羽化に唇 ▽▽▽ ( UNION / GARDEN )

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 次にマリちゃんが来てくれたのはあの日から数えて三回目の早出の日だった。この店は、昼間は年齢制限も解除され、イベントホールやちょっとしたライブの会場のような装いになる。
 心なしかそわそわとした様子で「今日は一人で来ました」と柔らかく笑ったマリちゃんは、元の髪型に戻っていた。うーん、俺はこっちのがいいな。前のも確かに似合ってたんだけど、今の方がマリちゃんって感じがするし。
 それをそのまま伝えてみると、マリちゃんは少しだけ恥ずかしそうにして眉を下げる。
「よかった。おれ、あの髪型一人じゃできないので……友達に習ったほうがいいかなって思っていたんです」
「やー、今のままでも大丈夫でしょ。髪質しっかりしてるからワックス無くても十分キマるって」
「浮いていませんか? こういうところでは」
「全然。そのままがいいよ、せっかく痛んでない髪なんだから」
 マリちゃんの目が嬉しそうに細められて、いいな、と思う。「ありがとうございます」という穏やかな声音が明るくなるのも、ふわりと綻んだ口元も、素直すぎる感情表現が眩しくなる。なんでこんな、真っ直ぐ気持ちを表に出せるんだろう。これくらいの歳って所謂反抗期ってやつじゃなかったっけ? 育ちがいいと反抗期すら素通りするのか?
「あの……この間は飲み物まで作っていただいて、ありがとうございます。美味しかったです」
「あ、美味しかった? よかったー、実はちょっと心配だったんだ」
 ぺこりと下げられた頭のつむじを見ながら俺はほっとしていた。自分の好きなように作ってしまったから、そう言ってもらえてよかった。なんとなく聞いてみたくなって、「何が入ってるか分かった?」と少し意地悪な問いかけをしてみる。
 別に舌を試してやろうなんて思ってないが、分かってもらえたらやっぱり嬉しいから。
 既に何を飲んだか覚えていないという可能性も考えていたのに、マリちゃんは悩むそぶりもなく口を開く。
「流石に全部は分かりませんでしたけど。ヨーグルトとキウイがメインで、レモンにはちみつが少しずつ……と、あとひとつ、何か」
 聞いたということは答えを教えてくれるんですか? と興味深げに瞳が語っている。俺はというと、冗談半分に聞いたのにきっちり答えを当ててこられて正直驚いていた。ヨーグルトは分かりやすいし、キウイは果肉を使ったから当たるのも納得なのだがそれ以外の材料を当てたのがすごい。レモンとはちみつ以外にもうひとつ、というのも大正解。正確に言うとレモンとはちみつというか、レモネードの原液だ。俺はよくワインと一緒にアメリカンレモネードにして飲んでいるので、つい手が伸びた。
「マリちゃんすごいね……いや、聞いておいてなんだけど、びっくりした。そこまで分かるんだ」
「作っていただけて嬉しかったので、次にお会いしたときぜひ感想を言いたいなと思っていて。かなり真剣に飲んだつもりだったんですけど、やっぱり全部は無理でした」
 なに、照れてんの? なんで照れるのそこで。俺までなんか恥ずかしくなってくるんだけど。あんな短時間で作ったものにここまで真っ直ぐ向き合ってもらえるなんて思ってなかった。
「苺とか、その辺りな気がしたんですけど……ちょっと自信が無いです」
「や、十分近いわ。ほぼ正解だし。クランベリージュースがちょっとだけ入ってたんだよ、あれ」
 ここまでくるとちょっとした感動すら覚える。こんなにしっかり味わってもらえるとか、作り手冥利に尽きるな。味が分かるからといって変に蘊蓄を垂れ流すわけでもなし、こういう子に料理を振る舞うのはきっと楽しいだろう。
 惜しかったですねと言って控えめに笑うマリちゃんは、きっと当たり前のようにしてこんな風に物事に向き合っているのだ。本当に、すごい。俺には真似できないことを、マリちゃんはなんてことない顔でする。
 こんなにすごいことなのに、きっとマリちゃんは気付いていない。
「……ねえ、今日は何飲みたい?」
「セツさんが作ってくださるなら、なんでも嬉しいです。おれのために考えてくれてるってことなので」
 またすぐそういうこと言う。っつーかやっぱり言うんじゃん。俺の予想、間違ってなかったね。俺はいつだったか同僚とした会話を思い出してなんとなく勝った気持ちになる。こういう子ってさー、きっと成長して彼女できたりしたら、彼女が作ろうとして失敗した飯とか、とりあえず一口食べてみようとするんだろうな。たとえそれが不味くても、作ってくれたということに対してまず「ありがとう」って言えるんだろう。俺だったら絶対無理。上っ面だけなら取り繕えるけど、そういうこと本気では思えない。女が自分より料理下手とか、割と萎えるわ。言わないけど。
 マリちゃんは、「ここって、飲み物の代金どこで払えばいいんでしょうか……」なんてホール内を見回している。こっちにたかる気ゼロなとこが逆に奢ってあげたくなるんだよな。年上に可愛がられるタイプと見たよ。素直な反応が見てて飽きないし、癒されるし、なんか纏ってる空気感が清浄っつーか清廉っつーか、とにかくいいね。弟にも見習わせたいわマジで。少しは真面目になるんじゃないの。
「マリちゃーん、俺がいるのに自分でお金出そうとしないで! 情けない大人に見えるから!」
「えっ。ご、ごめんなさい……? あの、でも」
「まだ、お礼終わってないんだよ。沢山お世話になったから、一回きりで終わらせないでほしいんだって」
 なんか最後の方別れようとしたときに縋ってくる女みたいな台詞になってしまった。自分で自分がキモい。でもまあ、マリちゃんはバカにしたりしないから、いいや。
 案の定マリちゃんは少し悩ましげな顔で微笑んで、「……ありがとうございます。いただきます」と言う。頑なに食い下がってこないのも有難い。
 マリちゃんと何度か会ってみて、なんでこんなに喋ってるとき楽なんだろうなと思っていたのだが、おそらくマリちゃんは人との距離感の掴み方が抜群に上手い。性格が控えめだからというだけじゃなくて、深入りしてはいけない部分をきちんと分かっている感じがする。そりゃ楽だわ、無害だもん。こっちのことを暴こうとしてこない。身構えなくていい。「そのまま」でもいい。
 俺はあまり器用な方ではない。自分でちゃんと分かってる。弟の面倒を見てきたから家事は不可抗力で場数をこなしてきたけど、上手いかと言われるとかなり微妙。料理なんて十年近くやってるはずなのに未だにありふれた家庭料理を作るのがやっとだし、掃除だってできることならやりたくない。ハウスキーパーを雇うことも考えたけれど、弟が嫌がった。あいつは自分のテリトリーにずけずけ入ってこられるのを嫌う。そんなとこばっかり俺に似てる。俺たちはきっと面倒な性格をしていて、それを許してくれる奴がいてくれないと駄目になる。
 前回マリちゃんが来てくれたとき。恐ろしいほどに混んでいて、俺は「喋りながら作業するのが苦手」みたいなことをマリちゃんに言った。自分でも驚いた。何かが苦手とか、やりたくないとか、そういうマイナスのことがぽろっと口からこぼれたことにも、相手が家族や、同僚ですらない奴だったことにも。
 普通だったら誤魔化していた。絶対に。それは弱味を見せたくないからで、なんでもそこそこ上手くやっている風に見えないと駄目だと思っていた。器用でないなりに、それを誤魔化すことは割と上手いはずだ。適当でいい加減。そういうイメージがよかった。現に、俺が家では料理をするなんて知っている奴は同僚にすら殆どいない。
 明るく楽しく。湿っぽいのは嫌い。親はいなくても弟がいる。女だっていくらでも。金だって稼げる。
 弟が生きていくのに必要な分は全て俺の収入から賄っている。あいつがあのろくでもない、血が繋がっているだけの人間に対して何の負い目も感じなくていいように。

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