02 「とにかく、顔を洗いなさい」 そう言って老婆は水の入った桶を二つ置いた。 夏希と陽子は黙って頷く。 夏希は潮でヒリヒリしている顔に桶から掬った水をかけてやった。冷たい水が肌に心地良い。 二人が洗い終わるのを見届けて、老婆は次に大きなどんぶりを机に出す。軽く湯気を立てて、餅が沈んだスープが入っていた。 「おあがり。たりなければ、もっとあるからね」 「どうも」 夏希はそれを受け取ったが、陽子は首を横に振った。 「……食べないのかね?」 「ほしくありません」 「口をつけてみると、意外におなかがすいていたりするものだよ」 そんな会話を聞き流しつつ、夏希はスプーンに似ているものでスープを掬って口に運ぶ。 「あっちから来たんだね?」 老婆の声に夏希は顔を上げた。 「あっち?」 「海の向こうさ。キョカイを渡ってきたんだろう?」 夏希と陽子は互いの顔を見た。 「……キョカイって、なんですか?」 「崖の下の海だよ。なんにもない、まっくらな海。……あんたたち、名前は?」 老婆は夏希が食べ終わったどんぶりを片付け、かわりに紙と硯と筆を出した。まず陽子に筆を渡す。 「中嶋、陽子です」 「相模夏希」 「日本の名前だね」 「……ここは中国なんですか?」 陽子が尋ねると、老婆は首を傾け別の筆をとった。 「ここは巧国だ。正確には巧州国だね――ここは淳州符楊郡、廬江郷槙県配浪。あたしは配浪の長老だ」 これで、と夏希は思った。この世界は別世界なんだとはっきりした。目覚めた時からなんとなく感じていた直感が、今ここで確信した。 「ここでは漢字をつかうんですか?」 「文字ならつかうともさ。あんたたちはいくつだね」 「十六歳」 「あたしも十六です。……じゃ、キョカイというのも漢字か?」 「虚無の海と書くね。――仕事は?」 「学生です」 陽子が言うと、老婆は軽くため息をつく。 「言葉はしゃべれるようだね。文字も読めるようだし。あの妙な剣のほかに、なにを持ってる?」 陽子は制服のポケットと探り、ハンカチと櫛、手鏡と生徒手帳、壊れた腕時計を机の上に並べた。 「そちらの娘さんは?」 老婆は陽子の出した品物を懐に納めながら、夏希の方を見た。 「持ってない。落としてきたみたいだ」 夏希が言うと、老婆はどういう意味なのか頭を振る。それを見かねて陽子がおずおずと尋ねた。 「……あたしたち、これからどうなるんですか」 「さてね、そんなのは上の人が決めることだ」 「そんな……あたし、なにか悪いことをしたんですか?」 こんな牢獄に入れられるほど悪い行いはしていないはずだ。 老婆は首を横に振る。 「べつに悪いことをしたわけじゃない。ただ、カイキャクは県知事に届けるのが決まりでね。悪く思わないでおくれ」 「カイキャク?」 「海から来る来訪人のことさ。海の客、と書く。虚海のずっと東のほうから来ると、そう言われている。虚海の東の果てには日本という国があるそうだ。べつにたしかめた者がいるわけじゃないけど、実際に海客が流れてくるんだからそうなんだろうね」 老婆は二人を交互に見た。 「日本の人間がときおりショクに巻き込まれて東の海岸に流れつく。あんたたちのようにね。それを海客というんだよ」 「ショク?」 「食べる、に虫と書くんだ。そうだね、嵐みたいなものかね。嵐とは違って、突然はじまって、突然終わる。そのあとで海客が流れつくんだ……たいがいは死体だけどね。海客は生きていても死んでいても上へ届けることになってる。上のほうのえらい人があんたをどうするか決めるんだ」 「どうするか?」 「どういうことになるのか、ほんとうのことは知らないよ。ここに生きている海客が流れついたのは、あたしのお祖母さんのとき以来のことだからね。その海客は、県庁に送られる前に死んだそうだ。あんたたちは死なずにたどりついた。運がよかったね」 「あの……」 「なんだえ」 「ここはいったい、どこなんですか?」 陽子の問いに老婆は首を傾げ、地名を書いた紙を示す。 「淳州だよ。さっき、ここに」 「そうじゃありません!」 陽子は大声を出し、それを遮った。 「あたし、虚海なんで知りません。巧国なんて国、知りません。こんな世界、知らない。ここはどこなんですか!?」 老婆は息をつき、困ったよう肩を竦めただけだった。 「……帰る方法を教えてください」 「ないね」 あっさり言われて、陽子は唇を噛んだ。 「ない、って」 「人は虚海を越えられないのさ。来ることはできても、行くことはできない。こちらからむこうへ行った人間も、帰った海客もいない」 陽子はその事実をしばらく考えているようだった。それから僅かに口を開いた。 「……帰れない? そんなバカな」 「むりだね」 更にきっぱりと言われて、陽子の目に涙が浮かんだ。 「……だって、あたし、両親だって、いるんです。学校にだって行かなきゃならないし。ゆうべだって外泊だし、今日だって無断欠席だし、きっとみんな心配して」 夏希は涙を溢す陽子を、目を細めて見ていた。 夏希には元の世界がそんなにも恋しくは思わなかった。同時に、自分はもう帰れないんだと納得していた。 「あたし、家に帰りたい……!」 老婆は持ってきたものをしまい、最後に燭台を持って牢獄を出た。 真っ暗な牢獄には鍵を閉める音と、陽子の泣きじゃくる声だけが響いた。 「中嶋……」 夏希はそっと陽子の背中に触れる。すると陽子は夏希にしがみつく様にして一層激しく泣き出した。 「……帰りたいっ……お父さん……お母さん……!」 嗚咽の合間に聞こえる言葉は、どれも夏希には関係のないものだった。 |