羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 喧嘩は嫌いだ。怪我をするから。昔は暁人に色々言っていた時期もあったけど、暁人はあれで加減も容赦もできる。引き際も分かってる。肉体言語とかいうやつを使っているふしもあるので、それに関しては今はそこまで気にしていない。諦めた、と言ってもいいけど。喧嘩よりは女遊びの方が激しい暁人が、怪我をして帰ってくることはあまり無い。血と土埃よりも、女物の香水の匂いが似合うのがこの幼馴染だ。
 俺は傷口の様子を確かめながらそんなことを考えていた。綺麗な水で洗って消毒をして大きめのガーゼで傷口を押さえて、テープを貼ったら完成。じろり、と睨まれるけど気にしない。ここまで来て今更抵抗されるとも思わないし。
 素の目つきならたぶん万里の方が悪いよなあ、と思っていると、「……終わりか?」と低い声。
「うん、終わり。綺麗に切れてるから治りは早いと思う」
 長めの前髪の隙間から、探るような視線を向けられて居心地が悪い。そいつは静かに立ち上がると逡巡するように動きを止めた。それにしても随分と背が高い。うちの学校の制服を着ているから同じ学校なんだろうけど、知らない奴だ。在校生千人以上、一学年に四百人以上いる学校なので当たり前か。
「大丈夫? まだ痛い?」
 黙っていられると不安になる。割と綺麗に手当てできたと思うんだけどな。
 うんともすんとも返ってこないので思わずまじまじとそいつを見つめてしまう。……クール、って感じ。愛想なんて知るかという風で表情がいまいち読めなくて、暁人とは正反対だ。もしかしなくても年上なのではないかという可能性に思い至った辺りで、ようやくそいつは口を開いた。
「名前」
「えっ?」
「名前。あんたの」
 教えろ、ってことでいいの? 別に怪しい者ではございませんって感じだよ。まあ断る理由も無いけどさ。「城里大牙」と短く言うと、そいつはまた黙って何か考えているようだった。
「……覚えとく。あと、手間かけさせて悪かった」
 やがてまた低く落ち着いた声がリビングに落ちた。俺が返事をする前に、そいつは体の向きを変えてふいっと出て行ってしまう。ああ、替えのガーゼとテープを渡しておけばよかったな、と思い至ったのは玄関の扉が閉まる音を聞いてからだった。
「……大丈夫かな」
 そんな俺の独り言に反応したのは暁人だった。「寧ろお前が今後大丈夫かって感じだけど」どういう意味か分からなくて聞き返すと、やばいのに目ぇつけられたかもねとまたよく分からないことを言われる。
「さっきも思ったけど、まるで知り合いみたいな口ぶりだなあ」
 気を利かせてくれたのであろう万里がそうやって会話を繋いでくれた。有難い。暁人は自分が言葉足らずだったことにようやく気付いたみたいだ。
「知り合いじゃなくてあいつが有名人なだけ。っつーか俺らとタメだろあいつ。悪魔みたいに強くて喧嘩売ってきた奴全員返り討ちにしたとか目ぇ合っただけでぼこぼこにされたとか親がヤクザだとか、キレさせたらマジでやばいとかそーいう噂ばっか。寧ろお前らが知らないのにびびるし」
 それって一部の喧嘩しまくってる奴らの中で有名ってだけじゃないのかと言いたくなったが話が脱線しそうだったのでこらえた。というか、この場に三人いて二人はあいつのことを知らなかったんだからそんな常識みたいな顔で言われても困る。
「複数対一であそこまで一方的な喧嘩できるってやっぱつえーなあいつ。俺せいぜい三人までしか無理」
「三人でも十分じゃないかな……」
 万里が控えめに声をあげるのを横目に俺も同意しておいた。そもそも、複数で喧嘩を売ってこられるような状況に陥らないでほしい。
 とりあえず同級生だったみたいだし、タメ口きいてしまったのもまあ許されるだろう。よかった。さっきは夢中で何を口走ったかあまり覚えてない。
 次に会うときまでに怪我が治っているといいな、と俺は密かに考えつつ竹刀の具合を確かめる。さっきは咄嗟に体が動いたけれど、流石に竹刀の入った袋で鉄パイプを弾き飛ばすなんて無理がありすぎた。まあ、あいつら喧嘩慣れしてそうじゃなかったから助かったけど。鉄パイプなんて重くて逆に動き鈍るし、握り込みも甘いしさぞお荷物だったろう。
 よかった、竹刀無事っぽい。
 ほっと一安心だ。暁人の言っていることに少しだけ不安になったけれど、まあそのときはそのときだよな、と妙に達観した気持ちになって、俺はガーゼをしまうためにようやく立ち上がった。



 そうして夏休みも終わり、新学期二日目の昼休み。俺は今、もしかすると入学してから一番クラスのみんなの視線を集めているかもしれない。
 いや、正確に言うとみんなの視線を集めているのは俺ではなくて目の前にいるそいつ。実はまだ名前も知らないんだけど、つい数日前に会った不良だ。「城里って奴いるか」と不機嫌そうな声で言ったそいつに、みんなはモーゼに対する海みたいにして道を開けた。
 もしかして本当に有名人だったのか、と驚いたのもつかの間、そいつは「……ちょっと来てくれ」と言ってさっさと歩きだしてしまう。大丈夫? 先生呼ぶ? とみんなが口々に声をかけてきてくれた。え、なに、そんなにやばいの? 今の俺の状況。
 万里も不安そうな顔でこちらを見てくる。あまり不安にさせたくなくて「危なそうだったらすぐ逃げてくるよ」と言うと静かに頷かれた。
 小走りであとを追いかける。それにしても廊下で偶然とかじゃなくてわざわざ話しかけてくるなんてなんとなく意外だ。
 ところで、俺は今とてつもなく嫌な予感がしている。
 この学校は内部進学とか特待コースとかそういう区分を取っ払うと一学年に十クラス以上が存在している。俺はその九番目のクラスだ。もしかしてこいつ、俺のいるクラスまで毎回「城里って奴いるか」をやってきたんじゃないだろうか。
 不良に名指しで呼びつけられるような人間だと思われる……どうしよう……。
 そんな俺の不安をよそに、そいつはすたすたと迷いない足取りで歩く。向かう先は……購買だろうか。この学校は、百円前後のリーズナブルなパンが体育館横の一角で販売されているのだ。そいつが購買に近づくと、また冗談みたいに昼休みにもかかわらず人の波が割れる。そいつはそのことに僅かに顔をしかめていくつかのパンを買った。かと思えば自動販売機で飲み物まで買ってパンの袋に突っ込んでいる。
「これ」
「え?」
「……この間の礼だ」
 いつもより怪我の治りが早い、と言ってそいつは袋を俺の方に押しやる。勢いで受け取ると、そいつはふっと僅かに笑う。
「拒否しねえの」
「えっ、拒否されたかった……? っていうか、いや、俺べつに大したことしてないよ」
 治りが早いのだって、俺のお陰というよりは傷口が綺麗だったからというだけの話だと思う。
「治療もだけど、その前のやつも。流石にアレで殴られてたら頭カチ割れてただろうし」
「あーまあ確かに鉄パイプはね……」
「あんたかなり手慣れてたけど、隣にいた奴みてえにあんたも喧嘩するのか」
「隣にいた奴って暁人のこと? え、ごめん暁人が何か迷惑かけた?」
 慌てて聞くと何故かまた笑われる。なんでだ。
 というか暁人は「知り合いじゃなくて相手が有名人なだけ」みたいなことを言っていたけれど普通に暁人のこと認識されてるじゃん。
「別に迷惑とかじゃない。あいつ喧嘩も女関係も派手だから目立つ。あんたはお守役? 大変だな」
「うっ、何もかも否定できない……」
 あいつは引き際を見極めるのが上手いよなと言われたのですかさず同意する。暁人は歩くのは遅いけど逃げ足は速い。
「っつー訳だから。助かった。ありがとな」
「うん。あんま喧嘩ばっかりは危ないよ。お前強いんでしょ? 怪我しないように気をつけなよ」
 言うと、そいつは少しだけ寂しそうな顔をした。あれ、やばい、何かまずいことを言ったかもしれない。けれど、謝る前にそいつは一瞬目を伏せて、また元の無愛想な表情に戻ってしまった。
「――っと、そうだ、名前!」
「ん?」
「名前教えてよ。なんかいっぱい貰っちゃって悪いし……あとあれ、替えのガーゼとか! 明日持ってくるから」
 他の奴らが避けるほどやばい奴には見えない。現に、そいつは俺の発言に対してくつくつと喉奥で笑っている。だからなんで笑うんだよー。
「俺、茅ヶ崎」
「茅ヶ崎。下の名前は?」
「……佑護だけど」
「ユーゴね了解! 今度漢字も教えて。あ、ちなみに俺は大きい牙って書いて大牙」
 そこまで声に出して、いよいよそいつが――ユーゴが耐えられないとでも言いたげに噴き出した。こいつ無愛想だけど実は笑いの沸点低いだろ。さっきからよく分からないけど笑われまくってる。
「あんた、かなりお節介。貧乏くじ引くタイプだろ」
「し、失礼な……!」
「嘘。優しいと思う」
 真っ向から褒められて驚いた。数秒遅れて照れた。やっとの思いで「ユーゴって何組?」と聞くと「五組」と返ってくる。
 いつ届けに行こうかなと思ったのを察されてしまったのか、もうじろじろ見られんの嫌だろうから昼休みに第二グラウンド裏のベンチで待っててと言われてしまう。わざわざ教室から移動させてしまうけれど、まあユーゴがいいと言うなら俺はお言葉に甘えるだけだ。
「じゃあ、また明日」
「ん。またな」
 ふらふらと校舎とは反対方向に歩いていくユーゴにおいおいと思ったものの、俺は自分の教室へと歩を進める。途中、ふと気になって袋の中身を見るとバナナオレの紙パックが真っ先に目に飛び込んできた。
「ふふ、……似合わない」
 本人に聞かれたら怒られるかな、なんて思いつつ、なんだか楽しくて自然の顔がほころぶ。とりあえず目が合っただけでぼこぼこにされるっていうのは嘘だったなと少しだけ歩幅を広くとって、万里が待ってくれているであろう教室へと急いだ。

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