羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 次の日の朝、いつもよりだいぶ遅い八時ちょっと前に目を覚ますと、他のやつらは既に起きて活動を開始していた。驚いたことに暁人も起きている。どうやら昨日は休みの日の暁人にしてはかなり早寝だった方らしい。
「お。万里起きた! お前が最後まで寝てるの意外だったわ」
「あはは……実は昨日、夜中に一度起きちゃって」
「あー、床固かった? ごめん」
 謝られてしまったので慌てて首を振る。セツさんが帰ってきたときに目を覚ましたのだと言うと、暁人は瞳をまんまるにして驚いた。
「は? 昨日兄貴帰ってきたの?」
「うん。部屋で寝てるんじゃないかな? 昨日は目が覚めちゃったから部屋でセツさんに話し相手になってもらってたんだ」
 暁人は絶句した。何かまずいことでも言っただろうか。不安に思っていると、「……部屋? 部屋ってあいつの部屋だよな?」と念を押される。頷いた。「お話しませんかって言ったら、『じゃあ俺の部屋に行こう』って……」暁人はまたしばらく黙って、やがて細く長く息を吐いて笑った。
「万里」
「な、なに?」
「ありがと」
 どうしよう、なんでお礼を言われてるんだおれは。全然分からない。寝起きで頭が働いてないのだろうか。
 暁人はおれの混乱を表情から読み取ってくれた。「あいつ、他人を自分専用のスペースに入れるのとかすげー嫌がるんだよ、ほんとは」とおれの目を真っ直ぐ見つめて言う。
「そ――そうだったのか。ご迷惑だったかな……」
「逆だろ逆。嫌だったら適当に理由つけて断ってる。あいつクチうまいかんね」
 失礼ながらセツさんのことをそんな風に感じたことはあまり無いのだが。口が上手いというか、何でも丁寧に真っ直ぐ応えてくれるイメージがある。そう言うと、「もしお前がそう感じるんだとしたらそれはお前のお陰なんだと思う」なんて返された。
 おれは特別なことなんて何もしていないのに、何がどうおれのお陰なのだろう。でも、セツさんがあんな風に笑ったり喋ったり、色々な表情を見せてくれるのがもし「相手がおれだから」なのだとしたらそれはとても、嬉しい……というか、優越感がある、気がする。
 セツさんは朝帰りなんじゃないかと暁人が言っていたとき、なんとなくもやもやした気持ちだった。おれに詮索する権利なんてものは一切無いのに、どんな人と会っているんだろう、と気になってしまった。ちらっと思っただけだけれど、一瞬でもそんな考えが浮かんでしまったことはなんだかとても大きな意味があるのではないかと思う。
 だからまあ、あのときセツさんを目の前にして、まだ朝じゃなかったことになんだか嬉しくなった。本当に、おかしな話だ。もしかすると嫉妬しているのだろうか、と考えて、咄嗟に出てきた単語にびっくりする。嫉妬って、誰にだ?
 心が波立った。水面に小石を投げ入れた程度には、波紋が広がる。
 ううん……セツさんと会っていたであろう女性に、だろうか。というか、そうとしか考えられない。でも、そうだとしたらちょっと自分にがっかりなのだが。構ってもらえなくて拗ねている子供みたいじゃないか。
 いや、もちろんおれはまだ子供だし、セツさんと喋っているときがおれにとってとても楽しいひとときなのは確かだし、セツさんはとても素敵なひとだから、女性も放っておかないだろうというのは分かっているけれど。
「なあ、暁人。セツさんって恋人を連れて帰ってきたりはしないのか?」
「えー? あいつ決まった恋人作ってねーよ。絶対家には呼ばねーし……」
「あの、部屋に入れたり、とか」
「無い無い! ありえねー、今まで一度も見たことねーもん。あいつの部屋は基本的に大牙も入らない。あいつ一人でいるの苦手なくせに一人の時間欲しがるからマジで謎だよ」
 そうか。大牙も入らない、のか。
 ああもう……結局詮索してしまったし。セツさんには謝っておかないといけない。でも、暁人の返答を聞いた瞬間少しほっとした。
 暁人がたまに話す、女の人と一緒にいるときのセツさんの姿はおれが知っているものとは随分と乖離しているから。別にどちらが本当ということもなくてどちらもセツさんなのだというのは分かるのだけれど、おれは何人もの女の人をスマートにエスコートしているセツさんよりも些細なことで慌てたり照れたり笑ったりしてくれるセツさんの方がなじみ深い。……昨日会っていたのは恋人さんではなかったのかな? と、また色々考えてしまいそうになって慌てて気持ちを切り替えた。
「っつーか万里この後どーする? 俺今日外出なきゃなんだわ、女が予定埋め合わせしろってうるせーのよ」
「そうなのか。他のみんなは?」
「大牙と茅ヶ崎は夜まで親いねえから時間潰して帰るって。清水はしぶってたけどせめて今日くらいは家族で過ごせっつっといた」
「あはは……じゃあおれも帰ろうかな、正月前後は家が忙しいし。お世話になりました」
「おーお疲れ。どうする? 兄貴起こす?」
「いやいやいやなんでだよ……今日もお仕事だろ、だめだよ」
 わざわざおれのために起こしてもらっては申し訳ない。まあ、昨夜セツさんの睡眠時間を削ってしまったかもしれないおれが言えた話ではないかもしれないが。
 今はほんの少し顔を合わせづらいから、次にお会いできたときに余計な詮索をしてしまったのは謝ろう。おれはそう決意して、みんなより一足先にその家を後にした。
 セツさんに会わないうちに……と焦っていたからだろうか。忘れ物をしてしまったことに気付いたのは、家に帰って一息ついてからのことだった。

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