15 ◆ 男に拾われてから一週間が経とうとしていた。夏希の体は、夏希自身が驚くほどのスピードで快調へと向かっている。深手だったはずの老人にやられた切り傷は五日で跡形なく癒えてしまっている。この分ならば骨折していた左肩もそう時間はかからずに治るであろう。 夏希が寝泊まりしている部屋は元々男の寝室だったらしい。夜は同じ部屋で、両端にあるもう一つの寝台で男は寝る。時々ふらりとどこかへ姿を消したりするが、動けない夏希の元へ食事を持ってきたりと何かと夏希の世話はこの男が焼いてくれている。不思議に思った夏希は仕事はないのかと訊ねたが、あるにはあるが今はないと歯切れの悪い返答があった。仕事がないわりには生活に困窮している様子はなかったのでさらに不思議に思ったが、特に深入りしたりはしなかった。 男の名前は桓タイという。臥せて時間をもて余す夏希に桓タイはこの世界について教えてくれた。以前達姐もこの世界について語っていたが、それよりも桓タイは詳しく教えてくれる。 「――十二国?」 どこからか古い掛け軸を引っ張り出してきて、それを夏希に見せながら桓タイは頷く。 「慶東国、奏南国、範西国、柳北国で四大国。雁州国、恭州国、才州国、巧州国で四州国。それから四極国が、戴極国、舜極国、芳極国、漣極国だ。それぞれ一国に一人の王がいて国を治める」 掛け軸には真ん中に丸い島があり、それを中心に花びらのように広がった地図が描かれている。 夏希はその丸い島を指した。 「これは?」 「黄海という。黄海は妖魔の住処だ。黄海の真ん中辺りに五つの神仙が住まう山々があって、そのうちのホウザンという山が、この世で唯一キリンが生まれる聖地だ」 そう言って、桓タイは掛け軸の上に指で蓬山、麒麟となぞる。 麒麟、とその音を夏希は口の中で吟味する。夏希がいた世界では伝説や神話でしか聞いたことがないことが、こちらでは当たり前のように存在している。それがひどく不思議でならなかった。初めは宗教的な思想から来ているのかと思ったが、むしろ一般教養として扱われているから余計に戸惑う。 「麒麟はこの世で唯一金の髪色をしていて、自国の王を選ぶ。雄は麒、雌は麟、国氏を冠して号となす。――例えば慶の麒麟は雄だそうだから、国氏が景で、……景麒というな」 夏希はぽかんと桓タイを見た。 「……金の髪……景、麒……?」 そんな夏希の変化に気付かずに、桓タイはするすると文字をなぞっていく。 「ああ。実際には台輔とお呼びするのが礼儀だがな」 夏希の脳内に、忘れもしないその日の情景が浮かび上がる。 どんよりとした冬の空に、同じく鼠色にぼやけた港。そこだけ絵の具をぶちまけたように目に痛い深紅。蹲(うずくま)る陽子。その傍らの、金髪の男。 ――タイホ 男はそう呼ばれていた。夏希が実際に聞いたのは一回きりだったが、陽子によると、その男はケイキと名乗ったが従えている獣たちにはタイホと呼ばれていたそうだ。 ――まさか、陽子は。 夏希は震える唇を開いた。 「その、麒麟っていうのはどうやって王を……?」 「俺も詳しくは分からないが……麒麟は孤高不恭の生き物で、王以外の者には膝を折らない。だから即位式では麒麟は王の前で叩頭して民に見せる。ひとまずは麒麟が跪(ひざまず)けば王である証になるな」 「――慶国は今、王は」 「ああ、つい三月(みつき)ほど前に即位したばかりだな」 そうか、と夏希は軽く目眩のする気持ちで掛け軸の、慶国を見やる。 では、陽子は、この異世界の王だったのか。 いや、むしろ『異』であるのは自分たちのほうで、今まで疑うことさえしなかった常識が一切通用しない。なにが常識か非常識なのか分からない。そんな場所で、彼女は今頑張っているのだろうか。 陽子、と夏希は胸のうちで思いを馳せる。事あるごとに泣いていた彼女。到底独りではやっていけなさそうな弱々しい風情だった彼女が、どれほどの思いで王になったのか。 ――そして自分は、そんな彼女が作り上げる国の中にいる。 唇を噛み、こめかみに力を入れるが、その努力虚しく夏希の目から涙が溢れた。今まで張り詰めていた気持ちがすとんと穏やかになっていくのが分かる。 「……おい?」 桓タイは俯いた夏希の顔を覗き見て、夏希が泣いているのでぎょっとした。 「どうした、傷でも痛むか?」 手の甲を口に当て、嗚咽を漏らすまいと震える夏希に桓タイはおろおろと慌てて背中をさする。 「おい、大丈夫か?」 情けなく眉を下げて夏希の顔を覗き込む桓タイに、夏希は頬を涙で濡らしながら吹き出した。 なぜだか無性に笑いが込み上げてきて、夏希はひとしきり笑い転げた。 そうしてから、すっかり困惑してしまった桓タイを見上げた夏希の顔はすっきりと晴れ上がっている。 その表情が胸に迫り、桓タイは夏希から言葉も出ずに目が離せなかった。 |