わせてるからか……最後まで地雷を踏み続けてしまった。
「奥、そういうわけだからおれは少し席を外す。本でも読んでいてくれ」
「すぐ戻ってくるだろ? っつーか戻ってきて」
「……分かっているから、」
 恥ずかしそうに笑った遼夜さんの纏う雰囲気がなんだかとても甘かったので、見てはいけないものを見てしまった気分でどぎまぎする。奥さんが俺を見て長く長くため息をついて、「馬に蹴られればいいのにな……」と恐ろしすぎることを言った。それ骨とか折れるやつじゃない?
 何故だか慌てた様子の遼夜さんに促され、俺はようやくその離れから脱出を果たしたのだった。

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