羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 その後は結局、どうにか仕事は無事終わらせたものの、ふわふわとした足取りで帰宅することになった。というか、無心で仕事をしている間はよかったんだけどシフトが終わった瞬間色々思い出してしまってダメだった。同僚にも「なんかお前おかしいから帰れば……?」という心配されてるんだか失礼なんだかよく分からない言葉をかけられてさっさと帰ることになってしまったのだ。……気を、遣われたんだと、思う。
 あっという間に玄関前だけど、どうやって帰ってきたか記憶に無い。
「ただいま……」
「え、なに今日ちょーはやいし。おかえり――ああ? おい、お前」
 弟までオレを見た途端に怪訝そうな顔をするので、よくないなあと思った。さっさといつも通りにならないと。
「……あー、何かあったら言えよ。あんまぽやっとしてんなって。怪我しそーでヤダ」
「そ、そんなんじゃねーし。そこまでどんくさくもねーよ」
「どーだか」
 弟の、こんなにはっきりとした心配する素振りというのも珍しい。色々な人に気遣われてしまったのがなんだかとてもばつの悪い気分で、話を逸らそうと思って口から出てきたのは自分でも思いがけないものだった。
「そういやお前、もうすぐ文化祭じゃね?」
「そーだけど? なに、来たい?」
「いや別にそんなんじゃねーけど……っつーか身内が見に来るとか普通に嫌だろ」
「なんで? 別にお前を誰に見せようと恥ずかしくねーよ。むしろ俺のクラスに金落としてって!」
 ラブホじゃない休憩所やんだよねーとけらけら笑っている能天気な弟。売り上げは団体ごとにランキング付けして賞品を出すらしい。そういうの、たぶん来年とか再来年とかが本番だと思うんだけど。確かあの学校、喫茶店だの集金できそうな出し物は上の学年に持っていかれるし。校舎外の出店みたいなやつは部活の奴らが占領してるだろうし。
 そう、母校がなんとなく懐かしくなってしまったのだ。そういえば文化祭って今くらいの時期だったよな、と思い出したから確認してみた。マリちゃんに部活の話とか聞いてると、俺が所属していたわけでもないのにそういや俺の学校にもそんな部活あったなあ、と思ったりもした。今となっては学校生活自体が懐かしい。いい思い出ばかりってわけでもないけど、三年のときの担任とかどうしてるかな。卒業してから一度も行ってない。
 スーパーで五十八円で買ってきたオレンジジュースをプラスチックのカップに入れて氷入れてストローさして三百円で売る、と悪徳業者みたいなことを弟が言うので、学校行事でそんなガチに儲けようとするのはやめろ、と返す。ついでに今年はいつやるんだと聞いてみると来週の土日だった。来週かー。今ちょうどシフト出す直前だから休みを合わせられなくもないんだけど。っつーかもしかしてこいつ文化祭が終わった後の月火振り替え休日だったりするよな? 言っとけよそういうことは。こっちにも飯作る予定っつーもんがあるんだよ。
「そーいや兄貴が高校のときに担任だったっつってたオッサン今年で定年だってよ」
「マジで!? あーでももう六年経ってんだもんな……そんくらいの歳だよな」
 文化祭に行く方向で天秤が傾きかけている。まあこいつも嫌がってはいないみたいだし、楽しく見て回れるかもしれない。お一人様っつーのがネックだけど流石に女は連れていけねーし。高校のときの教師とか迷惑かけまくった記憶しか無い。出会い頭にぶん殴られたりしたらどーしよ。
 なんて、そんな風にとりとめもなく考えることで今日の体調のおかしさを忘れようとする。今日の俺は本当に、自分で言うけど変だった。マリちゃんといると、色々なことがちょっとずついつもと違う。
 あれだ、コンビニ弁当ばっか食ってる奴が突然三ツ星のフランス料理とか食わされたら腹壊すのと同じ理屈だと思う。たぶん。マリちゃんは最高級って感じするもん……そりゃ俺みたいな生き方してる奴にはちょっと色々強すぎる。
 もしかしたら文化祭顔見せるかもと弟に伝えると意外そうな顔をされた。お前が「売り上げに貢献しろ」とか言ったんだろーが。
 なんとなく釈然としないものを感じつつ着替えていると弟はいつの間にかいなくなっていた。風呂に入っているらしい。そうか、今日は俺が少し早かったから、タイミングが少しずれたんだな。
 仕事の後の食事は適当になりがちなんだけど、今日は早めに帰宅できたのでちゃんと食べる気分だった。三食しっかり食おうって決意したばっかだし、一応。午前中のうちに作っておいた煮物が鍋にまだあったので火にかける。この煮物は冷蔵庫の在庫処分スペシャルだ。なんか色々入ってる。何入れたかもう覚えてねえよ。
 そんなことをしていると携帯が震えた。プライベートの方の。自分でも笑えるくらい動揺して箸を落とした。だって弟が風呂に入ってんのに、この時間にこっちの携帯に連絡くれるのって心当たりあと一人しかいないんだって。箸を洗うのも後回しにメールを開封する。
 相変わらず丁寧な文面と綺麗な言葉遣いだった。今日のお祝いについてのお礼が改めて書いてある。それとは別に、ゆっくり休んでください、とか、本格的に寒くなってきたのでお体には気を付けて、とか、こちらを気遣う言葉が添えられていた。今日の様子がいつもとちょっと違ったのがやっぱり気になったので、というのも控えめに。
 なんて返せばいいのか悩む。だって、俺にも今日の自分に一体何が起こっているんだか分からなかったからだ。変な誤魔化しは使いたくないけれど、自分でも分からないんだからしょうがない。あんな風になると思ってなかった。
 うんうん唸っていると、ふわりと石鹸の匂いがして弟がダイニングに入ってくる。かと思えば「――は!? お前何してんの!? 鍋煮立ってんだけどバカ!」と叫んだ。……鍋?
「うわっうっそ!?」
「テメーの耳はポンコツか!? ボコボコいってんじゃねーか」
 慌てて立ち上がって駆け寄ると確かにこれ以上なく煮立っている。急いで火を消したらすごい勢いで湯気が出てきた。どうやら自分で思っているよりも長い時間返信に迷っていたらしい。しかも悩んだわりにどんな風に返すか何も思いつかねえし。にしても危なかった、焦げてなくて一安心。これまだ明日も食う予定だからな。焦げるのはやばい。火事もやばい。
「はー……危なかった。悪い、ぼーっとしてて」
「もうお前それ食ってさっさと寝ろよ……」
「そ、そうする……」
 キレるでもなくマジトーンで心配されてしまった。寝たら治る、と結論付けて鍋から熱々のじゃがいもやらこんにゃくやら厚揚げやらを取り皿に移す。こんなに熱いんじゃどうせすぐ食えないから、しばらく置いておく間に返信しちゃおう。
 小細工抜きで、『よく分かんないんだけど寝たら治ると思う。ありがとう。』というような文章を打つ。あとはお祝いできてよかった、とかマリちゃんの言ってくれたことが嬉しかった、とかそういう感じの。つい今日の出来事を思い出してしまってまた脈拍が速くなったのは気のせいだと思いたい。
 マリちゃんは俺の誕生日を祝ってくれると言った。少なくとも冬までは、あの店でマリちゃんに会えるのだろう。でも、よく考えたらこの関係って何の約束もしてなかったらマリちゃんの気分ひとつで終わっちゃうんだよなあ。そもそもこれまであまり気にしてなかったけど、やっぱり昼間とはいえクラブに高校生を出入りさせてるというのも褒められたことではない。今更だけどこれ、見つかったら部活出場停止とか……そういうの……うわあ、待って、なんか怖くなってきた。マリちゃんって通ってる学校もしっかりしてて校則厳しそうじゃない?
 俺がいるから来てくれてる、って嬉しい。でも、単純に喜んでるだけじゃダメな気もする。
 これまで思い至っていなかったことまで色々考えてしまって、自分にここまでまっとうに誰かを思いやる心があったなんてと別の方向で感動を覚えたりもした。いやでもだからと言って店に出入りしなくなったら会えなくなるじゃん。会う理由が無くなっちゃうじゃん。それもヤダ……。
 頭の中のいくらか冷静な部分が、男子高校生とのやりとりを日々の癒しとして捉えている自分を気持ち悪いなと警告を与えてくる。でも、だって、楽しいんだよ。我ながら確かにキモイんだけど。楽しいんだよな……うん……。
 悩みながら送信ボタンを押す。とりあえずこれでまた少しの間はメールでのやりとりになるだろうから、その間考えることくらいは許してほしい。俺基本的にバカなんだよね。こんな大事なことに思い至ってなかったの我ながら驚きだわ。まあ、最初のうちは全然深く考えてなかったからっていうのがあるんだけど。あの頃はまだ、ふつーにお人よしでいい子な高校生、って思ってただけだったから。
 ……ん? 「あの頃は」? あの頃はってなんだ?
 やめやめ、考えるのやめ。煮物の湯気も落ち着いてきたし、メールに返信もできたので食事にしよう。手を合わせて、いただきますと小さく言って、じゃがいもを箸で割るといい具合に味が染みてそうだった。口に入れる。美味いっちゃ美味いんだけど、まあ所詮俺が作ったモンだなーって味だ。
 今日はもう返信がきませんように、と祈って、俺はじゃがいもと一緒にもやもやした気持ちも飲み込んだ。

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