メメント・モリ(鳳瑛一)
01/ 02/ 03/ 04
※原作時点より6年後の話です。瑛一が29歳になっています。
※瑛一がアイドルを辞めています。苦手な方は、ご注意下さい。
※名前変換の「ニックネーム」欄の入力をお願いします(ヴァンが呼ぶ想定で)。




9月1日、HE★VENSのツアーライブは千秋楽を迎えた。
ラストの曲目を前に、瑛一さんがソロ楽曲を歌う。メンバー6人から渡ってきたバトンだ。
曲が終わると、会場が割れんばかりの歓声が、舞台袖まで届いた。暗がりのその中で、ヴァンさんが「ヒュー! 最っ高やで瑛一〜!」と声援を送った。
「よっしゃ! じゃあ行ってくるわ!」
ヴァンさんはそう言って、私の肩を叩いた。その手の力は珍しく激しい。ステージに立つということの興奮と昂りが、立たない私にまでしっかりと伝わるようだった。
登場の為、ヴァンさんと瑛二さんが舞台裏の仕掛けに向かう。瑛二さんと目が合い、少し微笑まれる。
『皆んな、聞いてくれ』
その時、会場にマイクで反響した声が響き渡った。
瑛二さんが立ち止まり、ヴァンさんも足を止めて振り返った。
ラストの曲目までのタイムラグが、瑛一さんのMCの時間になっている。故に、瑛一さんの声が会場に響こうとも、何一つ可笑しなことではない筈だった。
然し、その声色と、『エンジェル』だけでなく『皆んな』という呼び掛け。
会場がしんと静かになっている。
瑛一さんの声一つで、数万人もの人間が口を閉じる。ただ彼の一挙一動を待つ。
カリスマとは、スターとは、この人の事だ。
『……今日、こうして皆に会えて光栄だ。歓声をくれるエンジェル達、共に歌うHE★VENSの皆んな。全てがあって俺がある。俺は、その全てに感謝し、惜しみのない愛を捧げる』
舞台袖から、遠いステージの先を見ていた。大きな会場、広いステージでは、その横顔の表情はとてもでないが窺い知れない。
『この愛は永遠だ。例え俺がこのステージから降りようとも』
その言わんとする事に辿り着くのは一瞬だった。だが、何度も他意がないかと考え直す。
会場が騒めき、どよつき、大きく広がっていく。
『俺は、今日をもってHE★VENSのリーダーの座を降りる。アイドルを引退する』
いつもの強さと、時に込もる優しさと、腹の底からの決意が、言い放った声には込められていた。
大きな騒めきが会場を包み、時に悲鳴が聞こえる。
「兄さん……?」
側で瑛二さんが呆然と呟く。
「ちょっと! どうなってるんですか!?」
事務所のスタッフが慌てた様子で駆け込んで来た。
「いや、ワイらも何も聞いてへんで……」
ヴァンさんが答えるが、何も解決しない。舞台裏は慌ただしくなり、混沌とする。
『突然の発表になってしまい、すまない。だが俺はいつでもエンジェルと共にある。俺たちには歌があるからな。最後の曲を、聞いてくれるか?』
会場からは思い思いの声が上がる。
瑛一さんはそれをゆっくりと見渡した。どんな表情をしているのかは、この場所からでは知れない。
瑛一さんが、タイトルコールを告げる。
序章が鳴り始めた。
「こんな状態で歌えるわけないよ……」
瑛二さんがマイクを握りしめて呟く。足を進める気配はなかった。
メロディが進む。
ステージの上の瑛一さんがマイクを握る。息を吸い込む。
歌い出しに、声が重なった。綺羅さんとナギさんの声だ。
予定とは違い舞台袖から直接登場した二人は、そのまま一小節歌い上げる。
ナギさんは一度舞台袖に戻ると、シオンさんの腕を引っ張って出てきて、大和さんも後に続いて出てくる。
「ワイらも行こか」
ヴァンさんの声が聞こえて、瑛二さんの背中を優しく叩く。
一人だけ声部を分けた瑛二さんの声が響き渡ると、会場の歓声は色々なものが合わさり大きくなった。
頭サビに7人の声が間に合うと、次は各々のソロパートに入る。
揺れ、掠れ、震えるそれぞれの声色が、心情をダイレクトに映し出して無数のペンライトの前に響き渡った。
最後にやってくる瑛一さんのソロパートは、堂々と歌い上げられた。
これが鳳瑛一だと言うように。鳳瑛一の居るHE★VENSを、最後に世界へ示すように。
アンコールを含め、全ての演目が終了した鳳瑛一の最後のライブは、大きな歓声と悲鳴と共に、幕を閉じたのだった。


メールを受信した。
私は会場から少し離れた、人通りの疎らな通りに立っていた。
外は暗く落ちていたが、都会のネオンが星をかすめ、空は何も映さない。
目の前へ、静かに真っ赤な車が停まった。
助手席のウィンドウが下がる。
「乗ってくれ」
中から声がする。私は助手席のドアを開けて乗り込んだ。
「……お疲れ様です」
「ああ。少し待ったか? 遅れてすまない」
「いえ、そんな」と返しながら、荷物を膝の上に置きシートベルトに手を伸ばす。
と、膝の上が軽くなる。
「後ろに置いておくぞ」
鞄を持ち上げ瑛一さんが言う。後部座席へ鞄を移動させると、私がシートベルトを締め終わるのを待ってアクセルを踏んだ。
「ありがとうございます……」
「構わない」
静かにスタートした車は、徐々にスピードを上げていく。
「付き合わせてすまないな。疲れているだろう」
車が軌道に乗ると、ハンドルを握ったまま瑛一さんが口を開く。
「いえ、平気です。瑛一さんの方が……」
「まあ、疲れがないと言えば嘘になるな。しかしエンジェル達へ直接愛を捧げることが出来るのだと思うと、疲れなど二の次だ」
瑛一さんの横顔は至極当然のように言う。
私は少しの間黙り込んでしまって、自分の指先に視線を落とした。
静かな車内は、タイヤの伝える道路の感覚だけを振動させる。
「あの……いいんですか、お忙しいんじゃ」
「打ち上げは断った。正式な文書は明日、事務所から発表する。親父には事前に伝えてある」
前方を見たまま瑛一さんが答える。
「メンバーの皆さんには……」
「先程簡単には伝えた。だがまた後日改めて話し合うつもりだ。HE★VENSの今後の事もあるだろうからな」
「そうですか……」
私は俯いたまま口にした。少し間が空いた後、隣で微かに口を開く音がした。
「……本当は、メンバーには今日全て話をつけるつもりだったが、どうにも落ち着いて話が出来る状態ではなくてな」
珍しく、静かに言葉をこぼす。
「日を空けて、もう少し冷静になってから詳しい話をしようという事になった」
瑛一さんの横顔を見上げながら、ライブでの瑛二さんの様子を思い出した。シオンさんも、皆、きっと。
車は夜の道を走り抜けていく。
私はただ何も言えずに指先を見ていて、瑛一さんも珍しく何も話さなかった。
ただ静かに、車は更けていく夜を走って行った。
随分と夜道を走った。
次第にネオンが少なくなり、パタリと止んで、あとは街灯が点々と並ぶだけの広い道に変わった。
明かりがないので、何の景色が広がっているのか分からず、ただ暗闇が続くだけだった。
私は窓から視線を外した。
遠い昔の歓声を思い出した。今日のライブの規模よりは小さかった。ツアーなどではなかったし、観客もファンというよりは話題性に乗ってやってきた人が多かった。
それでもステージは輝いた。
見たことのない、それは天国とも言える景色だった。
この人が見せてくれるのだ。
暗闇へ伸ばした手を掴んでくれるのは、この人だけだった。
ならばこの人がいなくなれば、また。
「名前」
突然名を呼ばれ、ハッと息を呑んだ。
「な……何ですか」
慌てて返事をする。
「グローブボックスを開けてくれないか?」
「あっ、はい」
助手席正面の、ダッシュボード下の収納に手を掛ける。
開いたまま私は固まった。
車が静かに走り抜けていく。すれ違う車などない閑散ぶりの夜道を。
グローブボックスの中にはたった一つ、小さな箱が置かれているだけだった。
片手に収まる小さなサイズ。その立方体はラグジュアリーなベルベット生地。鮮やかな赤が差す。
ただその箱に視線を奪われていた。
長い硬直の後、私は静かにボックスを閉めた。
途端に笑い声がする。
「そう来るか」
喉の奥で笑い声を立て、瑛一さんはこちらに視線を向けていた。
私はゆっくり座席に背を戻す。強張った体は、肩に力を入れ姿勢を正した。
微かな笑い声が一つすると、車は減速した。音なく路肩に停車する。
私の目の前に腕が伸び、閉じたグローブボックスをカタリと開く。
中から真っ赤な箱を取り出す。その手はその赤い箱を開き、中身を取り出した。
「手を」
口元に浮かべた笑みで言う。
その美麗な瞳が、眼鏡の奥から私を真っ直ぐに捉えながら。
「……ま、待ってください」
「構わないが、待ったところで状況は変わらないぞ」
揶揄うように言って笑みを向ける。停車した車内、通りのない道。
私は暗い車内で蛍光色に光るメーターに視線を向けていた。
左手に指先が触れ、手を取るとそのまま自分の方へ引き寄せる。
「な……なんで……何ですか……どうして……」
揺れ、掠れて、震えた声が自分の口からこぼれる。
薬指の爪先に、冷たいプラチナの温度が触れた。そこで動きが止まる。
指先に視線があるために、俯き加減の顔のまま、視線だけが私に上がる。
「『なぜ』? 俺は生涯を共にするならお前の他ないと、随分前から決めていた」
瑛一さんの癖のある声が紡ぐ。
「しかし、アイドルとして生きるならば、俺は誰か一人を愛することなどなく、エンジェル達の物で在り続ける。全ての愛はエンジェル達へ捧げる。アイドルである限り、そうする事が俺の使命であり、幸福だからな」
スル、とリングが指先を通る。
「しかし俺はアイドルではなくなった」
リングはまるで私の為だけにあるように、寸分の隙間もなく、締め付けることもなく、薬指に収まった。
再び視線が上がる。
「お前と婚せぬ理由が何処にある?」
微かな笑みと共に、車内に声が響いた。
挑発的な視線は私を捉えて逸れない。
「それとも、」
瑛一さんの手が離れ、彼は姿勢を戻す。
「お前がこの申し出を断るか? まさか、そんな筈はないだろう」
瑛一さんはジャケットの内ポケットから取り出したもう一つのリングを、自分の左手に通しながら、微塵の迷いもなく言ってのける。
その薬指に美しく指輪が嵌ると、視線がこちらに来て、笑みが向く。
私は反射的に視線を逸らす。逸らした先の指先には、一等星の如くダイヤモンドが煌めいた。
指先を強く握りしめた。
こんな事は願っていない。
いや、願った。何度か強く願った事がある。けれどそれ以上に、
「どうして、アイドルを引退なんて」
それ以上に、鳳瑛一がアイドルであり続けることを願っていた。
永遠に、永久に。
指先が震えて、どんなに強く握っても止まない。煌めくダイヤモンドを視界から外すために、顔を上げる。口を開く。
「私は、瑛一さんが居なければ、生きていけない……」
上げた顔は結局また下がり、苦しく痛む胸を左手で握りしめた。
「生涯傍にいてやると言っているだろう」
胸元を掴む左手に、柔らかく手が重なる。手は握られると引き寄せられた。
「そうじゃない、私は……貴方がいないと何にも出来ない。……誰が私の歌を歌うんですか……」
何を書いても誰にも伝わらなかった。この人だけが理解してくれた。そして大きな道を示してくれた。
「HE★VENSが歌うさ」
間髪入れずに答えが返る。俯いた私の左手は、瑛一さんが引き寄せて握っている。
「名前。よく聞け」
握られた手に力が込められる。
「俺がお前と出逢ってもう何年も経つ。HE★VENSだってそうだ。そのかん、お前もHE★VENSも随分成長した。そうだろう?」
様々な事があった。デビューしたばかりの頃と、現在を比べれば数多の事が違う。今ではHE★VENSの存在を知らない人間はいない。
「お前もHE★VENSも、俺がいなくとも充分やって行ける」
そんな筈がない。鳳瑛一が居なければHE★VENSじゃない。
誰もがそう思っている。メンバーだって、エンジェルだって、マスコミだって、誰もが。この世の誰もが。
むせ返るほどに溢れる言葉は、胸で堰き止められたように、何一つ出て行かない。だから作曲をしている。歌以外に伝える手段を持っていぬのに、それなのに。
瑛一さんの指先がゆっくり動いて、私は自分がその手をきつく握りしめていた事に気がつく。
我に返って力を緩めるより早く、言葉が聞こえた。
「……俺もまだ、お前達と歌っていたかったがな」
聞いたことない静かな声色が、頭の上に落ちた。
思わず顔を上げる。
瑛一さんの視線はフロントガラス、遠い道の先へ向いていた。
「2年前に、膝の靭帯を手術しただろう」
瑛一さんの反対の手が、自身の片膝に触れる。
「あの時にはもう使い物にならない事はわかっていた。お前達には言っていなかったが、手術も延命処置でしかなかった」
静かな道路に車がやっと一台すれ違って行った。瑛一さんの瞳がそれを追う。
「俺としては、足の一つ失ったとてエンジェル達の前に立ち続けたいと思ったが、俺のせいでHE★VENSの可能性を潰す訳にはいかない。そして俺がHE★VENSでなくなるときは、アイドルでなくなる時だ。……HE★VENSはまだまだ高みを目指せる。宇宙へだって天国へだって、何処へだってな」
声は紡ぎ終えると、静かに口を閉じた。
暫くの間、暗闇の中に音はなかった。
不意に視線が向いた。
紫がかった瞳が私を捉えて、笑みと共に言う。
「だから、今度はお前が見せてくれ。俺にあの夜に見た夢の、その先を」


『うーん、もっと普通でいいんだよね、普通で』
作曲家としてレイジング事務所に所属するも、芽が出ぬまま一年経とうとしてた。
『何かやりたいのはわかるけど、何がやりたいのかわからないっていうか』
エッジの効いたギターサウンドも、転調で彩られたピアノの旋律も、全て削り落としては再提出する。
『本当にちゃんとやってる? 夢ばっかり見てないで、現実も知らなきゃ駄目よ』
実家からの電話も、次第に留守電を使う事が増えた。
例に漏れず再提出で突き返された楽譜を抱えて、事務所の廊下を歩いていた。
俯いていたせいで前方に気がつかず、ドンッと肩にぶつかる。
楽譜が舞い、尻餅をついた眼前にひらひらと落ちた。
『ゴメンゴメン急いでて』
ぶつかった相手はそれだけ言うと、耳に当てた携帯に何やら返しながら、忙しない様子で廊下を駆けて行った。
床に落ちた楽譜を拾おうと手を伸ばして、何故だかそこで手が止まった。
暫くただ座り込んでいた。動力が失われたような、そもそも何が動力源だったのか、さえ。
目の前に、腕が伸び、楽譜を一枚拾い上げた。
私は暫く、目の前の磨かれた靴を眺めていた。
そうして段々と視線を上げる。
楽譜を拾い上げた人物は、その楽譜を眼鏡の向こうの瞳で眺めていた。
最後まで辿ったのか、カサと楽譜を持った手を下ろすと、微かに笑みを浮かべた。
何て美麗な顔をしているんだと思った。そうしてそれを、余す事なく生かす自信に溢れた笑みよ。堂々と張った胸よ。
鳳社長の息子だ。実際に会ったのは初めてだった。
『探したぞ』
その声は、不意に魅了されてしまうような、一度聴けば忘れないような、独特な色だった。
『苗字名前』
目の前に、手の平を差し出す。
『俺と共に、誰も見た事のない景色を見ないか』

鳳瑛一はこう言う。
『新しくグループを作りデビューする。現時点で加入が決まっているのが2人。これが音源の資料だ。音域、声質はこの音源から判断してくれ。それと、顔合わせの時点でデモくらいのクオリティは欲しい。方向性は任せるが、とにかくインパクトが欲しい。これがHE★VENSだと全世界を圧倒できるくらいの、親父が口をつぐむくらいのな。頼んだぞ』
口を挟む暇もない勢いで言い終えると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
全世界を圧倒できるくらいの? 鳳社長が口をつぐむくらいの? 曲?
顔も知らない歌い手、限られた音源資料。デモレベルの楽曲を、5日後に。
数秒の間に告げられたとんでもない数々のハードルに、思わず数分立ち尽くした。
しかしその数分も惜しむ状況なのだということに気がつき、慌てて部屋を出てとにかく走った。
大きなチャンスが舞い降りたのだと言うことはわかっている。これを逃せるほど自分にはもう余裕などない事もわかっている。
けれど走ったところで、また突き返される未来がちらつく。

慌てて事務所の会議室に駆け込めば、もう全員揃っていた。
『あ……遅れてすみませ……』
『おっそ〜い。初日から遅刻するって何なの? このウルトラスーパー宇宙一キュートなナギの作曲家がこんな人間でいいワケ?』
テーブルに両手で頬杖をついて、顔を歪める小さな男の子を見た。
『ナギ』……? 帝ナギ。確かに高い声だったけど、こんなに幼いなんて思っていなかった。中学生?
早速の手落ちに全身が強張って、入り口で立ち尽くす。
『何をしている? さっそく始めるぞ』
鳳瑛一が言う。私は慌てて足を進めて、席に着いた。
空いていた席に座る。隣には端整な顔立ちをした青年が座っていた。この人が皇綺羅。
帝ナギほどの認識の誤差はない。低く朗々とした声を紡ぐ為の、高身長にしっかりとした体格。クールで気高い雰囲気も、イメージ通りではある。
『取り敢えず簡単に自己紹介をするとしよう。俺は鳳瑛一。HE★VENSで世界の頂点へ立つつもりだ』
微塵の曇りもない笑みで言い放った。
『なにそれ?』
隣で帝ナギが声を上げた。
『宇宙一キュートなナギがいるんだから、“宇宙の”頂点の間違いでしょ?』
『ああ、確かにそうだな。世界も宇宙も、天国も、全ての頂点に立つのは俺たちHE★VENS!』
『そーそー。ナギがいれば宇宙一なんて楽勝なんだから♪』
目の前で交わされる会話を、私は口を開けて眺めていた。
『もうわかったでしょ? 世界一宇宙一キュートなボクは帝ナギ。ボクにぴったりな名前でしょ?』
帝ナギは生意気とも言えるような、挑発的な笑みを浮かべた。
『次はお前だ、綺羅』
鳳瑛一が言うと、彼は徐ろに口を開いた。
『皇……綺羅…………宜しく……』
ゆっくりと言葉は漂って、消えた。
『それだけ?』
帝ナギが声を上げる。
『綺羅は無口なんだ』
『何それ、なんでアイドルやってるの?』
2人の会話と共に、私は唖然と隣の青年を見た。想定にあるはずがない。これじゃあのメロディパートはイメージと食い違いが過ぎる。
『次はお前だぞ』
声が私に向けて発される。
私はハッと顔を上げた。
鳳瑛一の不敵な笑みも、帝ナギの愛らしい大きな瞳も、皇綺羅の思わず見つめてしまうような不思議な眼も、私に向いている。
『苗字、名前です。…………宜しくお願いします……』
声が喉の奥で震えて、随分弱々しかった。
『何それ、綺羅と変わんないじゃん』
帝ナギが顔を歪めてこちらを見る。
『ねえ、この作曲家本当に大丈夫なの? ボクらのデビューが懸かってるんだよ?』
その声には、先程までの取り繕った音色など一切なく、明らかで純な嫌悪が込もった。
私はその睨むような瞳から視線を逸らして、自分の膝の上の指先を見つめた。
震えている。芯まで冷えていく。
『まあ待て』
俯いた視界に声がした。顔を上げると鳳瑛一の笑みがあった。
『全ては曲を聴いてからにしようじゃないか。俺たちはアイドルだ。歌こそが絶対の指針であると思わないか』
その声は不思議とよく響き渡る。
『……わかったよ。けど、曲の評価は容赦しないんだから』
帝ナギは身を引いて、机に頬杖をつき直した。
鳳瑛一と目が合う。
『さあ、聴かせてくれ』
心臓の鼓動が、身体中に大きく響いて打ち鳴らす。
震える指先のまま、ノートパソコンを開いて、タッチパネルに触れた。
イントロが流れる。
一音目の音に、向かいの帝ナギがビクッと体を跳ねさせた。曲が進む。
帝ナギは目を閉じて聴くが、段々と首を傾げ始める。
隣の皇綺羅は、変わらず口を閉じたまま、Aメロに入る節で顎に指を添えた。
私は段々と上げていた頭を下げた。そうしてまた自分の指先を見た。
ああ、そうだ。まだ幼い帝ナギの、愛らしいイメージを崩すような曲調。無口な皇綺羅の唇からでは紡がれぬような、後から後から責め立てて先走るメロディ。
打ち合わせのギリギリまで手直ししたが、アレも、コレも、批評可能な部分が無限に見つかる。
シンコペーションは邪魔だからやめた方がいい、コードのリフレインが過ぎる。デジャブのような批評が頭の中にするすると浮かんでは、枷のように体を縛り付けていく。
アウトロが鳴り終わった。
パソコンもそのままに、私はただ自分の指先を見ていた。部屋はしんと静まり返っていた。
『……はは、』
静寂を破ったのは、笑い声だった。
思わず頭を上げると、他の2人も彼に顔を向けていた。喉の奥で笑う声だけが響く。
『っははは、イイ……最高だ』
鳳瑛一は目を伏せたまま呟いた。
そして開いた瞳は真っ直ぐに私を捉える。不敵な笑みで口角を引き上げる。
『不穏なメロディ、圧倒する歪なサウンド。これこそ魂の叫び、我がHE★VENSを全世界に示すのに相応しい!』
『ちょっ、ちょっと待ってよ。ホントに? ボクにはごちゃごちゃしててよくわからなかったんだけど!』
鳳瑛一のさまに、帝ナギが思わず身を乗り出す。
『そうか? そうかもしれないな。だが感じただろう。新たな世界への扉が開くのを! 魂が震えるのを!』
鳳瑛一は『イイ! 最高にイイ!』と繰り返す。
『綺羅? だっけ? どう思う?』
帝ナギが耐えかねて相手を変える。
皇綺羅は顎に指を当てたまま暫く静止していた。不意に、手を離す。
『……正直……俺も……理解は出来ない……』
『ほ、ほらぁ!』と帝ナギが声を上げる。
『だが…………自分の……何かに…………触れた感覚が……ある……』
皇綺羅が自分の胸に、その美しい手を当てる。
『ああそうだ! 理解などしなくていい、言葉など二の次だ!』
鳳瑛一がガタリと椅子を立ち上がった。
『俺たちはアイドル。歌うことでこの身を生かし、歌うことで観る者、関わる者全てを圧倒する。魂で感じればいい、魂の共鳴こそが音楽! HE★VENSの音楽だ!』
帝ナギが難しい顔をして黙り込む。
鳳瑛一の視線が私に向く。
『そして、この曲は魂の共鳴に相応しい。苗字名前。お前を選んで正解だ』
高い所から真っ直ぐ、迷いのない瞳が私を見下ろす。
私は目を見開いてその瞳を見ていた。
その瞳の奥に、何か煌めく光を見た気がした。
『そうと決まれば早速今後の予定を立てねばな。デビューライブは3日。それまでの時間はある限りレッスンに費やする。曲のアレンジも詰めてくれ』
鳳瑛一が言う。その語気は強く、力に溢れている。
『さあ、HE★VENSの名を天上天下、全世界へ轟かせようじゃないか』

『あっ……鳳さん』
呼び止めると、鳳瑛一は足を止めて振り向いた。顔合わせが終わり、会議室を出ていく所だった。
『どうかしたか』
『あ……その……』
この人の癖なのだろうが、真っ直ぐに見つめ返されると、思わず視線を逸らしてしまう。
『あの、ありがとうございました……』
私が頭を下げると、鳳瑛一は少し動きを止め、首を傾げる。
『感謝されるような事は一つもしていないが?』
私はその高い所にある顔を、思わず見上げた。
『いや、今日この場に声を掛けてくださったのも……曲を褒めてくださったのも……』
『良いものを良いと言ったまでだ。お前の歌にはその力がある。自覚が無いのか?』
眼鏡の奥の瞳は私を見ている。私は視線を逸らす。なんて真っ直ぐな言い草だ。
『……その、でも、鳳さんが評価してくださったから、帝さんや皇さんも……』
笑い声がした。
『本当にそう思っているのか?』
鳳瑛一が私に向けた視線は、揶揄と挑発、そんな瞳だった。
私は思わず言葉を止める。
『それにしては、いつまで経っても指摘された箇所が直らないじゃないか』
鳳瑛一が薄ら笑いながら言い、私は微かに目を見開いた。
事務所に所属してからの1年の間、散々突き返された譜面達の事を言っているのだとすぐに分かった。
何度も指摘を受けた。その指摘の中には、同じ指摘が無かったとは言えない。
鳳瑛一の手が伸びた。
扉をノックするように裏返した拳が、私の胸に、コン、と触れる。
『言いたいことがあるんだろう?』
私は胸の手を見つめ、手首、腕を伝って、その顔に瞳を上げた。
鳳瑛一は不敵に笑う。
胸の拳が静かに離れる。
『それが伝わったんだ。綺羅とナギの反応はその結果に過ぎない。何の為に、編曲まで済ませた音源を持って来させたと思っている』
鳳瑛一は最後に一つ笑みを向け、扉を開けて部屋を出て行った。
開け放された扉を見つめながら、私は自分の胸に手のひらを当てる。
ドクン、ドクン、と伝えるが、昂ぶり旋律となって、突貫の歌へ絡まっていく。


『何なのそれ?』
ハッと意識を広げると、背後で帝ナギが見下ろしている事を知る。
見上げると、可愛らしいその顔に怪訝な表情を浮かべた帝ナギ。その大きな瞳は、どうやら私の手元を見ている。
『あ……アイディアが浮かばない時は、知的ゲームをやってみるのも手だって、鳳さんが』
『それで知恵の輪?』
帝ナギは訝しげに首を傾げる。その首にはスポーツタオルが掛かっていた。
ここは事務所のレッスンルームだ。HE★VENSデビューライブに向けての歌唱とダンス、パフォーマンスの練習が、連日行われている。全日の殆どの時間を費やしてだ。
今は、合間の僅かな休憩時間である。
『はい。……「単純なパズルを解いていると思考が洗練されて、過去のトラウマや古傷などの強い記憶が呼び起こされやすい。その時の情景が追体験のようにリフレインするから、メロディや歌詞の糸口になったりする」そうで……』
『…….それ、使い方違う気がするんだけど』
帝ナギは呆れたような顔をして、向こうのピアノの傍にいる鳳瑛一を見やった。そのピアノには皇綺羅が座っていて、2人で音程の確認をしているようだった。
『普通は、精神統一とかリフレッシュする為のものでしょ?』
言葉が聞こえると同時に、私の手中の金属の輪がパッと姿を消す。
カチャカチャと頭上で2度だけ音がして、見上げた時には繋がっていたその輪は、ただの2つの輪と化していた。
『え……』
手の中に返された輪を唖然と見つめる。
『こんなのナギにかかればカンターン♪ ていうか遊んでないで、さっさとアレンジ完成させてよね』
帝ナギはそう言うと、磨かれた床の上を中央に向けて歩いて行く。『瑛一〜! 綺羅〜! そろそろ再開しようよー』と呼ぶ声がする。
鳳瑛一が振り向いて、何か答えた。どうやら練習が再開されるらしい。
私はレッスン室の隅で、床に広げた楽譜とパソコンに再び目を向ける。床のシャープペンシルを拾い上げようとすれば、握っていた知恵の輪が零れ落ちる。
『少し……いいか……』
その瞬間声がして、私はその姿勢のまま顔を上げる。
高い所に皇綺羅の端整な顔があった。
『あ、はい、平気です』
私は答えて立ち上がる。それを待って、皇綺羅が口を開く。
『相談が……ある……。Aメロのフレーズ……だが……』
皇綺羅の手には楽譜があった。ブレス位置やパフォーマンスなどが整った字で書き加えられている。
『……テンポを……上げられるか? もっと……迫るような感じを…………出したい……』
皇綺羅が私を見据えて言う。私は暫くその眼を見つめて、それから床の楽譜を拾い上げる。
『分かりました。……でもテンポを上げると他のパートとのバランスが……テンポじゃなくて音長を3/4に詰めて……いっそ三連符……その方がキャッチーなまま……』
呟きながら、顎に手を当て考え込む。その間、皇綺羅は私をじっと見ていたらしく、我に返って顔を上げると目が合った。
『あっ……すみません、えっとじゃあ』
私は慌てて床にしゃがみ、ノートパソコンに音を打ち込む。
『こんな感じで……』
音を再生すると、皇綺羅は黙って耳を傾ける。
ワンフレーズが終わり顔を上げる。皇綺羅は深く頷いてみせた。
『あっ、でもこれだと息が苦しいかも……』
『大丈夫……何とか……してみせる……』
皇綺羅はもう一度頷くと、瑛一にも伝えておくと言ってレッスンへ戻っていった。
私は暫くその背中を眺めた。
それから先のフレーズを早速楽譜に書き込み、また床で曲と格闘する。
激しい曲調、攻め立てて走るメロディ。
何日も共に向き合って分かったことがある。
帝ナギは、どうやら非常に頭が良いらしく、年齢からは考えられない程、大人びた思考をしている。レッスンでも、熱くなる鳳瑛一や物静かな皇綺羅をおいて、時間管理を行っているのは彼だし、歳上の二人とも全く違和感の無い会話をしている。
皇綺羅は、寡黙に見えてその実、胸中には熱い感情を秘めているような気がする。普段の彼を見ている分には知れるはずもないが、パフォーマンスや歌を奏でている時の姿を見ていると、それがビリビリと肌に伝わる。
楽譜に、思いつくだけの旋律を走らせながら、この曲を作った時のことを思い返した。
激しい曲調も、攻め立てて走るメロディも、彼らが歌うにあたって案外、的外れではない。
『全世界を圧倒出来る』、『社長が口をつぐむ』。この歌が全ての闇を切り裂き、天へと突貫する、そんな曲を。
シャーペンの芯先には力が込もり、強い筆圧で五線譜が彩られていく。
そうしてそれは、床に響くステップの振動も、同様だった。

テレビ局で別の仕事をしていた。番組BGMの仕事で、作曲家の先生のアシスタントだ。
仕事を終え廊下を歩いていると、不意に肩に手を置かれた。
驚いて振り向く。
『良いところで会った』
振り向いた先では、鳳瑛一が笑みを浮かべていた。
『えっ……あ、お疲れ様です……』
事務所の外で会うのは初めてだ。鳳瑛一は今来たところなのか、私服に帽子を被っている。
『ここで会えるとは運が良い。お前に渡したいものがある』
鳳瑛一は挨拶も抜きにそう言うと、鞄の中から何か取り出す。
それを私に向かって差し出した。
2枚の罫線入りの紙だ。
『先程3人で書き上げたばかりだ。いち早くお前に渡したいと思っていてな』
私は目の前のそれをゆっくり受け取る。
口の中で、一番上の文字を無意識に読み上げた。
『…………』
私はその文字から視線を下にずらし、読み進める。
それぞれの筆跡が、一字一句言葉を綴る。
それらの言葉は、頭の中にあの音色を奏でる。そうしてその音をパッと煌めかすように爆発を起こし、世界を広げ創造していくような。
眩い世界を。
『どうだ?』
鳳瑛一が楽しそうに、それでいて自信に満ちた声色で問う。
私は最後まで辿ったその紙を、暫くの間見つめていた。
『…………素晴ら……しいです』
呟くと、鳳瑛一は口を開く。
『当然だ。俺たちHE★VENSが、魂を交わし合って生み出した歌詞だからな。最高にイイ! 魂が震えるだろう!』
鳳瑛一は上機嫌で語る。
私は紙を握る手に力を込めた。
視界が滲む。
『泣くのはまだ早い』
パッと手中の紙が消える。
見上げた先の鳳瑛一は、取り上げた紙を笑みと共に眺める。
そうしてこちらに視線を向けた。
真っ直ぐなその視線には、不敵な笑みが浮かんでいる。
『もっと良いものを見せてやるさ』


『えー! 瑛一、一昨日誕生日だったの?』
帝さんの声が上がる。
『ああ、そういえばそうだな。すっかり忘れていた』
『……おめでとう……』
『ハハハ、気を遣わなくてもいいぞ綺羅』
コンサートホールで、ライブの直前リハーサルを終えた。舞台裏に行くと、3人のそんな会話が聞こえた。
『お疲れ様です』
声を掛けると、鳳さんが振り向く。
『ああ。音響は問題なかったか』
『はい。大丈夫です』
音響のチェックに行っていた。こんな大きな会場での仕事なんて初めてで、音響スタッフの後ろで殆ど勉強するような有様だったが。
一つ息を吐いて、指先を見つめる。
『……緊張……しているのか……?』
隣に立っていた皇さんから声がかかる。
『なんで出ない名前が緊張するの?』
帝さんが呆れたように私を見る。
『いや、その、初めてなので……色々と……』
大きな会場、沢山のスタッフ。ライブはテレビでも生中継される。
レイジング事務所大型新人アイドルグループのデビューライブ、しかもあのレイジング鳳の息子。世間の注目度も桁外れで、事務所も類を見ない程慌ただしい様子だった。
会場に着いた時から、その活気と緊張感に落ち着かない。
『何を不安になることがある』
声が、俯いた耳に届く。
『観客は皆俺たちの歌に衝撃を受け、俺たちに圧倒され、HE★VENSは、この歌は、今宵全ての者の心に刻みつけられる』
瞳はキラキラと煌めいている。
コツ、と靴音が鳴る。
『もう決まっている。俺たちが全世界を制す事はな。お前はそれを観ていればいいだけだ』
鳳さんが進み出て、私の目の前に何かを差し出した。

チケットを握って座席に着くと、もう会場中は熱気に包まれていた。
鳳さんから受け取ったチケットは随分と良い席で、ステージが目の前だ。
『ねーグループってどう思う?』
隣から会話が聞こえて、ドキリと肩を跳ねさせる。
『鳳瑛一がグループって似合わないよねー』
鳳さんのファンの方だろうか。不意に後ろからも声がする。
『あのレイジング鳳の息子。皇綺羅と帝ナギは? 聞いたことないけど』
気がつけば、あちこちで声が聞こえる。
『どんな人なんだろー』『この時期ってことはうたプリアワード狙い?』『レイジング鳳が遺恨を晴らすために』『早く観たいな〜』。
ドクドクと心臓が音を立てる。
そういえば、事務所に入所してから寮と事務所にこもっていて、実家からの連絡も絶っている。世間の生の声を聞くのは久し振りだった。
恐ろしいような、けれども。
あの真っ直ぐな目を思い出せば。
会場が段々と照明を落とした。
暗闇に、期待と緊張が満ちて静寂が降りる。
『会場の、いや、全世界のエンジェル達よ』
マイクで反響した声が響き渡る。
『今宵、その魂に火を付け、天国へと導こう』
鳳さんの名を呼んでの歓声が上がる。
『スーパーウルトラ宇宙一キュートなナギが、銀河中を虜にしてア・ゲ・ル♪』
『……新たな扉が……開く瞬間を……ここに見せよう……天へも轟く……この名は……』
声が重なる。
『HE★VENS!』
第1音が稲妻のように轟く。そのと登場が重なり、大きな歓声が割れんばかりに響き渡った。
イントロが流れる。り上がるステージの上で、帝さんが手を振り、皇さんが視線を配り、鳳さんが笑みを浮かべる。
ああ、と思った。
ああそうだ、その通りだ。
HE★VENSが全世界を制す事は、もう既に決まっている。
歌声が響き、ステップを踏み、言葉を囁く。期待を超えた数千の目がキラキラとステージに注がれる。
華やかな衣装を纏った彼等は、どんな闇をも切り裂きその色に染め上げる。
割れんばかりの歓声で、耳が痛くなりそうだった。
俺と共に、誰も見た事のない景色を見ないか。
世界はペンライトと瞳でキラキラと煌めいて、生み出した音はリリックを得て、魂と魂が共鳴し、華やかなパフォーマンスで彩られ、人々を虜にし、舞う、響く。
『キャー! 瑛一〜!』『ナギー!!』『綺羅〜!』。
その景色を天国と呼ばずして、なんと呼ぼうか。


ドクドクと鳴り続ける心臓の音はまだ止まなかった。
ライブが終わり、楽屋で談話が繰り広げられている。衣装が片付けられ、テレビではライブを取り上げたニュースが流れ、まだバタバタと忙しない。
鳳さんが興奮収まらぬ声色で話す様や、帝さんがスタッフと楽しそうに話す様、皇さんがテレビに視線を注いでいる様を、扉の脇でただ見つめていた。
音響は片付き、もうすべき事もなくて持て余していた。
胸に手を持っていく。心臓が、ああ炎が灯されたとはこういう事だ、活力を得たようにいつまでも熱く回っている。
『そうだな、そろそろ行くか』
鳳さんの声が聞こえた。帝さん達が動き始める。
扉に向かって歩いてきた鳳さんが、こちらに気がつく。
『打ち上げに行くぞ。お前も来い』
鳳さんはそう言って笑うと、私の腕を掴んだ。
グイッと引っ張りそのまま部屋を出る。
『ちょっ……ちょっと……』
『ハハハ、そんな所でジッとしている事もないだろう? ライブの成功はお前無くしては無かった。MVPをやってもいい』
私は目を見開いて、それから口を閉じた。あんなライブの後だからか、鳳さんのテンションが高い。普段も興奮するとこうなる節はあるが、今日はそれに輪がかかっているような。
鳳さんは手を離すと、そのまま廊下を歩いていく。私も仕方なくその隣に並んで歩いた。
『どうだ、最高の景色が見れただろう?』
不意に隣で言う。抑えきれない笑みが、溢れているような表情。
『……ええ、本当に、夢みたいな景色でした……』
この手で生み出した音楽が、こんなに魅力を持つ人達の声で歌われ、素晴らしい歌詞を持つ。
そして、音に込めた感情が、歌声の感情と絡まり合って強く、強く世界中に伝わる。
こんなに幸せで、これ以上何もいらないと、思ったのだ。
ライブが歓声に包まれて幕を閉じていくとき、涙が流れた。
『夢なわけがあるか』
その声はハッキリと言い切った。
私は隣を見上げた。横顔は笑みを浮かべ、その目は真っ直ぐ前を見据えていて。
『俺たちはどんなものだって手に入れる。夢を現実にし、その暁には更なる高みに夢を描く。そうしてそれもまた叶えてみせるさ。そしてHE★VENSは、誰も辿り着けない場所へと行くのだ』
鳳さんは未来を思い浮かべるように、天を仰ぎながら言葉を紡いだ。
『5年、10年、20年後、俺達は今の俺達では想像すら困難な場所に居るはずだ。言い切れる! 今日のライブを観ればな。魂は共鳴し全世界を巻き込んで、何処へだって行く! ……HE★VENSは俺にとって夢であり、紛れも無い現実だ』
最後の言葉を口にした鳳さんは、初めて見るような優しげな横顔だった。
視線がこちらを向く。
『お前にとってもそうある事を願う。こんな所で満足していては、ついて来れないぞ』
私は暫く呆然と、その顔を見ていた。
『……これからも、私が曲を作っても……いいんですか……?』
『当然だ。作ってもらわなければ困る。なんだ、一回限りのつもりだったのか』
鳳さんは予想外だと言うようにこちらを見る。
『いや、だって……一言も……』
『言われなければ誰かに譲るつもりだったのか? 意外と薄情なんだな』
バッと顔を上げれば、揶揄うように笑みを浮かべる顔がある。
『まあ、お前がやりたくないと言うなら無理強いはしない』
『まさか! やりたくないなんて……!』
『そうだろうな。お前の魂に応えられるのは俺達だけだ』
コン、と胸に手が触れる。
何度も突き返された楽譜が張り付き塞いだ心が、批評が縛った体が、この瞬間、完全に解き放たれたような気がした。
この足の先に広がるのは、光に満ちた未来だろうか。
いや、例え闇に覆われていたって、それを切り裂いて行ける強さが。
『共に、更なる高みに夢を描こうじゃないか。名前』
このにはあるはずだ。



車は路肩に停まった。
道を下りていくと、夜の浜辺が現れる。
暗闇の中でも、波は寄せては返すを変わらず繰り返している。
「流石にこんな時間ともなると、風が冷たいな」
瑛一さんが風に柔らかな髪をなびかせて呟いた。
8月も終わったばかりで、まだ残暑も激しいが、夜はすっかり秋の風が吹いていた。
瑛一さんが砂浜を進んでいくので、私もその後を追う。髪がなびいては、耳がひらけ直に波の音が届いた。
足元を見て歩いていたので、いつのまにか隣に並んでいた瑛一さんに気がつかず、手が触れた時は肩が跳ねた。
「いいか?」
何をか考える前に、触れた手が重なり、指と指を絡めた。
私はあまりの事に、その手を凝視したまま固まった。
「心配するな。こんな暗闇では、誰にも見えやしないさ」
瑛一さんはそう言って少し笑うと、そのまま歩いていく。
案ずることも確かにあるが、その前に、とぐるぐる回っては回るだけの思考だ。
緊張と高鳴りで心臓がドクドク音を立てる。感じたことのない感覚だった。
「お前の想いに、ずっと答えてやれなかったな」
不意に瑛一さんが口を開く。
「それが酷く苦痛だと思った時があった。お前の望みは全て叶えてやりたかったが、これだけはそうもいかないだろう?」
視線がこちらへ向いたので、パッと地面へ逸らす。
「……そんなにわかりやすかったですか」
「ハハハ、何年共にいると思っている。それに、お前の想いの全ては歌にこもっているだろう。それを歌ってきたのは誰だと思っている」
瑛一さんが笑みを浮かべる。
「俺も、歌で返してきたつもりだ。エンジェル達への歌は、お前への歌でもあるんだぞ」
どこか優しい声色でそう言う。瑛一さんの横顔は柔らかな微笑を携えていた。
「これからはその代わりに、直接愛を伝えよう。お前とは、こうして直に触れ合える距離にいるのだからな」
手に力がこもり、指と指の微かな隙間さえも埋めるように、強く絡まった。
「…………」
手を繋ぎ砂浜を歩いていく。
風が耳元に優しく凪いでは、吹き抜ける。
「もっと喜ぶものかと思っていた」
私は立ち止まり、顔を上げる。
瑛一さんは考えるように何処かを見ていた。
「……ちっ、違うんです」
「ああすまない。可笑しな言い方をしたな。お前を責めているわけではなくて」
この人にこんな事を言わせるなんて。胸が苦しくて、焦げるようだ。
「私は、その………………気づかなかった」
掠れた言葉が、砂の上に落ちる。
「膝は……良くなったものだとばっかり思っていて…………2年もの間……瑛一さんは……」
何で気がつかなかったんだ。瑛一さんはたった1人でこの決断を下したのだ。ただ1人でこの運命に立ち向かっていたのだ。
「そんな顔をするな名前。お前が責任を感じる事など、何も無い」
どれ程の重圧だっただろう。どんな思いでこの人はあの決断を。
繋いだ手の、力が少し弱まった。
「……はなから隠し通す気だった。お前にもHE★VENSにも、勿論エンジェルにもな」
瑛一さんは寄せては返る波を見る。
「完璧で居たかった。HE★VENSのリーダーとして、鳳瑛一として、完璧でいなければならなかった。俺のせいでお前達のパフォーマンスを損なう事などあってはならないし、心配をかけたくもなかった」
「そんなの……」
「それが鳳瑛一なんだ。俺はそうあれることを誇りに思っていた。それが幸福だった」
波を眺める瞳は、キラキラと輝いて見えた。
今まで幾度と思った事がある。この人は、計り知れない重さの物を、当然と背負っている。
そうして、それが幸せだと言いきってしまう。
その強さがHE★VENSの支柱となり、その深い慈愛がエンジェル達を救う。
私にとっても同様だ。鳳瑛一という存在が何であるのか。
だからこそ、少しも疑わなかった。
「何事もないように見せていたのだから、お前が気がつかなかったのは、俺にとって喜ばしい事だと言える。だから顔を上げてくれ」
優しい声音が促すが、私は砂を見たままだった。
指先が、私の手を撫でるように動く。
「……お前達が俺に与えるその重圧こそが、俺の生きる意味だった。無くなってしまっては困る」
繋いだ手は、もう一度強く握られる。
「だが、そうだな」
不意に、声に笑い声が混じった。
「これからはアイドルでは無いのだし、少しくらい甘えてみるのも良いかもしれない。……甘やかしてくれるか?」
顔を覗き込まれた。柔らかな笑み。
その至近距離に、思わず肩を揺らして身を引いた。
「なんだ、駄目か?」
「だっ、めじゃ……」
「はは、そうだろうな」
瑛一さんは瞼を閉じる。
「お前はどんな俺でも受け入れてくれるだろう。そう信じられる事が、とても心強い」
開いた瞳は、横目で私を捉える。
私は目を見開き、自分の胸を押さえた。初めて聞く言葉に、知らない感情が咲く。
さざ波が、暗闇へ静かに音を運ぶ。
「では早速だが、お前にキスがしたいので許しをくれないか」
私は固まり、その言葉を頭の中で繰り返す。
身体中が熱を持っていくのが分かる。なんて、今なんて言った。
無意識なのか繋いだ手の甲を、瑛一さんの指先がゆっくり撫でる。
ふ、と視界が翳った。
そのハッキリと美麗な顔立ちが、近く。
「まっ、ちょっと待ってください、そんなの、とてもっ……」
出来るわけが無い、出来るわけがない!
「はっはは、そんなに慌てなくてもいいだろう」
瑛一さんは破顔したように笑う。声を立てた笑い声が、新鮮だった。
「仕方がないな。覚悟が整うまで待ってやろう」
瑛一さんはそう言うと、繋いだ手を引く。
風の中、再び歩き出した。
砂浜に靴底が埋まる音が繰り返し、足跡を残して進んでいく。
さざ波と、砂の感触、合わさった手の体温、隣の気配。
「ちなみに、覚悟はいつ整う?」
目を見開いて飛び退けば、瑛一さんはまた楽しそうに笑った。



静かな寝息が耳に届いていた。
ライブの疲れなのか、それ以外にも数多のことがあったからか、久々に深く眠ってしまったのだった。
瞼を開くと、眩い白が映った。遮断された中で一筋だけ、真っ白なシーツの上に朝日が射し込んでいた。
ぼんやりと光景を眺めていた。
と、チカッと朝日が別の所で反射する。
左手の薬指には、美しいダイヤモンドの指輪がはまっていた。
「起きたか?」
柔らかな声が聞こえ、ベッドの中から視線を向ける。私は暫くその姿を見つめて、それから目を見開く。
バッと飛び起きる。柔らかいベッドが大きくスプリング音を立てた。
「えっ、あっ……」
驚いた後で、ハッと状況を思い出した。薬指のリングが煌めきを放っている。
「コーヒーを頼んだんだが、お前も飲むか?」
瑛一さんはカップを持ってこちらへ来る。カップとソーサーを私に手渡す。
「あ、ありがとうございます……」
「ああ」
瑛一さんは自分の分も持ってくると、ベッドへ腰掛けた。ギシッと少し軋む。
瑛一さんの横顔がカップへ口をつける。私は持ち手を握ったまま、ドクドクと波打つ鼓動を隠すのに必死になった。
「っはは、」
突然瑛一さんが笑い出す。
「そんなに緊張してくれるな。これでは、俺はいつまで経ってもお前に触れられない」
瑛一さんの視線が私へ向く。
「あっいや……すみません……」
昨夜の記憶が蘇る。キスすら出来るはずがなく、恋人同士の近い距離にも緊張して、結局瑛一さんを拒んでしまった。
「ははは、まあいいさ。時間はいくらでもある」
瑛一さんはそう言って笑うと、コーヒーをまた一口啜った。
私は申し訳なさとドキドキ鳴り続ける胸中を抱えて、カップに口をつけた。珈琲一杯が物凄く美味しい。昨晩も思ったが、このホテル相当高いんじゃないだろうか。
ギシ、と瑛一さんがカップを持ったまま立ち上がる。
そのまま部屋を歩いていくと、光を絶っていたカーテンを開いた。
眩い光が部屋に溢れ、明るく滲ませた。
「朝食は何が良い。なんでも好きなものを頼め」
瑛一さんは振り向いて言う。朝日を浴びた瑛一さんは、機嫌が良さそうに笑みを浮かべている。
「そうだ」
ふと瑛一さんは思い出したように口を開く。
「お前の実家は確か、都内からそう遠くなかったな」
「え? あ、はい」
「一日で行って帰って来れるか?」
「ええ、まあ……」
返事をしながら、何の話だと頭を捻る。
「そうか。では今日訪ねてもいいだろうか。親御さんに連絡してくれ」
私は固まった。暫くして、止まった思考を必死に回す。
「え……? あの……瑛一さんが?」
「当たり前だろう。他に誰が行くんだ」
瑛一さんは不思議そうに首を傾げる。
「結婚するんだ、お前の両親に挨拶へ行かないわけにはいかない」
瑛一さんは顎に手を当て、考えるように言う。
「本来なら前もって連絡をしておきたい所だが、なにぶん届出を出すまでの時間がないからな」
私は思わず口を開けた。
「結婚って……今すぐするんですか……」
私の言葉に、瑛一さんが視線を上げる。
「そのつもりだが……」
私の様子を見ると、瑛一さんは数回瞬きをした。それからふっと軽く息を吐くと、こちらへ足を進めた。
「エンゲージリングとマリッジリングの両方を渡しただろう」
ベッドの側まで来ると、私の左手を取り、顔を近づけた。
逆光でその顔に薄く影が掛かる中で、真っ直ぐな瞳が私を見る。
「あ……え……エンゲージ? マリッジ?」
「婚約指輪と結婚指輪だ。2つ重なっているだろう」
瑛一さんの綺麗な指が、指輪に触れる。少しズラすと、指輪は二つに分かれた。
二つ重なっていたんだ。大きなダイヤモンドの煌めく指輪は、アーム部分にメレダイヤが連なっている。もう一つの指輪は、そのアームと同じデザインが上半部にラインとして入っていた。
重ね付けすると、水面に映る景色の様にピッタリ重なって、ひとつの指輪に見えなくもない。
「婚約指輪は普通、婚約の証として送り、婚約期間に身に着けるもの。結婚指輪は挙式の際に交換する指輪だ。夫婦が互いに身に着けるもの」
そうだったのかと説明に聞き入っていると、手が引き寄せられ、そのままチュ、とリップ音が鳴る。
「!!」
慌てて手を引っ込めると、視線を上げた瑛一さんが揶揄うような笑みを向けた。
「まあ、そういうことだ。明日役所に届出をしたい」
瑛一さんは言いながら、私の手に触れたまま、その指輪を親指でゆっくり撫でる。
私は、その優しげな表情を見ていた。この人が、鳳瑛一が、今は私だけを想って。
私は視線をシーツへ向けた。
「……そんなに、かなくても」
「急くさ」
上げた瑛一さんの瞳と目が合う。
「明日お前と籍を入れたいんだ」
私はその瞳を見つめた。
明日? 9月3日。瑛一さんの誕生日は昨日だった、他に何が。
「HE★VENSのデビューライブ。俺が初めてお前の歌を歌った日だ」
触れている手にギュッと力が込められた。
私は目を見開く。あの日の景色がありありと浮かんだ。
「確かに……こんな時期だった……」
「ああ、俺達の始まりの日だ」
パッと手を引かれ、距離が縮まる。
逆光の秘密めいた影の中で、吐息も感じるほどすぐそこに、瑛一さんの顔がある。
「愛している名前。全てをお前に捧げる覚悟なら、もう出来ている」
僅かな距離を取り払って、そっと優しく唇が触れた。


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