羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 初バイトの日まではあっという間で、おれはいつもの螺旋階段ではなく、従業員用の裏口を使って店に入る。時刻は朝七時二十分。普段学校に行くのと同じくらいの時間に家を出て、約束の時間より十分早く着いた。
 バイトの詳細を聞いたとき、随分と時間が早いんだなと思った。高槻さんは申し訳なさそうな顔で、「土日に店は休めねえし、ランチと並行でケーキ作るのも無理だから。悪いな」と言った。早起きは慣れているので構わない。寝坊をしたのはセツさんと初めて会った日くらいだ。それを考えると本当に、すごい偶然だと運命のようなものを感じる。
「朝飯ちゃんと食ってきたか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「昼飯代は出す。俺が作ってもいいしお前に任せる」
 なんだか至れり尽くせりだな、と思いながら高槻さんから受け取ったエプロンをつける。高槻さんのとは違って首からかけるタイプのものだ。腰から下だけのエプロンでは絶対に服を汚してしまうだろうと不安だったのでほっとした。
 お菓子作りなんてしたことがないから一体どれだけ難しいことをするのだろうかとどきどきしていたのだが、高槻さんが「最初っから初心者でもできる範囲しかさせる気ねえよ、売り物だしな」と微笑んでくれたのでどうにか心を落ち着かせることができる。手を綺麗に洗って、本格的な厨房に感動を覚えつつ、おれの初めてのバイトはスタートした。


 とりあえず一時間ほどが経って、高槻さんは「全然心配すること無かったな」と卵白を泡立てながら呟いた。
 おれがやったことといえば小麦粉を量ったり牛乳を量ったり砂糖を量ったりバターを量ったりそれを湯煎で解かしたり、ひたすら卵を割ってカラザを取ったりしたくらいだ。高槻さんに渡されたレシピ通りに計量するのが主な作業内容だったので、自分ではきちんとできたと思う。粉をふるうのは少し難しかった。だまになっていた小麦粉が、三回ふるいにかけてさらさらになっていくのを見るのは楽しい。
「お前丁寧だし作業速いな。そこそこ器用なんじゃねえの」
「まあ、少なくとも兄さんよりは……」
「あいつは論外」
 ばっさりだった。そこまで言い切るほどの何かがあったのかもしれない。怖くて聞けない。
 高槻さんは教え方が優しい。言葉で説明するよりは実際に見せて教えるタイプのようだ。隣で見ていると本当に料理が好きなんだろうというのが感じられる。
 ケーキは頂き物とかで食べることも多いけれど、実際に一から作っているのを見るのは初めてだったのでいくつも新鮮な驚きがあった。何より、手間をかけて大切に作っているのが分かって、このバイトができてよかったと思った。
 そして、バイトの収穫でもうひとつ。高槻さんは、ぽつぽつと兄さんの話をしてくれた。おれとの共通の話題ということでそれを選んでくれたのだろう。足が速くて入学してすぐ陸上部のレギュラー入りしたとか、実績もない全然ぱっとしない陸上部をインターハイまで連れて行ったとか、そういうのだ。高槻さんの話は、いくらおれが兄さんの身内だということを差し引いてもべた褒めな内容で驚いた。以前、会いたくない、というようなことを言っていたからあまり個人としては好きではないのかもしれない、と思っていたけれど、そうでもないらしい。よかった。兄さんにも高校時代があったんだよな、当たり前だけど。
 作業をしているうちに他の店員さんが出勤してきて挨拶を交わす。女性と男性一人ずつで、とても若かった。たぶん、高槻さんより年上はこの店にはいないのだろう。女のひとはずっとホールで、男のひとが時折厨房に入ってサンドイッチを作ったりしていた。もしかするとこのひとが、大牙の先輩で剣道部のOBなのかもしれない。いつか話す機会があれば聞いてみよう。
 生地を流し込んだケーキの型を三台オーブンに入れて一旦ボウルなどを片付けて、ちょうど十一時になる。タルト生地は一晩寝かせて明日使うらしい。そっちも楽しみだ。
「朝早かったから腹減ってるだろ、飯どうする。この近くだとコンビニと、スーパーと……弁当屋もある。ここで食ってもいいから、好きなの選べよ」
「代金はお支払いするので、ここでいただきたいんですが……」
 ここのランチはどう考えてもスーパーなどで買うよりは高いだろうからそう言ったのだが、高槻さんは嬉しそうに「俺の作ったものを選んでくれんの? 金なんて気にしなくていいから好きなだけ食ってけよ」と笑った。
 きっとこのひとは、料理を作ることもだけど作ったものを食べてもらうことが何より好きで嬉しいのだろう。
 そういえば以前、高槻さんとセツさんがカクテルを作るときの手つきはなんとなく似ているな、と感じたことがあった。セツさんはどんな風に料理をするのか気になる。
 誰かのために何かをできるひと、というのは、どうしてこんなに優しく笑えるんだろう。
 エプロンを脱いでハンガーに引っ掛けて、カウンター席に移動するとホール担当なのであろう女のひとがおれを見てお冷を持ってきてくれた。
「お疲れさま、早くから大変だったでしょ? すぐランチ用意するから待っててね、まあ用意するのはあたしじゃなくて店長なんだけど。あたしは運ぶだけ!」
 けい兄のご飯はおいしいでしょ、とそのひとはまるで自分のことのように得意気に笑う。高槻さん、大牙にもだけどこの店では下の名前で呼ばれてるんだな。頷いて、ここの店員さんはみんな仲がいいんですねといったことを言ってみると迷いのない瞳で「そうね」と断言された。
「ここは店だけど、家だから」
 スズキのムニエルとポークソテーのマスタードソース掛け、どっちがいい? とその後にすぐ続けられたので、その女のひとの発言について詳しく聞く暇はなかったのだけど、この店は店員さんに愛されているのだな、というのは強く感じる。
 素敵なお店で素敵なひとたちが働いているのだ。
 おれもなんだか嬉しくなって、突然空腹を自覚する。やっぱり厨房にいる間は緊張していたのだろう。魚がいいですと伝えて、このお店を知ることができてよかった、と改めて思ったのだった。

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