羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 その日から三日間。たった三日間だけれど、とても充実した時間だった。午前中はケーキの材料の計量をして、少し長めの昼休みでご飯をいただく。昼休みが終わったらランチに使った食器を洗って、午後は二度目の計量と、焼けたスポンジが冷めたらデコレーションのお手伝い。ひとつの作業が終わるとちょうどよく次のことができるようにスケジュールが組まれていて、大きな戸惑いもなく終えることができた。
 朝が早い代わりに帰りも早い。たぶん、おれの夕飯の時間を気遣ってくれたのだろうと思う。高槻さんはおれが帰った後もケーキ作りを続けていて、翌日のケーキケースの中には完成したケーキがきちんと並んでいた。この三日間頑張った成果のように思えて、ケースを確認するのが楽しみだった。ケーキを予約していたお客さまが店まで完成品を受け取りにきて、自分が作るのを手伝ったものがどれだけの値をつけられて売られるのか、というのも見た。どれも、貴重な経験だった。
 最終日、昨日よりも一時間ほど早く全ての作業が終わって、おれは高槻さんに改めてお礼を言った。こんな風に働けると思っていなかったから。
「三日間ありがとうございました」
「いや、こっちこそ。手伝ってくれてありがとな。これ、バイト代とお土産」
 そう言って茶封筒と共に差し出されたのはケーキ用の箱。思わず受け取ってから、慌てた。
「えっ、あの、これ」
「開けてみれば?」
 言われるがままに銀色の調理台の上に箱を置いてそっと開けると、中にはチョコレートのロールケーキが入っていた。これは――ブッシュ・ド・ノエルだ。雪のように真っ白な生クリームでコーティングされたロールケーキに、ココアパウダーがまぶしてある。ケーキの縁は削ったチョコレートで飾られていた。この削ったチョコレートのことをコポーと呼ぶのだと知ったのは、一昨日のことだ。
「あ――ありがとうございます、何から何まで」
「生地余ったから作っただけだしそんな気にすんなよ」
 ここ数日の計量はずっとおれがやっていたからこそ言えるのだけれど、これはちょっと余ったから、という程度で作れる大きさではない。きっとわざわざ一から作ってくれたのだ。一体いつの間に作ったのだろう。まさかおれが帰った後に作ってくれていたのだろうか。バイトに来たはずがもてなされお土産までいただいてしまった。
「……おれ、きちんとお手伝いできていましたか?」
「十分すぎるくらいできてた。お前が手伝ってくれたから徹夜しなくて済んだし……ああ、あと、お前の兄貴を引き合いに出したのは悪かった」
「え?」
「バイト頼むとき、兄貴みてえに不器用じゃなければ、っつったろ。あいつが器用じゃねえのは事実だけど、気ィ悪くさせたならごめんな」
 俺が言ってたってあいつには内緒にしてて、と言われたのでなんだかおかしくて笑ってしまう。兄さんは自分の手先の不器用さをきっちり自覚しているので怒ったりはしないと思うけれど、内緒にしておこう。
 店員さんにも全員お礼を言ってから店を出た。途端に息が白くなる。空気が澄んでいていい日和だ。
 上機嫌で駅に向かおうとしていたのだが、踏み出した瞬間に携帯が震えたので道の端に寄って通話ボタンを押す。どうしたんだろう、一体。
「暁人?」
『――あっ万里! お前もうバイト終わった? この後暇なら俺んち来ねえ?』
「今ちょうど終わったところ。どうしたんだいきなり」
『ナイスタイミング! やー、どいつもこいつも揃って予定ゼロっつーからこれから鍋パすんの。ウケるっしょ、クリスマスイヴなのに男しかいねーんだわ』
「え、どいつもこいつもって……? みんないるのか?」
『いるよ、大牙に清水に茅ヶ崎がいる。清水がさー女呼ぶの嫌がるんだよ。枯れてんね。ほんとは今朝お前も誘おうと思ったんだけどそういやバイトだったわーってこの時間になった』
 なんだかよく分からないけれど行けばいいのだろうか。こういう行事を友達の家でするのって初めてかもしれない。家に電話は後でするとして、このケーキもみんなで食べればちょうどいいかな。高槻さんも、なるべくたくさんの人に食べてもらう方が喜んでくれる気がする。
『っつーか聞いて、鍋パの材料二種類ずつ持ち寄りっつったら豆腐と牛肉と鶏肉とつみれと白滝と鶏肉が来たんだけど! 肉被りすぎじゃね?』
「あはは……ケーキならあるよ、今」
『マージーで! 超クリスマスっぽいじゃーん。じゃあ鍵開けてっから勝手に入って!』
 ブツッ、と勢いよく切れた電話。とりあえず家に電話して夕飯は大丈夫ですと伝える。そして、お邪魔するのだからおれも鍋の材料を買っていこうと思った。
 これまで普段のちょっとした買い物は学校の購買で殆ど事足りていたので、こういうところでスーパーに入ることはあまりない。物珍しい気持ちで明るい店内を一周して、悩んだ結果白菜としめじを買った。お肉は大量にあるようだし、こんなものだろう。
「おじゃまします……」
「あっ万里きた! ケーキもきた! 冷蔵庫に適当に入れといてくんね?」
「いや流石に冷蔵庫を勝手に開けるのはちょっと……」
「いいって。兄貴が冷蔵庫の中片付けて仕事行ったから今鍋の材料とコーラと水しか入ってねーよその冷蔵庫」
 あ、セツさんはいらっしゃらないのか。少し残念だ。「お仕事大変なんだなあ、クリスマスにまで」と言うと、「稼ぎ時だかんね。まーでもどうせ今日は仕事あがってそのまま女と会うつもりだろうしそれまで存分に仕事してりゃいーと思うよ。朝帰りコースだなきっと」と返される。
 俺はそれを聞いて僅かに動揺してしまった。そうか、女のひとと会っているのか。クリスマスだし、セツさんは大人なのだから、さもありなん。
 なんとなく言葉が見つからなくて、そっと冷蔵庫を開けてケーキと鍋の材料を収める。
「万里くん」
「わっ……ごめん気付かなかった、なに?」
 冷蔵庫を閉めようとしたところで後ろから声がかかった。耳くらいの位置から下が金髪で上は黒という不思議な髪色が今日も目立つ。宏隆は、「んー、うしろ姿がなんだかしょんぼりしてたから? 気のせいだといいな」と起伏のない喋り方で微かに笑う。
「そうかな。バイトの帰りだから少し疲れてるのかも」
「あ、それケーキ? 由良から聞いたよ。お疲れさま」
「ありがとう。きっと美味しいよ、バイト先の店長さんがわざわざ作ってくださったんだ」
「そっかぁ、たのしみだね」
 最近ようやくこの友人の感情を読み取れるようになってきた。どうやら暁人は問題なく分かっているらしいけれど、正直すごいと思う。そういえば、宏隆が女の人を呼ぶのを嫌がった、って暁人は言っていたな。苦手なのだろうか。まあおれも、遠慮したくはあるのだけれど。
「? 万里くんどうかした?」
「ああ、いや……知らない女の人がいるのはちょっと困るなと思ったから、そういうのでなくてよかったなって」
 暁人のようにきちんと喋ることはできないし、なんだか怖い。そんな正直な気持ちから言うと、宏隆は「ふふ、俺が反対したって電話口で言ってたねそういえば」と笑う。さっきよりも分かりやすい笑顔だ。
「女の子呼ぶと、俺が由良に構ってもらえなくなるからね」
「え?」
「んふふ。瞳が緑色……」
 はやくおいでよと言われて慌てて宏隆の後を追う。謎かけみたいな言葉だった。どういう意味だろう。
 それにしても、宏隆にはおれがしょんぼりして見えたらしい。さっきはああ言ったけれど、特に疲れは感じていない。心当たりがあることといえば、セツさんのことだろうか。それにしたってしょんぼりというよりは、動揺した、の方がやっぱりしっくりくると思う。
 当たり前だけれど、おれの知っているセツさんが全てではない、のだ。
 女のひとにもあんな風に優しくきらきらした笑顔を向けているのだろうか。向けているのだろうな。特別な日に会うのだから特別なひとだ、きっと。
 そこまで考えて、プライベートの詮索をするなんてみっともないし失礼なことだと自分の思考回路を叱責する。どうしてこんな風に考えてしまうのか、よく分からないのもおれの動揺に拍車をかけている気がした。
「あっ万里戻ってきた、ねえこれ代わってもらっていい? 俺もうマリカーしたくない……一時間くらいずっとやってるんだよ」
 大牙に声をかけられてはっとする。そうだ、今ここにいないひとのことを考えて、みんなを心配させてしまってもいけない。「まりかー」って、なんだろう。こんな風に五人揃うのは珍しいから、楽しくやりたい。
 おれは大牙の隣に腰を下ろす。一瞬感じた動揺のような何かは、大牙にゲームのコントローラーを手渡されて操作説明を受けているうちに、頭の隅に追いやられて忘れてしまった。

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