羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 兄貴の様子がおかしい。
 ここ最近、何かに思い悩んでいる感じがする。特に決定的な何かを見たというわけでもないのだが、長年一緒にいたからこその勘というやつだ。親からの電話にも、あからさまに嫌そうな顔をすることがなくなったように思う。なんというか、悩んでいる風なくせして心にゆとりができているというか、穏やかになったというか。些細な喧嘩も減った。驚きだ。
 大切にできる奴を見つけたのかな、と俺は予想している。携帯を見て、優しそうに笑うことが増えたから。
 あいつは携帯を仕事用とプライベート用で二台持っていて、仕事用の方は女からガンガン連絡が入りまくってるけどプライベート用の携帯が鳴ることは殆ど無かった。そっちで連絡するのは俺と、親と、あと数人の友人くらいだったから。あとは、仕事関係でも特に親しくしてる人はプライベート用のアドレスを教えてるみたいだ。それにしたって、頻度はとても低い。
 それが最近は定期的にメールがくるようで、つまり誰かにそっちのアドレスを教えたってことだろ。新しく。
 どんな女なんだろうな、と気にならなくもない。だってあいつ、実は他人にはめちゃくちゃガード固いしね。っつーか、あいつとセックスするのは簡単だけど個人的な連絡先聞くのは難しい、んだと思う。他人に色々踏み込まれるの嫌いだし。めんどくせー奴だよな。あいつも俺も。
 俺的には、「マリちゃん」なんじゃねーかなーと思ってるんだけど、どうだろ。
 最初にその名前を聞いたのは、「店にきてくれたお客さんがすげーいい子だった」とあいつが言っていたとき。おっぱい大きい? って聞いたら穢さないでだか何だかキモイことを言われた気がする。あ、ヤる気はねーんだ珍しい、ってその時点で思った。次に名前を聞いたのは、あいつが高そうなゼリーを貰ってきたとき。巾着袋に入ったゼリーはあいつの働くクラブとはえらく雰囲気が違って印象深かった。それ以上に、客から何か貰ってきた、っていうのにも驚いた。あいつ、他人から何か貰ったりするの嫌いなのに。仕事で飲まされる酒とかの延長ならいいんだけど、って言ってたのを昔聞いた。借りを作るのが嫌なんだそうだ。マジでめんどくせーな。
 そんな兄貴が家にまで貰い物を持って帰ってきたことも、おまけにそのゼリーの入っていた巾着袋を大事にとっておいてあることも、意外すぎて見間違いかと思ったくらいだ。時折洗濯機の中に入っている巾着袋はまったくもってあいつには不似合いな可愛らしさだけど、丁寧に使っているのが分かる。
『このゼリー、店長さんから貰ったやつ?』
『や、違う違う。マリちゃ……あー、えーと、お客さん?』
『なんで疑問形だよ』
『うーん……なんでだろう』
 今あのときの会話を思い出しても頭が沸いてるとしか言えない。なんでだろうって、要するにただの客として見てねーんだろ。なんでじゃねーんだよ。
 そして極めつけはこの間の土曜のことだ。熱でもあるんじゃないかってくらいに腑抜けてぼんやりしてたから気になりすぎて思わず話を振った。仕事で何かあったわけ? みたいに。そしたらあいつが言ったのは「お祝いしてた……」って一言。誰の。「……ゼリーくれた子」ああはいはい、例のマリちゃんね。そんな感じ。それから約一週間経った今も、時折難しそうな顔で携帯のディスプレイを眺めている。本格的にやばいな。
 あいつは昔から貧乏くじを引かされて、本当だったらやらなくてもいいような家事の類を仕事の合間にやって、ちゃらちゃらいかにも遊んでますって顔にまったく似合わない荒れた手をして、それはきっと自惚れでも何でもなく全て俺の為で。
 だから、あいつはもっと我儘でもいいんだと思う。そろそろ、自分の為に生きる準備をする頃合だと思う。
 これ以上、あいつが何かを諦める理由に俺の存在があるのは嫌だな、と思うのだ。まあだからと言って俺はまだ高校生なので、物理的に何でもかんでも一人ではできないけど。高校卒業したら働くつもりでいるから、そのときあいつは二十六。アラサーか……いや、でも、人生これからだろ。そのくらいの年齢なら。
 あいつの周りには媚びてくる女が沢山いる。好きだと囁いてくる奴も多いだろう。でも、あいつの幸せを一番強く願ってるのは俺だ。それは絶対に俺。胸を張って言える。親? 話になんねー。俺の方がよっぽどあいつのこと知ってるよ。
 でも、俺があいつを幸せにしてやることはできない。それは俺には無理だ。弟だから。そればっかりは俺の役目じゃない。
 だから俺は顔も知らない「マリちゃん」とやらに内心で手を合わせる。きっとあいつはあんたのお陰で最近幸せなんだよ、って。だからあんたも、あいつがいると幸せ、って思ってくれてるといいな、って。俺ほど兄想いの弟は滅多にいないね。そのまま言ったらあいつ感動して泣いちゃうだろうから内緒。
 まあ、俺がどれだけ祈ったところで、兄貴が一人で空回ってる可能性の方が高いけどな! そこはご愛嬌だ。
 兄貴は明日の文化祭に来るらしい。仕事と俺以外のことに目が向いてよかった。あいつは少しずつ変わってる。おまけに、俺から見てもかなりいい方向に変わってる。
 大牙に『明日兄貴が来るっぽい』と連絡してみると『最近会えてなかったし、来たら連絡ちょうだいよ』と返ってきた。それにまた『了解』と返して、俺は仕事に出かける兄貴を見送ったのだった。



 思えば気付く要素もチャンスもいくらでもあったのに、その瞬間まで思い至りもしなかったのは兄貴のあのふざけた呼び方のせいだ。
 兄貴は予告通りやってきた。家事を終わらせてから来て教師にちょろっと挨拶した後だったみたいで、俺のクラスに来たのは夕方過ぎ。俺はちょうど清水と店番中だった。周囲の視線を集めているのにあまり気にしていない風な兄貴がひらひら手を振ったのに「おっせーよ」と応える。一応客の前なので、ポケットの中でこっそり大牙にワン切りした。あいつなら分かるだろ。
 清水は「由良のお兄さん? 雰囲気似てる」とまた起伏のない声で呟いたかと思えば、「こんにちは。由良くんの友達です。たぶん」なんて挨拶を始めている。
「暁人の友達? 頭気合い入ってんねー! 暁人がいつもお世話になってます」
「はい。気合い入ってます。お世話はむしろ俺がされてます」
「えっうそだあ……マジで?」
「末永くよろしくという感じです」
「こんなのと末永くしちゃっていいの? よろしくねー」
 待て待て待てこいつら俺をダシになんつう話してんだ? っつーか末永くって何。お前は一体なんなんだ清水。
 何故だか清水は「おにいさん何飲みますか」と甲斐甲斐しく注文をとって満足そうにしている。謎すぎる。コーラをカップに注いで申し訳程度のオレンジをぶっ刺して、ストローつけて渡した辺りで入り口に大牙が見えた。え、万里も茅ヶ崎もいるんだけど。付き合いよすぎるだろこいつら。
 ゆきちゃん、と大牙の声がして、兄貴はそれだけですぐ分かったみたいで「大牙くんじゃーん久しぶり」と笑顔でドアの方を振り返った。かと、思えば。
「――セツさん?」
 万里が珍しく驚いたような顔でそう言ったのと、兄貴が危うくコーラの入ったカップを落としそうになるのとはほぼ同時だった。あっぶねーわボケと思いながらカップを横から支え、兄貴が一瞬遅れて「えっマリちゃんがいる!? なんでここにいんの!?」と叫んだので俺はその瞬間に全てを察した。
 万里が「会いたい人がいる」っつってまったく縁のなさそうなクラブに行きたがったのとか。それが兄貴のいる店だったのとか。随分前兄貴が朝帰りしたときに、「超豪邸に住む子にお風呂どーぞって言ってもらった」っつってたのとか。
 俺は場を動かすために声をあげる。ダメ押しの質問を、投げる。
「……万里、いっこ聞いていい?」
「え、暁人? ええ? えっと、何?」
「お前の家檜風呂ある?」
「あれ、なんで知ってるんだ? あの家、風呂場三か所あるんだよ」
 このときの俺の気持ちを誰か察してくれ。一言で表すと脱力。全てのやる気が空気に溶けていく気がする。
 いや、そんなことよりも、さあ。
「――――マリちゃんってお前かよ!!」
 吠える。ここが教室だとかもうどうでもいいんだよ。叫びでもしないとやってらんねー。万里は一ミリも悪くないけど、これだけ言わせて。
 俺の祈りを返せ!!

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