羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 教室に戻るとやっぱりというかなんというか、あのバカ弟はいなかった。あいつの自由行動は今に始まったことではないので構わないが、マリちゃんが焦っていたのがひたすら申し訳なかった。普段からこんな感じで振り回されたりしているんだろうか。そういえば、あいつの部屋の掃除してくれたのもマリちゃんなんだっけ?
 大牙くんもそうだけど、あいつは友達に恵まれてるんだからもっと大事にしろよと思う。さっきこの教室で会った、金髪と黒髪のプリン頭の男の子もいい子そうだった。あと大牙くんの後ろにめっちゃタッパある子いたな。あの子も友達かな。
 弟の交友関係に思いを馳せつつ、さてこれからどうしよう、とちょっと悩む。散々恥ずかしいことを言った気がするのでちょっと今マリちゃんとは目を合わせづらいのだ。打算抜きで正直に自分の気持ちを表現するのがこんなにハードル高いとは思わなかった。っつーか、あの、正直もう何をどんな風に喋ったのかよく分からなくなってきている。発言内容の恥ずかしさにそれどころではなかった。
 俺と俺の作るカクテルだけじゃダメ? って、そんなの女口説くときすら言ったことねーよ。何を口走ってんだ俺は。でもマリちゃんが「だめじゃないです」って即答してくれたのめちゃくちゃ嬉しくて言ってよかったって思ってしまった。なんかもう世紀末って感じ。
 マリちゃんが暁人の友達だった、っていうのを知って、最初は驚いたけど嬉しかった。どうやら弟のなかでマリちゃんは家に呼んでも構わないくらいの親しい間柄だって分かったから、じゃあマリちゃんがもしうちの店に来ることをやめても、縁が切れるわけではないなと思って。
 それなのに「暁人がいなくても来ていーよ」なんて言ってしまったのは、たぶん俺のちょっとした期待。
 暁人に会うついでじゃなくて、俺と俺の作るカクテルを目的にあの家に遊びに来てほしい、っていう。
 我ながら女々しい。本名を呼んでもらいそびれたから、あんな余計な期待を表に出してしまった。せめてこれだけは、と。
 マリちゃんはきっと、あのとき呼び方を変えようとしてくれたんだと思う。でも、どうしてだか自分の名前が聞こえた瞬間勝手に肩が跳ねた。あの優しそうな声音で下の名前を呼ばれて、率直に言って緊張した。名前を省略せずに呼ばれることがあまり無いから、だと、思う。そしてその緊張を、マリちゃんは俺がその呼び方を嫌がっているのだと勘違いしてしまった。
 釈明する前にマリちゃんは新しい呼び方を撤回してしまって、そのとき少しだけ悲しそうな表情をしているように見えたから余計に心が痛んだ。嫌じゃない、って言うだけなのに、何故か声が出なかった。
 きっと俺は傷付いたのだ。
 名前を呼ばれたことにじゃない。下の名前で呼ばれるのが嫌だと、マリちゃんに勘違いされたことに傷付いた。そんな勘違いをされるほど、これまでの態度に問題があっただろうか? と思った。気を遣われたのがショックだったのだ。他人行儀に感じられて。嫌なわけないじゃん。俺が、マリちゃんに名前を呼んでもらうのを嫌がるって思ったの? それは、ちょっとへこむ。
 マリちゃんは優しい。色々考えて接してくれてるんだろうな、って分かる。でもそろそろ、気を抜いてくれてもいいのに。他の奴にするのと同じような遠慮をしてくれなくても、俺はもう――。
「……セツさん? 少し歩きませんか?」
「え? あ、捜しに行く? ごめんね、バカ弟が迷惑かけて……あいつマジで勝手だから」
 思考が中断されて少しだけほっとした。これ以上余計なことばかり考えたくなかったから。マリちゃんについて考えてるときの俺、ちょっと情緒不安定すぎない? 感情の浮き沈みが激しすぎて心が疲れる。些細なことで喜んで、どうでもいいことでオチて、何やってんだと思う。
 俺よりまだ少しばかり目線の低いところにいるマリちゃんは、悩みつつ歩を進めている。そんなマリちゃんに「とりあえず一旦校舎の外出よう。人多くて歩きにくいし」と言って先導するように一歩前へ踏み出した。弟の居場所、心当たりがなくもない。
 マリちゃんはおとなしくついてきてくれて、向かったのは人気の無い第二グラウンド裏のベンチ。俺も高校時代はよくお世話になってた。ここ、人が来ないんだよな。授業でもこのグラウンド使った記憶ねーけど、どっかの部活専用だったりすんのかね。
 到着すると想像通り、暁人がいた。というか四人まとめていた。暁人は俺たちを見てデカい舌打ちをすると、「おっせーんだよ!」と引き続きキレてますって感じで言ってくる。
「テメーが勝手に移動したんだろーが! ったく無駄に歩かせやがって」
「は? こちとら全然納得いかねーことばっかなんだっつーの! なに!? なんで俺のいないとこで仲良くなっちゃってんの!? なんなの!?」
「だからなんでそんなキレてんだよ!」
 ああああ、兄弟の醜い言い争いが弟の同級生の前で繰り広げられてる……。大牙くんが呆れたような顔で暁人を宥めてくれているのも申し訳なさ過ぎる。こいついつもこんな感じなの? 我が弟ながら心配になってくるぞ。
 そういえばちゃんとした自己紹介すらまだだった、と気付いたので暁人は放っておいて簡単に自己紹介を済ませる。プリン頭の子は宏隆くんで、背の高い子は佑護くんっていうらしい。高校に入って友達増えたんだな暁人。
 まだぶすくれていた暁人にコーラの残りをやったら「飲みかけかよ!」と言いつつ機嫌が直ったので、お手軽だなとちょっと愉快な気持ちだ。
 結局、マリちゃんが「ちょっと縁あって知り合ったんだ。実は暁人よりも先に面識があったんだよ」と軽く説明してくれた。俺が酔っ払って路地裏にぶっ倒れてたのを介抱してくれましたー……っていうのを言わなかったのはマリちゃんの優しさなのだろう。ごめんマリちゃん。
「このチャラ男と何をどうやったら知り合うんだよウケる! しかも仲良しだし!」
 ベンチにふんぞり返って大ウケしている弟。お前さっきまで不機嫌マックスだっただろーが。変わり身早すぎだ。
 なんであんなにキレてたんだと改めて聞いてみると「俺の祈りを無下にされたからだよバーカ、お前が珍しく入れ揚げてるからどんな女かと思ったのに」と意味の分からないことを言われる。お前は何に何を祈ってたんだよ。入れ揚げてるってなんだよ。謎しかない。こいつ絶対言葉の意味分かってねーだろ。
「はー、叫んだら腹減ったわ。夕飯は肉だな。焼肉がいい。俺は今日焼肉を食いに行く!」
「どんな宣言なの……俺も行こうかな、夕飯無いし」
 暁人と大牙くんが連れ立って飯を食いに行くのは珍しいことではないから傍観していたのだが、今日はそのやりとりに続きがあった。
「あ、俺もついてっていい?」
「清水も夕飯ねーの? いいぜお前も来いよ」
「佑護も、家の都合が悪くなければどう?」
「……別にいいけど。どうせ何も言われねえし」
 なにこの子たちみんな夕飯無いの? 俺が言うのもなんだけど大丈夫か。そして俺の隣でその様子をちょっと羨ましそうに見ているマリちゃんが気になる。マリちゃんの家って毎日欠かさず夕飯用意されてるんだろうな。
「万里くんはおうち厳しんだっけ? 夕飯いっしょに食べない? むり?」
「ええと、おれは……」
 問われて少しだけ悩むような顔をしたマリちゃんは、意を決したように「電話してみるよ」と言った。大丈夫かな。夕飯作り始める時間に間に合うといいんだけど。
 少し離れた場所で電話をし始めたマリちゃんを横目に、暁人が「お前いい仕事したな」と宏隆くんに偉そうな態度をとっていたのではらはらする。言われた当人は「もっとほめていいよ」とゆるく喜んでいた。よかった心の広い子で。
 家に電話をかけているはずのマリちゃんの口から敬語が聞こえてくるのに幻聴だろうかとカルチャーショックを受けつつ、こりゃ自分の夕飯はコンビニで済みそうだなと手抜きを許された俺は何を食おうか思案する。メニューを決め終わる前に、マリちゃんの通話が終わった。
「行っていいって」
「よっし決まりな! 肉! 俺はもう肉用の胃袋になってっから!」
 本当に嬉しそうに笑うマリちゃんに、俺まで自分のことみたいに嬉しくなった。話もまとまったことだしそろそろ帰るか、と暁人に声をかけると、怪訝そうな顔でとんでもないことを言われる。
「は? お前何帰ろうとしてんの」
「えっ帰るだろ。これ以上ここに用事ねーよ、音楽室の机の落書きとか見に行けばいいの?」
「そうじゃねーよツッコミ面倒だからお前の音楽ライフは無視すっけど、保護者に帰ってもらっちゃ困るじゃん」
「……は? 保護者? 何が?」
「お前も来るんだよ」
「……はああ!? なんで!?」
「お前の目は節穴か? 俺ら全員制服着てんだろーが! 流石にこのカッコのままじゃ補導されんだよ、全部言わせるんじゃねーよ!」
 あ、ああー……そういう……?
 確かに見渡す限り学ランで、私服には見えない。暁人と大牙くんは家が近いから着替えてから行くこともできるだろうけど、他の子はどうだか分からないし。マリちゃんなんて遠いし。いやでも今六時半だぞ、焼肉屋に何時間居座るつもりだこいつ?
「流石に車出せとは言わねーからついてきてオニーサマおねがい」
「焼肉屋ってここから徒歩十分だろーが誰が車なんて出すかバカ。っつーか六人も乗れねーよ! あーもう分かったって、確かあの店ちょっと並ぶんだよなー……」
 言っとくけどお前以外「えっいいの?」みたいな顔してるからな。気ぃ遣うだろ、特に今日初めて会った奴と一緒に食事って……。まあ補導されても困るから行くけどさ。
 ぞろぞろ男六人で焼肉、しかも育ち盛りの高校生、八歳も年下に一銭も出させるわけにはいかないし……クレカ払いできたっけあの店。そんな俺の考えなんてきっと少しも興味無いのだろう暁人が、ゆっくりした歩調で歩き出す。なんとなく一番後ろから、若さにあてられつつ追いかけると隣にマリちゃんが並んだ。マリちゃんも後ろから見守るポジションなの? それっぽいね。
「あの、急にすみません。大丈夫でしたか? ご予定とか……」
「マリちゃんが謝ることないって! 暁人はいっつもあんなんだからねー。補導されるよりマシでしょ」
「ならいいんですが……あ、でもセツさんと食事は初めてなので楽しみです」
 ふわりと微笑んだマリちゃんに、俺は唐突に思う。俺がマリちゃんにとって、「暁人のお兄さん」じゃなくて「セツさん」でよかった。マリちゃんに会ったの、俺が先でよかった。なんでそんな風に思ったのかはよく分からなかったけれど、とにかくそう思ったんだ。
 日が随分と傾いて、道に影が長く伸びている。
「……俺も、楽しみ」
 なんだか恥ずかしくて小さい声になってしまったのに、マリちゃんはなんでもないような顔をして俺の声をちゃんと聴いてくれて、「そう言ってもらえると、嬉しいなって思います」なんて唇で弧を描いた。

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