羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 弟が外泊でいないということは、今日は自炊しなくてもいいということとほぼ同義だ。自分一人だけのときに料理をしようという気にはなれない。仕事に行くまで何をしよう。
 ゆっくり起きてゆっくりシャワーを浴びて、遅めの朝食――時間的には昼食って感じだったけど、まあ俺のタイムテーブルからしたら立派な朝食だ――を食べたらやることがなくなってしまった。洗濯物も無いし、料理をしてないので洗い物も無い。風呂はシャワー浴びたついでに洗ったし、せっかくの穏やかな昼下がりなのに掃除機の音を響かせるのもいかがなものかと思う。
 いつもなら、こういうときって適当な女に連絡とかしてたんだけど。
 一人でいるのってつまらない。というか、俺は一人でいるときの時間の使い方が下手なのだ。寝るか家事か、みたいな選択肢しか浮かんでこない。かと言って今女と遊ぶ気分かと言われてもちょっと違う。今誰かに気を遣いたくない。
 除湿モードにしたクーラーの下で涼んでいると、ふとプライベート用の携帯が目に留まった。
 そうだ、久々にカクテルの勉強でもしようかな。
 そんな風に思ったのは、自分の作ったものを褒めてもらえてやる気が出たからという子供みたいな理由だった。夏から秋にかけては旬の果物がどんどん出てくる季節だし、マンネリ防止のためにもいいだろう。
 俺はそれから、私物のシェーカーやシロップを引っ張り出してきて練習に励んだ。傍らにはもうぼろぼろになったノート。俺がまだ新人で、シェーカーの握り方ひとつまともに分かっていなかったような頃に買ったものだ。あの人に習ったこと全部、ここに書いた。五冊セットで四百円くらいだったノートは、今では随分と使い古されてしまっている。
 人に自慢できる職業ではないかもしれないけれど、俺なりに努力してきたと胸を張って言える。カクテルを褒めてもらえるのは、俺自身のことも認めてもらえたような気分になる。嬉しいな、と思う。
 二時間ほど熱中して、試してみた配合のいくつかをノートにメモする。やっぱり葡萄とか桃とか、美味いよな。硬めの果物なら飾り切りするんだけど……。俺、飾り切り苦手なんだよな。我ながら苦手なことが多すぎてげんなりしてくる。ゆっくりやるなら大丈夫なんだけど、素早くやろうとするともう駄目。完璧なお手本を見て勉強したはずなのに首を傾げるしかない。まあ、あの人みたいにそつなく淀みなくできるのも珍しいか。
 もう随分長い間会ってないな、と思った。一人前になったら連絡しよう、今のままじゃまだまだ、なんて考えていたらあっという間に時は過ぎて。
 俺のことを覚えていてくれているだろうか。「俺が新人教育って奇跡レベルの珍しさだよお前、ついてないねー」と柔らかく笑う声が好きだった。褒めてもらえると嬉しい、という当たり前の感情はあの人からもらった。あの日々があったからこそ俺は今もカクテルを作っているしこの仕事を続けている。
 昔を思い出し、少しだけ感傷的な気分に浸りながら片付けをして着替えて家を出た。従業員用の入り口をくぐり抜けて、左。ホールに続く扉の斜向かいが休憩所だ。ちょうど人がいない時間らしく、一人でタイムカードを切って準備しているとオーナーがひょっこり姿を現す。
「おっ、ゆき! 明日休みの奴でシフト出してないのあとお前だけだぞ」
「うっわすみません、今書きます」
 オーナーは、俺と二人のときだけ俺のことを本名の方の愛称で呼ぶ。そんな面倒なことしなくても、と仕事を始めた当初は思ったのだが、「いやぁ、ただでさえ自分見失っちまいそうな仕事だからなぁ。オレの姉貴もそういう方針だからもう癖みたいなもんだわな」と言われた。オーナーのお姉さんはホストクラブの方を担当している……んだったか。現場で従業員をまとめている雇われ店長は別にいるみたいだけど。基本的にはどこかのアパートの管理人だ、っていう話はオーナーから聞いたことがある。
 俺が希望シフトを伝えると、オーナーは意外そうな顔をした。
「ん? お前、休みの日の早番とか生活サイクルおかしくなるから絶対やりたくねえって言ってなかった?」
「あー……いや、ちょっと諸事情で」
「いや、無理してるんじゃなけりゃいいんだけどな? 土日の早番は負担でかいから」
 土日の昼はマリちゃんがきてくれるかもしれないからなんて言えない。恥ずかしいにも程がある。もうすぐ夏休みも終わるし、昼間来るなら土日しか選択肢が無い。
「んーじゃまあ、次のシフトはこれで通すわ。今日も頑張って稼いでちょーだいよ」
「はは、頑張ります」
 若干早く着いていたので、ホールに入るまでにはまだ時間がある。
 少し悩んでメールを打つ。催促だと思われないように慎重に文面を考えた。来るときには連絡をすると言ってくれたけれど、来てくれたのに俺がいないのでは申し訳なさすぎる。それなら、先に言っておかないと。
 自分にしては無駄に長くなりすぎてしまった気がするメールを三回読み直して送信する。時計を見ると時間ぎりぎりで、俺は慌てて休憩室を出てホールへと続く扉を開けたのだった。
 退勤して携帯を確認したがまだ返信はきていなかった。マリちゃんはメールに気付きさえすればすぐ返信してくれる。前回とか、メールして風呂入って出たらもう返信きてたし。俺は寝ている間にメールがあってもいいように携帯をサイレントモードにした。
 一人の家は静かだ。
 心の隙間を自覚する。寂しいなあ、と思う。それを口にするほど幼くも、純粋でもなくなってしまったけれど。
 寂しいはずなのに、前みたいに適当に女遊びする気になれないのはどうしてだろう。不思議だった。傍にいてくれるなら割と誰でもいいって思ってたんだけど。俺の一人の時間を邪魔してほしい。最近、なんだか自分がらしくないことばかり考えてしまっているみたいに思える。一人の時間は余計なことを考えてしまうからいけない。
 明日は休みだから、ゆっくりしよう。スーパーに行って果物を買ってきて、本格的にカクテルのレシピを考えてみるのもありだ。
 軽くシャワーを浴びて、飯はもういいやと歯を磨きさっさとベッドに潜り込む。割とすぐに眠気がきたので、うとうとするままに任せて体の力を抜く。
 弟が何時頃帰ってくるか聞いてなかったな、と思いながら、寂しいのにどこか穏やかな気持ちで眠りについた。

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