羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 カーテンの隙間から差す光で目が覚める。なんだか妙にすっきりとした目覚めだ。手探りで携帯を探して引き寄せる。ディスプレイの明るさに一瞬目を細めて、メールの受信に気が付いた。
「はは……ほんと律儀」
 思わず口元が緩んでしまう。メールの差出人はやっぱりマリちゃんだった。メールがきたのは昼ちょっと前くらいだったらしい。メールに気付くのが遅くなったことに対する謝罪がまずあって、次は土曜の昼に行きたいと思っているということ、俺がシフトを教えたことへのお礼。そして最後に、このメールでもし起こしてしまったらごめんなさい、と気遣いの言葉。
 何度読んでも優しいメールだ。この文面からしてマリちゃんは朝起きてすぐに俺のメールに気付いたみたいだった。俺が寝ていると思ってすぐには返信できなかったのだろう。
 起き抜けにこんな嬉しい気持ちにさせてくれるなんて。俺はなんだかとても得した気分になる。いつもなら目が覚めてすぐはベッドの上でうだうだしているのだが、今日はすぐ起き上がって顔を洗った。着替えて身嗜みを整えて、出かける準備は万端だ。コンビニじゃなくてスーパーに行こう。久々にゆっくり果物を吟味しよう。
 俺の作ったカクテルを飲んでくれるひとが、俺にオーダーしてよかったって思ってくれるように。マリちゃんは喜んでくれるかな。


「セツさん、今日はなんだか嬉しそうですね」
「えっ、そ、そう?」
 客の入りは順調だけれど忙殺ってほどでもない、土曜日はそんな丁度いい日だった。昼過ぎに姿を見せたマリちゃんは、俺を見て微かに笑って、「いいことがありましたか?」と言った。
 思わず言葉に詰まる。確かに来てくれるのを楽しみにしていたけれど、まさかぱっと見うかれているのが分かるくらいだとは思ってなかった。俺が嬉しそうに見えたんだとしたらその原因マリちゃんだよ。言っても信じてもらえなさそうだけどさ。
「――マリちゃんが来てくれるのが楽しみだったんだ」
「ふふ、お上手ですね」
 案の定リップサービスだと思われている。よく考えてみてほしい。男にリップサービスしたって何もいいことないでしょ。本心だってば。
 マリちゃんは「今度は全部分かった気がするんです、カクテルの材料」と言って俺を見上げてくる。マジかよ。実はマリちゃんに作ったカクテルは忘れないように手帳にメモしてるんだけど、ほんとに当ててくれるのかどきどきする。
 早く教えて、と俺の視線の含む意味をきっちり汲み取ってくれたらしいマリちゃんが一歩俺に近づいて、指折り数えながら教えてくれたそれは確かに大当たりだった。めちゃくちゃ嬉しいし純粋にすごい。素直にそう言うと、運が良かったんですと返ってきて面白かった。どんな謙遜の仕方なのそれ。
「マリちゃんって明後日から学校でしょ?」
「ええ。土日にしか来られなくなってしまいますけど……セツさんのシフト拝見したとき、お会いできそうな日が多くて嬉しかったです」
 それねー、あんまり突っ込まないで。恥ずかしいから。絶対言わないけどさ。
 マリちゃんはどうやらそれが完全なる偶然か、俺が元々そういう働き方をしていたのか、くらいに思っているみたいだけれど、実は全然そんなことない。休日の昼間なんてイベントやってたりして人は多いし起きる時間が早まって生活リズム崩れるし忙しいしなるべく避けたい。でも、マリちゃんに会えたらいいなって思ったから、こんなことになってる。
 なんだか気恥ずかしくなって、宿題は終わってる? とからかうように言うと笑顔で頷かれる。だよねー、七月中とかに宿題終わらせてるタイプっぽいもん。
 俺はグラスに氷を入れて、ピーチネクターとオレンジジュース、グレナデン・シロップを注ぐ。軽くステアして、切ったオレンジを飾った。皮のくるくるした部分が綺麗に切れて大満足だ。
「うまくできた」
 思わずそう声に出してしまう。仕事なんだからできて当たり前。でもちょっとだけ嬉しかった。「きれいですね」と隣で見ていたマリちゃんがにこにこしていたので許された気持ちになる。
 この店では一応、客に見えないようにジュースなどのラベルは極力剥がすようにしている。前回も俺の作業を割と近くで見ていたマリちゃんが、飲まずにカクテルの材料を知ることができなかったのはそれが理由。リキュール系は逆に、ラベルを見せて棚に飾るんだけど。流石に三度目の材料当てをしてもらうのはどうかと思ったので、「はい、アンファジーネーブルだよ。桃とオレンジ」と軽く説明してからグラスをマリちゃんの前に差し出した。
 マリちゃんはグラスにそっと口をつけて、「今日もおいしいです」と言った。今日「も」かぁ、とまた嬉しくなる。
 今日は割と時間があったみたいで、前よりも色々と話をした。部活の話とか勉強の話とか。俺にはあまり縁の無かったことなので興味深い。マリちゃんは弓道着ってやつがめちゃくちゃ似合いそうだよね。なんでだろう、和服着てるイメージがある。
「――秋には部活の大会があるんです。九月になって少しは涼しくなるといいんですが」
「九月ってほぼ夏でしょ。最近、早出のときの太陽がマジで容赦ない……」
「ふふ、セツさんは暑いの苦手ですか?」
「暑いのっつーか日差し? ほら、俺、基本的に夜の仕事だから。日中に外に出るってあんま無いんだよね」
 休みの日に出かけるのだって、本当は結構珍しかったりする。ネットスーパーが何でも届けてくれる時代だから余計にね。そんなことを考えていると、マリちゃんは「最近は百日紅がきれいに咲いていますよ」と言った。
「サルスベリ?」
「はい。この近くのは鮮やかな色をしているので、昼間ならすぐ見つけられると思います」
 きれいなものを探しながら歩くと日差しの強さも紛れるかもしれませんよね、と笑うマリちゃん。口ぶりからしてサルスベリというのは花――だろうか。確かに聞いたことのある名前な気もするけれど、まったくイメージできない。動物の猿しか出てこない。俺の感性ってほんと貧困だな。花を愛でる習慣は俺には無かった。
「えーっと……サルスベリってやつ見たことないなー。花でいいんだよね?」
「はい、木に咲く花で……実際に見た方が分かりやすいですね。これです」
 マリちゃんは携帯を操作して一枚の画像を見せてくれる。インターネットかと思ったら画像フォルダのようで、ああ、マリちゃんは花を愛でる習慣もそれをこうして携帯に収める習慣もあるのだなと生き方の違いを強く感じた。
「……その画像もらってもいい?」
「いいですよ。きれいですよね」
 それは確かに鮮やかなピンク色で綺麗だった。でも、花自体に興味を持ったというよりは、マリちゃんが綺麗だと感じたものをマリちゃんが見たのと同じ角度から見てみたかった、という意味合いの方が自分にはしっくりくる。
 ただの風景の一部でしかなかったものが、マリちゃんの一言で俺にとって意味のあるものになるんだなあ、となんだか不思議な気持ちだ。
 画像を送ってもらって、自分のスマホで撮るよりは若干荒い画像だったけれどとても綺麗な花が画面に四角く切り取られているのを俺はじっと見つめる。
 次の早出のときに見つけられるといいな、といったようなことを口にすると、余所見には気を付けてくださいなんて返ってくる。会話のリズムが心地よくてくすぐったくて、思わず少しだけ笑った。
 そしてマリちゃんが帰る間際のこと。俺は、丁度いいから休憩に入ろうかな、とシフトについて考えていた。「セツさん」と声を掛けられて、改まってなんだろうと返事をすると小ぶりの巾着袋を手渡された。
「え、なに?」
「いつも頂いてばかりなので……」
 別に気にしなくてもいいのに、と言おうとしたのだが、「……他のひとには内緒ですよ」と柔らかい笑顔で囁かれたので勢いで頷いてしまう。マリちゃんはそのまま上機嫌そうに帰っていって、俺はなんだか妙にどきどきしてしまったものだからとりあえず休憩室に行こう、とホールから関係者用通用口へと入る。
 他の人には内緒、だってさ。別に客から物を受け取るのを禁止されてるわけじゃないけど、やっぱり気を遣ってくれたんだろうな。
 休憩室への扉を開けると数人が待機中だった。「貢物?」と俺の持っている巾着を目ざとく見つけた同僚が声をかけてくる。
「ちっげーよバカやめろ」
「何キレてんだ突然。っつーか挙動不審。そんな嬉しかったのかよ」
 挙動不審って。マジか。心臓の音がすっかり落ち着いたと思ったのは気のせいだったのかもしれない。なんだか憮然としてしまって、「そんなに好みの女だった?」と意地悪そうな笑みを浮かべた同僚に、「……内緒」とだけ言うので精一杯だった。

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