百澤禦伝 | ナノ


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慶国和州、州都明郭。無計画に街の開拓を進めた結果、歪な花弁のように隔壁がその周りを漂う。花弁の中心である明郭の地所には高額の税が課せられていて、高貴な者しか住めない土地になっている。その明郭にしがみつくようにして、平民が住み着いているのが北郭と東郭である。悪名高き州侯である呀峰が課した重税、苦役により行き交う人々の表情は皆暗い。
その北郭の片隅、傾いた宿がある。昔こそ宿の体裁を成していたが今や廃墟と化していたこれに、集団でやってきた男たちが住み着いたのは最近の話ではない。その宿から微かに聞こえてくるのは衝撃音。何かがひどく激しくぶつかっては止み、またぶつかっている。宿の門は硬く閉ざされ、中の様子は分からないが先ほどから不規則に聞こえていた音は、ひときわ大きな音がしたあとぴたりとしなくなってしまった。


「――はい終了」

凱之は唾をごくりと呑み込んだ。その動作によりわずかに膨らんだ喉仏が、寸分の狂いもなく突き付けられた木刀の鋒(きっさき)を擦る。

「……ま、また負けた……」

激しい動きのせいで滝のように流れる汗とは別の、何やらひやりとした汗が滲む頬を引き吊らせ、凱之は乾いた喉から言葉を捻り出す。
その瞬間、事の次第を見守っていた人垣からどっと歓声があがった。

「なんだよ凱之。情けないな」
「くそ、凱之も歯が立たないんじゃあ、あと誰が行くんだ」

ここにいる者は皆、武術に心得のある者ばかりである。それも来るべき決戦の日に向けて日々鍛練を怠らずにいる者たちだ。その大の男が揃いも揃って、一月ほど前にやってきたばかりの一人の子供によって何度も尻餅をつかされているのだから驚きである。さらにその子供はつい先ほどまで床に臥せていたはずなのに、そんなことは微塵も感じさせない力強さ、身のこなしの軽さを見せている。だが、成人にも満たない子供――それも女子――にいとも簡単にあしらわれては、毎日訓練をしている男たちの顔が立たないであろう。

「全くなあ、大した娘さんだよ」
「俺なんかもう五回もやられてるぞ」
「俺はこれで十回目だ」

しかしながら男たちの表情は明るい。
桓タイは水瓶に腰掛け、その院子(なかにわ)の様子をぼんやりと眺めていた。
不思議な子供だと思う。彼女は自らを海客だと言った。実際彼女の名――夏希という響きも奇妙だったし、何よりこの世界のことについて全く無知であるのがその証拠である。だが、桓タイは実際に海客を見たことはないが、驚くほどに彼女はこの世界に馴染んできている。ここの仲間たちともすぐに打ち解けてしまった。ほとんどごろつきと言っても過言ではないような顔ぶれにも臆せずに、むしろ楽しそうにじゃれているのを見ていると、初めて対面したときのあの殺気立った、全てを拒絶するかのような表情やあの日に見せた泣き顔は幻だったかのように思う。――桓タイは今でもあの表情が忘れられない。紅潮した頬を大きな瞳から溢れた涙で濡らし、懸命に何かに押し潰されまいとしている小さな姿……
(……って俺は何を考えてるんだ)
はっと我に返った桓タイは、猛烈に顔を横に振ってちらりと沸いた邪念を払う。そうしてから夏希を囲んで楽しそうに談笑する、すっかり夏希に骨抜きにされた顔馴染みらに再び目を遣る。
(そうだな、例えるならば……幼い我が子の成長を見守る、親のような気持ちだろうか)
事実、夏希が来てからはここの男たちの顔色は良くなったし、以前までは度々あった喧嘩がなくなった。夏希がいるだけで穏やかで暖かい空気になるのだ。それはここにいる者全員が、この先が見えない賭け事に人生を費やしているという息の詰まるような状況下での一時的な安らぎや癒しを求めていることに他ならなかった。

「……桓タイ?」

はっとして焦点が合っていなかった視線を戻すと、いつの間にか渦中の人物、夏希が目の前で顔を覗き込んでいる。
どうやら先ほどまでの一人百面相を見られていたようで、夏希の眉が不審そうに歪められている。

「い、いや……ちょっと考え事をしていた」
「ふーん……?」

こほんとわざとらしく咳払いをし、水瓶に座り直す桓タイに夏希は不思議そうに首を傾げた。

「――それより、左腕は大分良くなったようだな」
「ん、ああ。桓タイも少しは動いたらどうだ? おれが相手してやるけど」

ニヤリと挑発的に笑った夏希に、桓タイもニヤリと笑みを返す。

「そりゃ光栄だが遠慮しとくよ。俺は自ら進んでたん瘤作るほど勉強家じゃないんでね」

言って桓タイは立ち上がる。いまだに木刀やら槍やらを振るっている仲間たちを一瞥して、ちぇ、と残念そうに木刀で肩を叩く夏希の頭に手を乗せた。

「――どれ、お前もずっとこんな所に収まってたんじゃあ窮屈だろう」
「?」
「怪我の具合も良いみたいだし、外に散歩がてら飯でも済ましてくるか」

桓タイの言葉に、みるみるうちに夏希の顔が晴れ上がる。
それに対して桓タイは内心苦いものを感じていた。
今まで食事は桓タイらが外で買い込んできた物で間に合わせていた。せめて怪我が治るまではとこの隠れ家で安静にさせていたが、なかなかこの子供に外の世界を見せることに抵抗があり、それでずっと外出することに頷けなかった。それは彼女が海客だからではない。腐敗甚だしいこの街を見せたくなかったのだ。海客としてこの世界に来た異世界の少女はもう充分に傷付いた。今までいた世界と全く違う世界に迷い混むということは、桓タイの想像に余る。だからこそこの少女にはもう必要のない痛みはいらないと切に願う。
――だが、夏希のこのお転婆な性格を目の当たりにして一ヶ所に閉じ込めているのも何やらいたたまれない思いに駆られているのも否めない。それで桓タイは渋々、決断をしたのだった。
(俺が目を離さなければ大丈夫だろう)
持っていた木刀を凱之に放り投げてこちらに駆けてくる夏希を見ながら、桓タイは人知れず誓いの拳を固く握った。

 


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