羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 屋上には意外なことに誰もいなかった。正木が、二階から三階への階段の辺りでスマホをチェックして怖い顔で舌打ちしていたのでそれと何か関係があるのかもしれない。おれたちはコンクリートの地面に並んで座った。一年の頃は前後に座っていたけれど、隣にというのは入学式以来だった。
 正木の話はとても簡潔で、おれが何か差し挟む余地もない。正木がただ、随分と昔からおれのことを好きでいてくれたのが分かった。端的すぎてそれ以外のことが一切分からなかったのだが、とりあえず敵意を持たれてはいないことが確約されただけでおれは心底ほっとしていた。
「……悪い。お前の周りの奴らとか、怖がらせてんの気付いてなかった」
「えっ! いやいやおれも何もかも気付いてなかったし! 別に!」
「クラス、別になったから遠目でしか見てられなかったんだよ」
「と、遠目で睨まれるよりは普通に話しかけてくれる方がいいなあ……」
 普通に喋ってれば、たぶんおれの友達も変に怖がったりしないんじゃないかな。
 それにしても、正木はどうしておれのことが好きなんだろう。女子に「怖いけどカッコイイ」と言われている正木と、勉強も運動もぱっとしないおれはなかなかにアンバランスだと思う。天秤があったらおれは勢いよく空に飛ばされるに違いない。
「あの、なんでおれなの?」
「は?」
「いや、正木ってかっこいいのになんでおれのこと……その、好き? になってくれたのかなと思って。まさかこの顔に一目惚れはしないだろうし」
「俺はお前の顔いいと思うけど」
「さ、さすがに盲目すぎるよ……」
 素直に照れる。正木は暫くむっつりと押し黙っていたが、やがて「……お前、俺のこと避けたりしなかったから」と小さく言った。
 これはおれも初めて知ったのだが、正木は高校に入学する前から地元では有名だったらしい。そういえばこいつは普通のやつにはとても怖がられているけれど、不良仲間からは随分慕われているようなのだった。
 不良でもないくせに、入学して真っ先に話しかけてきたから気になっていつの間にか……という正木の言葉におれは少しだけ複雑な気分になる。というのも、おれが入学してすぐに正木に話しかけたとき、おれは正木のことを不良だとは認識していなかったからだ。ピアスやアクセサリーの類は一切していなかったし、髪の色も水泳部の塩素焼けと言われれば納得してしまいそうな割と落ち着いたトーンの色だったのでまさか不良とは思わなかった。おまけに、睨まれたりもしなかったし。
 だから正木がおれに好意的な理由は完全に偶然というか単なるラッキーというか、不当に過大評価を得ている気がして落ち着かない。そのことを伝えてみると、「でも今は俺のことそういう奴だって分かってんだろ。なのに逃げねえし」と事も無げに返された。いやだからそれも初っ端に話し掛けたとき全然怖い対応をされなかったからであって、おれの人格が上等なわけではないんだよ。
 意外な純真さに触れてしまってむず痒くなる。おれの聞いたことにぽつりぽつりと答える正木はなんというか、こう、すごくいいなあと思った。どうしよう。どうしてだろう。
 おれがもやもやを抱えている間に五限終わりのチャイムが鳴った。「お前、もう戻れば」と正木が教室に帰ることをうながしてくる。
「正木は?」
「……午後はフケる。授業受ける気分じゃねえしたぶんしばらく引きずるから」
「引きずる? 何が?」
「いや……好きだって、ばれたし」
 男に好かれるのもそういう風に見られてるのも気持ち悪いだろうからもうやめる、と正木は言った。待って待って、話が超特急すぎる。
「おれ、気持ち悪いとか言ってないよ」
「は、あ? いや、でも」
「嫌われてるより好かれてる方がいいし。まあ最初は信じられなかったしびっくりしたけど……おれ、ほんとに何も知らなかったから、正木のこともっと知りたい」
 正木のこともっと好きになりたい、と言うと、そいつの顔がみるみるうちに真っ赤になって不思議と気分が高揚する。まずは友達から、なんてべたすぎる台詞でも言ってみようかとも考えたのだが、別にこれまでだっておれはなんだかんだ正木のことを友達だと思っていたので、まずは友達以上恋人未満から――といったところかもしれない。
 正木が照れると不機嫌そうな顔になるのはさっき気付いた。今、恥ずかしすぎると泣きそうな顔になるっていうのも、知った。
 ……これ、あんまり他のやつには見られたくないなあ。
 六限が始まるチャイムが鳴った。おれもこのままサボってしまいたいところだけれど、流石に初サボりで午後丸ごとはレベルが高すぎる。何より、正木が全然目を合わせてくれなくなってしまった。真っ赤になって視線をうろうろさせる正木は予想外にかわいかったけれど、このままじゃおれがいじめっ子みたいだ。
「……明日は話しかけていい?」
 最後にそう尋ねてみると、頷くのが精一杯ですみたいな感じで首を振ってくれたのでとりあえず満足して立ち上がる。扉を開けて階段を駆け下りて、教室に戻る途中ふと頬に手を当てると冗談みたいに熱い。これじゃ正木のことを色々言えないな、と一人で笑った。


 次の日からおれはなるべく自分から正木に話しかけるようにした。屋上から急いで教室に戻ったあと、先生には、「腹痛でトイレから出られませんでした」と言ったらあっさり信じてもらえた。それどころか体調を心配されてしまって、非常に心苦しかったのでもう授業をサボることはないだろうなと思う。
 そして気付いたのだが、正木の近くにいるときは睨まれない。というか、あれは遠目でよく見えなくて目を細めていただけだったんじゃないだろうか。正木は、あんまり視力がよくないらしい。眼鏡が必要というほどではないからかけていないのだとか。
 はじめのうちは正木とつるんでいる不良仲間に怪訝そうな顔をされたものの、その人たちと話してみるとみんな割といい人で割とすぐに慣れることができた。髪の色や服装は奇抜でも、不良というよりはやんちゃって感じ。煙草を吸っている人があまりいなかったのも意外で、どうやら「ヤニは体が動かなくなる」というのがその理由のようだ。喧嘩に重きを置いているみたいだけれど、こういう人たち同士の喧嘩ってコミュニケーションツールだったりするのかもしれない。なるほど、だからおれは殴られなかったのか。共通言語じゃないからな。
 心配してくれていた友達には、「仲直りできたしもっと仲良くなれたよ」と無難に言っておいた。「お前あの正木と喧嘩してたの……?」とまた誤解を生んでしまったが説明のしようがないので濁している。とにかく今は、正木のおれに対する反応が面白くてそれどころではないのだった。
 そう、面白いのだ。面白がってはいけないと頭では分かっていても、おれが距離をつめようとするたび困ったように視線を彷徨わせるのを見るとなんとも形容しがたい気持ちになる。他の不良仲間がいるとき――特にあのピアスの人がいるときはよく視線で助けを求めているのが分かってちょっともやもやするけれど。あの二人は、家が近所なのだそうだ。
 だから最近はもっぱら二人きりで会っている。おれが、そうしたいと言っている。最近涼しくなってきた屋上の給水塔の陰に並んで座って、とりとめのない話をして過ごすのだ。
「……お前、何がしてえのか分かんねえよ」
「実はおれも。正木のこと、もっと知りたいっていうのは確かなんだけど」
 あ、また目逸らした。
 おれは正木の手を取って、その指をそっと親指の腹でなぞる。静かな屋上だから、息を呑む音もちゃんと聞こえる。
「っな、に、すんだ」
「やっとおれのこと見てくれた。ねえ、目逸らすのって癖?」
「んなわけねえだろ……」
 緊張する、と言って正木はほんの少しだけ下唇を噛んだ。こんな風に、おれにちょっと触れられたくらいで身を硬くしてしまう正木が、あんなにきれいな字を書くのと同じ手で人を殴ることもあるのか、と思うと不思議な気分だった。
「……お前、物好きもほどほどにしねえと目ぇつけられるぞ」
「え、どういう意味?」
「最近、帰りもたまに一緒になるだろ。他校の奴に見られるぞ。この学校でお前にちょっかいかける奴はいねえと思うけど、よその奴らは分かんねえから」
「そ、それは捕まってぼこぼこにされるとかいう……?」
「可能性はあるっつってんだよ。……お前、無理してんじゃねえの? 俺が怖くて傍にいるとかやめろよ。別に俺は、気持ち悪いって言われても仕方ないと思ってたし」
「申し訳ないんだけどこんなかわいい反応されて今更正木のこと怖がるのはちょっと無理かな……?」
 もしかしてどんな反応してるか自覚が無いのだろうか。何言ってんだこいつ、みたいな目で軽く睨まれたけどほんとのことなんだからしょうがない。
「んー、ぼこぼこにされそうになったら頑張って戦うよ」
「お前喧嘩したことあんの」
「無いなぁ」
「無いんじゃねえかよ」
 目を細めて笑う正木。いいなあ。こういう顔もっと見たいな。
「今から鍛えても強くなれるかな?」
「好きで喧嘩するんじゃねえならやめとけ」
 それに、と正木は言いよどみながらも言葉を紡いだ。「……俺も、お前の目の前で喧嘩すんのはちょっと嫌だ」どうしてと聞くと幻滅されそう、なんて返ってくる。
「……正木はなんで喧嘩するようになったの?」
「あ? あー……中学んとき、友達がカツアゲに遭って。相手見つけ出してボコッたら仕返しに来たりしたから、全部返り討ちにしてたらいつの間にか」
「そうだったんだ……っていうか最初から強かったんだ」
「体デカかったってだけだろ。暫くしたら何もしてなくても『調子乗ってる』っつって喧嘩売ってくる奴が増えて、黙って殴られんのも癪だから勝てる喧嘩は勝ってきた」
 なるほど、正木が他の不良仲間に慕われているのはそういう理由があったのか。自分が誰かに理由なく虐げられたとして、それを怒ってくれるし助けてくれる人がいたらそりゃ慕う。
「正木は、おれが傍にいたら嫌? 迷惑?」
「……お前案外イイ性格してんな。そんなわけねえだろって言わせたいのかよ」
 そんなわけねえだろって思ってくれてるんだ。うわあ、照れる。
「まあ、お前につっかかってくる奴がいたら俺がどうにかしてやるよ。俺のせいだろうし」
「絡まれないように努力する」
「ん。そうしろ」
 走って逃げろよ、と念を押されて思わず笑った。正木、過保護だな。
 五限の予鈴が鳴ったのでおれは名残惜しく思いながらも立ち上がる。今日は正木もちゃんと授業に出るつもりらしくすぐに腰を上げたので、正木を見下ろすなんて機会滅多に無いおれはちょっと寂しくなった。おれより十センチ近く高いんだよね、正木。おれも一応平均以上なんだけどなあ。
 屋上の扉を開けて階段を下りて踊り場での別れ際、「またね」と言ったらかすかに笑って頷いてくれたので、五限の古典の授業中ずっと嬉しくて、一度も眠くならなかった。とてもいい気分だった。放課後、他校のやつらに絡まれるまでは。

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