羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 ゆきちゃんがいるんだよ、と言われて、それが暁人のお兄さんのことだと思い出したので大牙についていくことにした。一度家にお邪魔したことがあるし、掃除やら何やら随分と勝手をしてしまったのもあってご挨拶をした方がいいな、と思ったからだ。途中で佑護を見つけたので連れ立って歩く。佑護は大牙とよく話すようになってから、学校行事とかにもきちんと参加するようになったみたいだ。
 大牙が先導して暁人のクラスの入り口に到着する。「ゆきちゃん!」と大牙が手を振って、それに応える声にあまりにも聞き覚えがあったので思わず身を乗り出した。どうにか大牙の体の後ろから首を伸ばして捉えた姿はつい先週会ったひとのもので。
「――セツさん?」
 きらきらした金髪やピアスが眩しい。見開かれた瞳はおれだけを見ていて、驚いた表情はいつもお店で会うときよりあどけない印象だった。きっとスーツじゃないからだ。
 なんでここにいるのと混乱した表情で叫ぶセツさんにおれは、やっとの思いで「おれ、ここの生徒ですよ……」と呟くことしかできなかった。



 知り合いだったんだ、と大牙に驚かれたり、まぎらわしいんだよ、と暁人に叫ばれたりしたものの、おれはどうしてだか今セツさんと並んで校内を歩いている。「帰ってきたら全部解説しろ、それまで話まとめてきて」と暁人直々のお達しだ。
「……暁人のお兄さんだったんですね」
 とりあえず口火を切ってみた。セツさんはぱっと顔を上げて、「……暁人の兄です。えーと、由良、雪人……本名です……」と何故かきまり悪そうに言った。
 ゆら、ゆきひと、さん。聞いたばかりの名前をそっと舌の上で転がす。響きが柔らかくて綺麗な名前だ。雪人、だからゆきちゃん、で、セツさんなのか。
「ごめん、わざと黙ってたわけじゃなくて、ほんとに知らなくて」
「え、どうして謝るんですか? おれも気付いてなかったので……」
「……待って。もしかして随分前にシュークリームとエクレア持ってきてくれたのって……っつーかマリちゃんが店に来てくれた日に暁人の友達が家に遊びに来てたのって……」
「おれですね……」
「やっぱり! うわーもう全部納得した!」
 ごちそうさまでした、と言われたのでいえいえとんでもないと返した。セツさんは何かふっきれたようで、大きくため息をついてコーラをひとくち飲む。
「暁人の友達だったの……え、でも校区全然違くない?」
「おれ、電車で通学しているんです。乗り換え一回で済むので案外近いですよ」
「そっかー。学校って無条件に一番近いとこ選ぶモンだと思ってたけどそうじゃない人もそりゃいるよね……」
 なんか順番違っちゃったけど、暁人と仲良くしてやってね。そう恥ずかしそうに笑ったセツさんは、暁人の話からイメージしていた通りの優しいお兄さんだった。どことなく暁人と雰囲気が似てる。居るだけで場が明るくなる感じとか。私服姿だと暁人のものと服の系統が一緒なので、ますます似ていた。兄弟だなあ。よく考えたら飲み物にコーラを選ぶところも一緒だ。
「こんなところでお会いできると思ってなかったので嬉しいです」
「あはは、ありがと!」
 先週は、少しぼんやりというかいつもと違う感じだったので心配だったのだが、大丈夫そうでよかった。あの後メールで『寝れば治る』なんて言われて、体調が悪いのに無理をさせてしまったかもしれない、と若干不安に思っていたから余計に安心だ。
 どうやらセツさんもここの卒業生らしく、今日は色々懐かしくなって遊びに来たんだとか。
「ほら、最近マリちゃんに学校の話とか聞くこと多かったじゃん? それで、俺にも高校時代なんてのがあったなーと思って」
「セツさんがOBだったなんて驚きました」
「生活指導のおっさん分かる? 俺の元担任あいつでさー、さっき一応挨拶しに行ったら『相変わらず愉快な色の髪の毛だな』ってめっちゃ小言言われた」
「高校の頃からその色だったんですか?」
「まあ、あんまり……素行がいいとは言えない高校生だったというか、なんというか……」
 途中で更生したんだよ、ほんとだよ、とセツさんが必死に訴えてくるのがなんだか面白かった。かわいいなあと思ってしまって、年上の男性に失礼か、と慌てて心の中で反省する。
「はー、でも、今日来てよかった」
「懐かしめました?」
「うん。それに、マリちゃんにも会えたしね」
 視界の端でピアスがきらりと光った。セツさんの方を向くとセツさんもおれのことを見ていて、少しの間視線が交わる。先に目を逸らしたのはセツさんだった。
「……あの、けっこー恥ずかしいこと言った自覚ある、から、反応してほしいなー……」
「えっ。あ、もちろんおれも嬉しいですよ。最初はびっくりしましたけど」
「マリちゃんを見習って色々素直に言ってみようと思ったけどやっぱ難しいわこれ、恥ずいし」
 誤魔化すように眉を下げて笑うセツさん。こんなに明るいところでセツさんを見るのは本当に久しぶりだけど、今日はなんだか笑顔がふにゃふにゃしている気がする。仕事場じゃないからだろうか。家で暁人といるときは案外こんな感じなのかもしれない。
 そういえば、変わらず「セツさん」って呼んでしまっているけれど、変えた方がいいよなあ。由良さん、だろうか。うーん、若干距離が遠く感じる。いきなり下の名前で呼んでもそれはそれで馴れ馴れしいような。でも、やっぱり……。
「あの……雪人さん」
 ってお呼びしてもいいですか? と続けようとした言葉はすんでのところで飲み込んだ。セツさんが肩をびくっとさせておれを見たから。ああ、嫌がられてしまったなあ失敗だったなあ、と少しだけ残念な気持ちになった。大牙は暁人の幼馴染でセツさんのことも昔から知っていて、だからあの呼び方ができるのだろう。おれではだめだ。そこは許されていない部分だった。
 それでも名字で呼ぶのはどうしてもしっくりこなかったので、「――やっぱり突然呼び方を変えてしまうのも慣れないので、これまで通りセツさんって呼びますね」と苦しい言い訳をしてみる。
 セツさんは一瞬悲しそうな顔をしたように見えた。何かを言いかけて、口をつぐんで、「わかった」と言って静かに笑った。
 ううん……久々に、人との距離のとり方を間違えたかもしれない。
 セツさんはいつも明るく接してくれるからつい親しくなれたと実際以上に思ってしまうけれど、気をつけないと。……いや、これではセツさんのせいにしているみたいに聞こえてしまうな。おれが親しくなりたいと思っているからそう感じるだけか。希望的観測というやつ。
「あの、マリちゃん。この間のメール心配かけちゃってごめん。体調は全然悪くなくて、ちょっと考え事してたから」
「そうだったんですね。体調に問題無いならよかったです」
「ん……ほら、マリちゃん部活とか真面目にやってるでしょ。だから、うちの店みたいな歓楽街っつーの? ああいうとこ、見つかるとやばいかなーって今更」
 それはまあ、おれも薄々思ってはいた。昼だから、と言ってはみたものの学校から見ると印象のいいものではないだろう。うちの学校は実際そこまで厳しい校則も無いが、わざわざ悪印象を持たれることを進んでやるのもどうなのか……という感じだ。
 でも、やっぱりやめたくなかったから。
 おれの我儘だった。そのせいでセツさんを悩ませていたんだとしたら悲しいな、と思った。迷惑はかけられない。諦めるべきなのに認めたくない自分がいて、おれは聞き分けのいい方だと思っていたのだけれど勝手に裏切られた気分だ。
 どう伝えようか、と悩んでいると、セツさんは意外なことを口にした。
「あのさ、家に来てよ。流石にライトとか全部一緒にはできないけど、道具は一通り揃ってるから……マリちゃんが飲みたいって言ってくれたら、俺、作るよ」
 聞き間違いではない……と、思う。あの家に招かれているということでいいのだろうか? おれは嬉しいけれど、流石にそこまでしてもらうわけには。
 そんなことを考えている間にも、セツさんはもう一度ストローに口をつけた。プラスチックのカップの中身はもう半分ほど減っている。カップの表面に結露した水滴が重たげに縁に溜まって、落ちた。
「……俺と俺の作るカクテルだけじゃダメ?」
 色々考えていたはずなのに、その言葉には反射的に声が出た。
「だめじゃないです。おれは、あの、以前も言ったんですけれど、あのお店に通っているのはセツさんがいるから、です」
 おれは基本的に喋るのが下手だ。自覚している。特にアドリブを求められるとかなりがっかりな感じになる。なるべく丁寧に伝わるように頑張って話すけれど、それでも歯がゆく思うことは多い。でもセツさんはおれの言葉を丸ごと受け取ってくれる。嬉しいなと思う。
 セツさんは、おれの家ではなくておれ自身を見てくれたひとだから。
 おれのことをおれのままで、優しくしてくれた大人だから。
 そんなひとにおれができることと言ったら、なるべく正直に、真っ直ぐ、気持ちを伝えることくらいだ。
 おれはセツさんの様子を窺う。まず視界に飛び込んできたのが笑顔だったから、胸が温かくなった。ストローを唇に当てたまま、セツさんは目元を柔らかく細める。
「暁人がいなくても来ていーよ」
 そう小さく言うセツさんの言葉の響きがなんだかやけに甘く聞こえる気がして、おれは今更ながら自分の言ったことが恥ずかしくなって俯いた。
 そろそろ戻らないと、とこの時間を名残惜しく思いながら。

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