04 夏希はそっと先ほどの林に視線を向けるが、もうそこには何も見えなかった。 ――ふと、耳に煩い声が林の中から聞こえた。 「おい……?」 赤ん坊の泣き声だった。次第に大きくなる。 それに呼応したように馬車の速度が速まった。 男は御者に声をかけた。 「赤ん坊が」 「構うな。山の中で赤ん坊の声がしたら、近づかないほうがいい」 「しかし、な」 赤ん坊の声は更に大きくなって馬車に迫っている。 「ひ……」 異様さに男は青ざめて周囲を見回す。 夏希は全身が粟立つのを感じた。 ――なにか、居る。 夏希はゆっくりと男にバレないように、縄をほどいていく。 陽子も何か感じとったのか、身をよじり、男に叫んだ。 「縄をほどいて!」 もはや大声でなくては聞こえないほど、その声は近い。 「襲われたら身を守る方法はあるの!?」 男は頭をふる。 「縄をほどいて。その剣をあたしにください」 男は躊躇い、躊躇い、林と陽子とを見くらべている。 「早く!!」 陽子が叫び、夏希が縄を完全に解いたその瞬間。 馬車が大きく波打った。その震動で夏希たちは馬車から投げ出された。膝をついて軟着陸した夏希は素早く周囲に目を配る。何かの気配はもうすぐそこまで来ていた。姿が見えないのが不気味だ。 「お願い! 縄をほどいて!!」 陽子の声が聞こえて、夏希は一緒に乗っていた男を探した。 「これをほどいて剣をよこして!」 男は自暴しているようだった。坂を奇声を上げながら下っていく。その背に数匹の黒い犬が群がる。一瞬のうちに男の首と片腕がなくなっていた。 夏希は陽子の縄をほどきにかかる。 「夏希……? 縄はどうしたの!?」 「こーゆーの得意だから」 驚く陽子の腕の戒めをとく。 ――陽子が言ってた、ジョウユウって奴のお手並み拝見だな。 立ち上がった陽子と並ぶようにして、夏希は辺りを見回す。御者にもすでに犬が群がり、その白い鼻面を紅く染めていた。 陽子は足元の小石を掻き集めて、剣の包みを持った男の元へと近づく。 犬が気付いた。陽子は小走りに駆け出す。夏希はその後を追うようにしてついてゆく。陽子は犬に小石を当てて散らすが、男の死体まであと少しのところで小石が無くなった。 「陽子は早く剣を持て!」 夏希は右から飛びかかってきた犬を身を沈めて交し、その反動で犬が着地する前に足蹴りする。更に飛びかかってきた二匹の犬を前に手をつき跳んで交した。着地する際に一匹を土台にし、顔に食い付こうとしたもう一匹の腹に拳を打ち込む。 「ぁあ――ああぁ!!」 陽子の声にならない悲鳴が聞こえて、同時に、陽子に飛びかかろうとした犬を剣で斬る。見事な裁きとは裏腹に陽子の表情は蒼白だ。 「陽子!」 犬が新しい仲間を呼びかねない。そうなると厄介だ。夏希は犬の合間をくぐりぬけ、坂の下を指した。 坂を下り、途中から山に分け入りしばらく歩いたところで、大きな木を見つけた。二人はその太い幹に体を預けて座っていた。 「……夏希、すごい……」 陽子は感心する。尋常でない夏希の、その力。 自分はジョウユウの力を借りなければ即死だというのに。 当の本人は軽く苦笑した。 「まあ、ね」 「何か習ってたの?」 陽子が問うと、夏希は頭を振る。 「いや、親父が真剣の道場開いててさ。おれは小さいころから鍛えられてきたワケ。だから本当は剣が一番得意だけど。――後取りに、って考えてたんだろうけど、こんなとこに来ちゃあな」 「そんな……お父さんが心配してるでしょう?」 「ううん。去年死んだから」 え、と思わず夏希を振り返ってしまった。 「母さんはおれが産まれてすぐ死んじゃったしなあ。陽子みたいに、そんなにあっちが恋しくないんだよね」 そんな、と言ったきり、陽子は言葉が出なかった。 しばらくの沈黙のあと、風で木の葉が騒ぐ音に混じって小さな寝息が聞こえる。そっと夏希を振り返って見ると、やはり夏希は寝ていた。 ――悩みなんかない、そう思っていた。 学校で夏希は他の生徒とは違っていた。いじめに参加せず、リーダー格の子にこびたりもしない。馴れ合いも余り好きではなさそうで、その自由奔放さは男の子っぽいと言えばそうだった。 暗い過去を抱えているようには少しも見えなかった。 夏希の頬にかすり傷がついてるのをみつけて、陽子は夏希の右手に球を握らせた。 |