百澤禦伝 | ナノ


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夏希は、一体自分に何が起こったのか理解出来なかった。

老人に服を掴まれ、それでも逃げたいと一歩踏み出すと急にふわりと体が軽くなった。柔らかい風に押されるように二歩、目の前に壁が差し迫ってそれでも勢い止まらずまた一歩、思わず瞑る目。
――しかし壁にはぶつからずに目を開けてみると、眼下には綺麗な海が広がっていた。振り向くと天に聳(そび)える山に、豪華な城。それはみるみるうちに小さくなっていった。猛スピードで景色は過ぎていくのに、風の抵抗は全くない。
自分が空を飛んでいるのに気付き、そして自分が人でないことに気付いた。
夏希は空を駆る前脚を凝視する。
まるでライオンのような太く丸い脚先には銀や漆黒に輝く雲母をひき連れていて、それが軽やかに動いている。
――どうして
困惑する理性とは裏腹に本能は空の飛び方を知っていた。ただ地上を駆けるときのように四肢を動かせばいいだけなのだ。
自分が得体の知れない生き物になったという恐怖感や嫌悪感が込み上げてくる。しかし立ち止まって自分の姿を確認するのはもっと怖く、それで夏希は無我夢中で飛び続けた。

どれ程飛んでいただろうか。夏希の時間感覚は闇に閉じ込められてからすでに壊れている。半日も経っているような気もしたが、深く考えれば考えるほどに短時間の出来事のようにも思える。
牢獄を文字通り飛び出してきたときにはまだ弱々しかった太陽は、今や真上でその存在を見せつけていた。
無心で飛び続けていたが、襲いかかってくる疲労と痛みは無視出来なかった。最初はあんなに軽々と動かせた四肢は鉛でもつけられたかのように重い。脚力が弱まっている――それがひいては空を飛ぶことの原動力なのかは分からなかったが次第に高度は下がっていき、今や海面すれすれの位置を飛ぶのがやっとだった。気を抜けば爪先が飛沫で濡れ、萎える体と気持ちを鼓舞して少しばかり高度を上げる、その繰り返しすら億劫に思う。
――何処かへ降りなければ。
もはや夏希の朦朧とした思考では、得体の知れぬ生き物への恐怖や嫌悪など感じている余裕などなかった。見渡しても島や岸辺など一つも見当たらない大海原で、何処か足場を、と呟きながら夏希の体は限界に達した。
大きく水飛沫があがり、一つの黒い影が沈んだ。





#夏希1#ちゃん、と呼ぶ声がある。
嫌な声だと思った。――なんと穢らわしい。
夏希、と呼ぶ声がある。
やめろ、と叫んだ。叫んだつもりだが、声にはならなかった。
そうして耳の近くで囁かれた声に目の前が真っ暗になった。
――早紀



ああ、一番汚いのは、おれだった



つ、と頬を伝う何かに夏希は瞼を開けた。それに伴いまた何かが頬を伝う。それは枯れた頬を熱く焼いて、首に落ちてきた。
頬に指を這わせば指先が濡れたので、涙か、とぼんやりした頭で思った。なんとなくその手を目の前に持ってこようとして、夏希は強烈な痛みに襲われた。そしてその痛みにより急激に現実に引き戻された夏希はパニックに陥り身を起こそうと暴れ出す。
バキバキと木の枝が折れる音が聞こえて、体の片側がふっと軽くなった。ぐらりと視界が傾く。――次の瞬間には浮遊感が夏希の身を包んでいた。木の枝が夏希の肌を掻いていく。咄嗟に枝に左手を引っ掛けたが、すでに握力も残っていなかったのでやや落下のスピードを緩めたにすぎなかった。
どすん、と鈍い音が辺りに響いた。
夏希は短く悲鳴を上げて、それからは声にならなかった。のたうちまわる気力も体力もなく、ただただその場に体を丸めて痛みが過ぎていくのを待つしかなかった。脂汗が滲み、どうにか痛みをやり過ごそうと口を開くがカラカラに乾いた喉からはひゅうひゅうと肺から空気が出入りする音ばかり。
――すでに日は傾き始め、世界を黄昏色に染めていた。

しばらくじっとして呼吸が落ち着くのを待ち、それから夏希は顔だけ動かして周りを伺う。
――山か森か林か。
鬱蒼と生い茂る木々にはなんの特徴もなく、すでに夜陰が降り始めていた。どうやら夏希は木の上で目覚めそこから落ちてきたことになる。
海に落ちたはずなのに、何故木の上にいたのか。
そんな疑問があったが、それを吟味するほど元気ではなかった。
次に夏希は自分が獣の姿ではなく人の姿に戻っているのに気付く。獣の姿になったときに服は破れたのか、それとも別の原因があるのか分からなかったが、夏希は裸であった。
――そして、右手には大太刀が握られていた。
鞘は軽く反っていてその形から日本刀であることが窺える。漆塗りされた鞘と鍔(つば)には金で繊細な模様が施されている。シンプルな造りだったが、一目見て傑物だと分かる品物だ。
すでに獣である本性に目覚めてしまった夏希には、これが獣の姿になる際に必要になることを知っていた。だが、それを知ったところでもう一度あの異形へと成り下がろうとは思わなかったし、全身の力が抜け落ちてもはや感覚すらなくなった夏希には指先一つ動かすことも億劫だった。
ただただ投げやりな気持ちでその場に丸まっていると、ガサガサと茂みを掻き分ける音が聞こえてきた。

「――おい」

少し硬いものを含んだ声音に、夏希は、ああ、と息を漏らした。
声は男のものだったが、そちらを見る気力も、逃げ出す気力もない。夏希は自分の存在が、――海客と呼ばれる存在が忌み嫌われているのを身を持って体験している。捕まれば幽閉か、或いは死か。どのみち悪い方へしか進まない事態を、今更何を足掻こうというのか。
躊躇いがちに駆け寄ってきた男が、膝をついて夏希を抱き起こした。肩に触れた男の手が冷たくて心地よい。

「おい、聞こえるか? ――お前、草寇(おいはぎ)にやられたのか」

夏希の体の傷を見た途端、男は深刻な顔をする。否定することも肯定することも出来ないでぼんやりと夏希は男を見つめる。
その顔が揺らいで、黒い染みで塗り潰されていくのに幾分かからなかった。

 


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