羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 とてもすっきりとした目覚めだった。冷えた室内が布団の有難みを教えてくれる。どうにか起き上がって部屋を出ると、暁人が俺を見て「はよ」と言った。他の子たちはいない。帰ったんだろうか。
「おはよう。今日は出掛けんの? 他の子たちは?」
「大牙たちは俺が用事あっから帰った。俺は女への埋め合わせでこれから出る。お前絶対朝帰りだと思ってたけど昨日早かったな」
「あー……色々あった」
「なに、ヤり損ねた? 振られた?」
「友達ができた」
「はあああ? ワッケわかんね……」
 俺にも分かんねーよ。でも、悪いことではないのは確かだろ。この歳で新しく友達できたんだぞ。
 ぐるっと部屋を見渡す。とても綺麗だ。あの子たち本当に行儀がいいな、と感動していると、俺はふと視界の隅に見慣れないものを見つける。
「あれ? お前こんな財布持ってたっけ」
 暁人が財布を拾って首を傾げる。暫く唸っていたが、やがて「あ。これ万里のだわ。忘れてったのかな」と眉を下げた。
「えっ。届けなくていいの?」
「いいだろ別に。あいつ移動は定期券だし、忘れてまずいモンなら途中で帰ってくるだろうし」
「いやお前今日出掛けるっつったんだろ? 家入れねえじゃん」
「そこまで言うならお前が届ければ? 職場と近いだろ。仕事行くついでにさー」
 はい、と手渡された革製の財布は長年使いこんだ風合いのいい色をしていて、良質なものを長年使うタイプなんだろうな、とイメージぴったりだったことに少し嬉しくなる。
 マリちゃんの家に寄るくらいなら、精神的にはともかく時間的にはそこまで負担でもない。あのお屋敷、ちょっとまだ怖いんだよな……でもマリちゃん財布無いと困るだろうし、届けてあげたい。
 弟を見送った俺はマリちゃんにメールをする。返事は思いの外早くきた。どうやらマリちゃんはもう家に着いてしまっているようで、財布を忘れたことについさっき気付いたのだそうだ。まだお家にいらっしゃるなら取りに行きます、と言われたけれど、そんなの手間だからいいよ届けるよ、と返す。あの家とここをもう一往復とか、嫌だろ普通に。
 遠慮するマリちゃんを半ば押し切るかたちで説得して、すぐに家を出た。仕事に行くにはあまりにも早すぎる時間だったけど、仕事前の飯はどうせ外食だから仕事場の近くでいいしなるべく早く届けるのがいいと思って。それに、今までのパターンを考えると財布を届けた時点で「お茶を出すのでぜひあがっていってください」ってことになりそうな気もしたし。時間に余裕があるに越したことはない。
 門のところで待ちますというマリちゃんの申し出は断った。めちゃくちゃ寒いのにそんなことする必要無い。
 もう何度目かになる道をてくてく歩いた。ぴゅう、と強く風が吹いて思わず肩を竦める。指先が冷たくて、息を吐きかけて気休めのように温めた。
 門前まで辿りついて、そういえばマリちゃんに「着いたら連絡くださいね、すぐに迎えに行きますから」と言われていたことを思い出した。一言だけ、『着いたよ』ってメールをする。インターホンを押すとすぐに門が開いて、お手伝いさんなのであろう女性が姿を現した。
「すみません、……万里くん、にお届け物です。俺、万里くんの同級生の兄なんですが」
 呼び慣れていないので一瞬言葉がつっかえてひやりとする。改めてマリちゃんとの関係性を説明しようとすると難しいな。なんで同級生本人じゃなくて兄貴が持ってくるんだよって話になるし。
 我ながら不審者すぎると思ったのだが、その女性は「寒い中ご足労いただきありがとうございます、お話は伺っております」と言ってにっこり笑う。あ、マリちゃん、俺が行くことちゃんと話しておいてくれたんだ。そっと胸をなでおろした。
 お会いするのは二度目ですねと付け加えた彼女にまったく覚えが無かったのだが、ぴんときた。俺がマリちゃんに介抱してもらったとき、俺のこと見たんじゃないかな。金髪ピアス見ても不審がってねーもん。まあ、顔に出さないだけかもだけど。
 というかつまりこの人、俺が酔っぱらってぶっ倒れて運び込まれたのを見てるんだよな……そう考えると急に恥ずかしくなってくる。いたたまれない。あまり見ないでほしい。ダメな社会人の見本みたいだ。
 一刻も早くこの状況から抜け出したいし、「それではご案内させていただきます」とお手伝いさんが深く頭を下げたのに恐縮してしまう。俺はそんな懇切丁寧な対応が必要な人間ではない。適当でいいのに。
 歩き出そうとしたとき、長い廊下の向こうからやってくるマリちゃんの姿が見える。たぶん走ったりできなくて、でも最大限急いでいることが分かるその様子に思わず頬が緩む。手を振ると、マリちゃんも笑った。
「セツさんすみません、わざわざご足労いただいてしまって……」
「や、いいって別に。仕事行くついでだったし」
「あの、もしよければお茶でも飲んでいかれませんか。寒かったでしょう」
 前は辞退したけれど、今回はせっかくなので少しだけお邪魔することにした。マリちゃんはお手伝いさんに「お茶とお菓子をおれの部屋までお願いします」と言う。ああ、そっか。この人が用意してくれるんだ。お手伝いさんは「かしこまりました。失礼いたします」とお辞儀をして凛と背筋を伸ばして去って行った。
 この家の人は歩く姿が綺麗だ。しっかり前を見つめて、真っ直ぐブレずに歩いていく。
 俺はマリちゃんの後について歩きながらそんなことを思う。案内された部屋は、畳のいい匂いがした。
「お邪魔します」
「ふふ、どうぞ。足、崩しても大丈夫なのでお気になさらないでくださいね」
 きちっと正座をするマリちゃんに座布団を勧められて少し悩んだけれど、正座したら立ち上がれなくなりそうだったので素直に胡坐で許してもらおう。
「今日もお仕事だったのに、本当にすみません。うっかりしていて……」
「気にしないで。ほら、店と結構近いじゃん? 散歩がてら丁度よかったよ」
 財布を差し出すと、渡す拍子に指先が触れた。わ、マリちゃんの手あったかいな。そんなことを思ったのも束の間、俺の手はその温かい手にぎゅっと包み込まれる。びっくりしてマリちゃんを見ると、マリちゃんは俺の手を見つめて本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
「……外、寒かったですよね」
 吐息と共に漏れたような囁きはどうしてだか妙に甘く聞こえて、どきりと心臓が跳ねた。
 マリちゃんの指が俺の手の甲を滑って、爪のかたちを確かめるように撫でて、指の腹を優しくなぞっていく。マリちゃんの両手が俺の指を挟むように包み直したあたりではっと我に返った。心臓が早鐘を打っている。耳が熱くなって、痺れるような感覚がする。「あっ、あの、マリちゃん」思わずあげた声も見事にどもっていた。恥ずかしい。
 マリちゃんはきょとんとして、次いで慌てたように「すみません、触ってしまって」と手を放す。名残惜しいような残念なような、そんな気持ちになって俺は内心混乱していた。なんだこれ、おかしいだろ。
「ごめん、びっくりしちゃって……嫌だったわけじゃない、から」
「いえ、突然触ってしまうのびっくりしますよね。すみません……」
 少し手が荒れているみたいですけど大丈夫ですか、と心配されてしまった。元々俺の手はそんなに綺麗じゃないけど、冬場は特に水仕事の多さも相まって荒れる。毎年のことで仕方ないからもう気にすることもなくなっていたのに、マリちゃんは当たり前みたいな顔で気付いてくれて心配してくれるんだな。
「水仕事するからどうしてもねー。あんま気にしてなかったわ」
「そうなんですか? 痛そうだったので気になったんですが」
「へーきへーき。荒れまくってて汚いなーとは思うけどまあ男の手だしあんま関係ねーかな」
 マリちゃんは俺の言葉を聞いて動きを止めた。「あの、もう一回触っていいですか?」おずおずと言われて、内心少し慌てながら頷くとそっと手を取られる。
「昨日も、似たようなことを言いましたけど」
 静かに言葉を紡ぐマリちゃんの手つきはとても丁寧で、壊れ物に触っているみたいに繊細だった。慈しむような手つきだと思った。
「汚くなんてないですよ。おれ、セツさんの手は綺麗だと思います」
 流石に気遣いというか、お世辞が過ぎる。そう言ってみると、「べつに見た目とか、そういうことじゃないんです」と穏やかに返された。
「――誰かを大切にしている手だな、と思うので」
 そのマリちゃんの言葉に俺はかなりの衝撃を受けていた。これまで価値観や育ちの違いを感じることは多々あったけれど、まだこんなに新しく驚くようなことを言うのか。
 綺麗っていうのは、見た目が整っているとか傷が無いとか、そういう意味合いだけの話ではないと思う、とマリちゃんはぽつりぽつりと話してくれた。マリちゃんの触れた部分が熱くて、少し震えた。
 世の中には、見た目が全てじゃないとか内面のよさが表情に滲むのだとかの綺麗事が溢れていて、俺はそういうのに懐疑的だった。どちらかというと俺は見た目で得をしてきたタイプだと思うから。その分見た目で損をする人もいるのは悲しいけれど事実だ。
 けれどマリちゃんは俺のこの荒れまくった手を綺麗だと言って笑ってくれた。「誰かを大切にしている手」だと言ってくれた。別に誰に認めてほしいって思いながら家事や暁人の世話をしてたわけじゃないけど、でも、ちゃんと見てくれている人がいたというのは、なんだか言葉にできないくらい嬉しい。
 俺にとっては綺麗事だとしか思えなかったことを、マリちゃんは当然そうであるみたいに実感しているのかと考えるとどうしてだか少し泣きそうになった。やっぱりマリちゃんといると俺は些細なことがきっかけでおかしくなるみたいだ。勝手にどきどきするし涙腺が緩む。
「おれは、すきですよ」
「な、に?」
「あなたの手、すきです」
 俺はマリちゃんの優しすぎる言葉に「ありがとう」と言うのがやっとだった。本当はもっと色々、言うべきことがあると思うのに。
 マリちゃんの手を放す気になれなくて黙りこくっていると、障子に影が映ってお手伝いさんの声がする。マリちゃんはまた穏やかに微笑んで、あっさり俺の手を放してしまった。
 たぶんこれはマリちゃんにとっては本当に些細なことでなんでもない言葉で、けれど俺はそれに救われているのだ。この手のひらのように温度差がある。これもまた、仕方ないことなんだろう。
 お茶とお菓子を持ってきてくれたお手伝いさんがいなくなって、おそらく俺の人生で一番高級かつ丁寧な淹れ方をされたのであろう緑茶を飲んだ。
 全然苦く感じなかったのが、逆にちょっぴり寂しくなった。

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