メメント・モリ(鳳瑛一)3
(3)



帰宅は20時半頃になった。
マンションの扉を開ける。中に入り数秒もせずに、廊下の先のドアが開いた。
「おかえり名前。連絡通りの時間だな」
瑛一さんが部屋から出てきた。
こちらまでやってくると、スリッパラックに掛かっていたスリッパを取り、床に置く。
その流れがごく自然だったので、私は瑛一さんが動きを終えてからやっと我に返った。
「あっ、すみません」
「ん?」
瑛一さんは一瞬不思議そうな顔をした。それから、ああと言う風にスリッパを見た。
「そんなに遠慮するな。夫婦なんだぞ、これくらいの気遣いは当たり前だ」
笑みを向けられる。『夫婦』というワードに私は鼓動をドキリと高鳴らせた。
「は……はい」
頷けば、瑛一さんは目を細めた笑みを見せた。
リビングに入ると瑛一さんが口を開く。
「この時間という事は、レコーディングは順調に終わったのか」
「あっ、はい。上手くいきました。……瑛一さんの方は」
リビングを歩きながら訊いた。
「ああ。伝えたい事は全て話した。皆も納得してくれたようだった」
瑛一さんの横顔は笑みこそなかったが、曇りもない表情だと感じた。
ソファの側まで来たところで、瑛一さんは思い出したように言う。
「お前にも、内容を伝えておかなければならないな」
「あ、それはナギさんから聞きました」
「ナギから?」
瑛一さんが振り返る。
「……ナギと会ったのか」
「ええさっき事務所に寄って……」
「そういえばナギとお前は仲が良いな」
私は動きを止めた。ゆっくり視線を上げる。
瑛一さんが顎に手を当てている。
「え……瑛一さん」
「冗談だ」
瑛一さんはそう言うと、私を見て笑った。
瑛一さんはソファに腰を下ろす。腕を組んだ。
「流石に、10も歳下の男に嫉妬するのは大人げがなさ過ぎる。ナギも成長したとはいえ、まだ未成年だぞ。お前も未成年相手に色事を考えたりはしないだろう?」
言葉を聞きながら、私は瑛一さんの手元を見ていた。人差し指は、トン、トン、トンと組んだ腕の上でリズムを刻み続ける。
「……あ……その、何もないですから……」
「分かっている。そう言っているだろう」
瑛一さんが眉をひそめて私を見上げた。
私の目を真っ直ぐ見て、首を傾げる。が、不意にはた、と動きを止めた。私の視線を辿って、組んだ自分の腕を見る。
「…………」
瑛一さんは暫く沈黙した後、力を抜くように息を吐いた。
「一度心理学を学ぶ機会があったんだが」
「えっ、は、はい」
唐突な話題に取り敢えず返事をする。それから学ぶ機会とはもしかすると、瑛一さんが数年前に出演した医療ドラマを言っているのかもしれない、と思考回路を脱線させる。
瑛一さんは一度解いた腕を、また組んでみせる。
「腕の組み方にも種類があるだろう? 中でもこうして両手で二の腕を掴むように組む仕草は、強い不安の表れらしい。自分自身を抱きしめる事で、安心を得ようとしているという解釈だ」
瑛一さんは言い終わると、腕を解いて私を見上げた。
つまり。
「分かりにくかったか?」
瑛一さんが首を傾げた。微かな笑みが浮かんでいる。
「っ……あの、本当に何もない、ので……」
私は思わず視線を逸らして口にする。何かを求めるような、甘美な微笑み。
私の手首に瑛一さんの指先が触れた。
「! え、瑛一さん……」
私の漏した言葉に、瑛一さんは笑みだけを返した。手首を掴むとそのままグイッと引っ張られる。
抗う暇も持てない。崩れた重心を、ソファの背もたれに手をつくことで何とかセーブする。
「くだらない嫉妬をする男をあしらう、いい方法を教えてやろうか」
耳元で声が。
私は脊髄反射で飛び退く。……退こうとした筈が、どんな仕掛けか距離は逆に近づいた。
ソファの背についた私の片手を、伸びてきた腕が掴んで背から外した。カクンと身体はバランスを失い、目の前の体の上に倒れこんだ。
私の体は軽く受け止められ、腰に手が回り、首の後ろに指が這う。
「あ……え、……瑛一さっ」
大きな手がうなじを撫でた。私の声は上ずって途切れる。
もう、何も考えられない。
「名前」
とても優しい声色だった。
「お前からのキスが欲しい」
触れ合いそうな程、近い距離にあった瞳には、歪に皺を寄せた眉が添えられている。
ゆっくりと視界に入る手が、私の頬にそっと触れる。指先が、輪郭を確かめる様に、微弱な力で撫でた。
近い距離に、自分の心臓はドクドク波打つ。
瞳を、細めた。
鳴り続ける自身の心音を聴きながら、そっと距離を詰めた。
これまでの関係では、決して見ることの叶わなかった瑛一さんの表情。それを前にすると、なんだか言い様のない感情に襲われる。
ゼロに限りなく近い距離。そこには、頬の柔らかな皮膚に、瑛一さんの視線がピリピリと刺さるような、独特な事象があった。
この人に自身の全てを捧げる。それは長い間ずっと、自分にとってのみ、意味のあることだったのに。
「っ、」
カチッ、と音が鳴った。
私は目を見開いて固まる。何が起きたのか一瞬理解に難した。
瑛一さんが肩を震わせている。
「ハハハハっ……眼鏡が邪魔か」
私はカッと顔に熱を覚えた。だが、瑛一さんがそれ以上何か言うことはなかった。
瑛一さんの指が眼鏡のテンプルに掛かる。耳から引き抜く。癖毛が、ゆっくりと動きを持った。
「これで良いか?」
派手な瞳と、艶黒子を携えた唇。私の顔を覗き込むように角度を付け、笑みを、浮かべ。
「…………」
私は口を開けたまま呼吸を止めた。
息が苦しくなり、はっと吐き出す。
「っは……あ、あの……」
「何だ? もう俺たちの間を邪魔するものは何も無いだろう?」
その言葉の通りなのだと、自覚すれば全身に駆け上がる感覚があった。
「だ、駄目です、あの、本当……」
「何が駄目なんだ。ここまで来ているんだぞ、あと数センチもないだろう?」
瑛一さんが言いながら顔を近づけたので、私はその長い睫毛の先が、自身の瞼に触れたような錯覚に陥った。
「ひっ……あの……耐、えられない……」
声が震えた。自分でも聞いたことのないくらい高い声が出た。身を引いて出来るだけ距離を得る。
目の前の瑛一さんの眉が、歪んだのを見た。
「さっきはしようとしたじゃないか」
誰が聞いても分かるだろうという程、まるで子供のような、不満のじかに乗った声色だった。
そして、私の唇に何かが触れた。
親指が下唇をグニと押さえる。そのままその手が私の顔を引き寄せる。
錯覚ではなく、その睫毛が私の皮膚に触れた。
「どれだけらせば気が済むんだ。俺をからかっているのか?」
コツンと額が合わさり、互いの水晶体が接触するのではないかという程瞳を近づけた。片眉を上げた瑛一さんの、眼差し。熱を帯びている、と、感じた。
「…………」
言葉すら失って、私はただ刮目のまま目の前の景色を見ていた。
その艶めいた無二の声質が、遅れて内耳を刺激する感覚があった。
くらりと、廻る。
次に気がついた時には、瑛一さんの掌にすっかり支えられた後だった。

「荷物は部屋に置いてくるぞ。ああそうだ、お前の部屋を作っておいたから後で見るといい。仕事に必要だろうからな」
瑛一さんが、ソファの脇に置いてあった私の鞄を持ち上げる。
「え、あ、すみません、ありがとうございます」
「ああ。部屋に必要なものがあったら言ってくれ。何でも揃えよう」
瑛一さんはサラリと口する。私は視線だけを上げて、高い所にあるその顔を見た。
「あ……やっぱり自分で持っていき……」
鞄の持ち手へと手を伸ばすが、ヒョイと躱された。
思わず顔を上げる。片眉を上げた瑛一さんが見下ろしていた。
「これは俺が持っていく」
「いや、でも、何から何までしていただいては……」
持ち手に伸ばす手が、空を切る。瑛一さんが自分の頭の上に鞄を挙げるので、届く筈がない。
「いいから座っていろ。また失神されても困る」
瑛一さんの言葉に、私は言葉を詰まらせた。
「まあ俺にキス出来る元気があるならば、好きにすればいい。鞄は返してやろう」
瑛一さんが瞼を閉じて高々と言う。もしかして、相当根に持っているんじゃ……。
興奮で倒れるという感覚が、本当にあるのだと知った。
瑛一さんが言うには、興奮によって過呼吸状態となった身体が、体内の二酸化炭素濃度を回復させる為に意識を消失させるのだという事だが。ライブでのエンジェルの気持ちが、よく分かった気がした。この人の全身全霊で伝える愛は。
私がソファに身を沈めると、瑛一さんは、よしと頷いてリビングを出て行った。
一人になった部屋で、小さく息をつく。
と、ふと落とした視線の先には、指輪。
「…………」
口元を押さえて、広い部屋を見渡した。
どうしよう、これから毎日この距離で過ごしていくんだ。
謹厳きんげん極まりない届け出用紙の現実味を、今になりやっと味わった気がした。
ガチャ、とドアノブが下がる音がして、扉が開く。
瑛一さんは薄手のシャツを一枚、袖を軽くロールアップさせて着ている。帰宅してから気に留める余裕がなかったが、随分ラフな格好だと思えた。
「後は何をすればいい? ああそうだ、夕食は済ませたか?」
「いえ、まだです……あ、作りますかっ?」
ソファから腰を浮かせる。
「いや、もう遅いし出前でも取ろう。何がいいんだ? お前の好きな物を頼もうじゃないか」
私は瑛一さんを見上げる。
「いえそんな……瑛一さんの好きな物を頼みましょう」
「また遠慮するのか? 俺達は夫婦なんだぞ。気のおけない関係であるべきだ」
「ふっ……」
その熟語をまだ声に出せる気がしない。
「愛する妻に何でもしてやりたいと思うのは、夫として不自然な事ではないだろう」
『妻』……! 『夫』……!!
瑛一さんの口から紡がれた二文字を、頭の中で叫んだ。
私が口ごもっている間に、瑛一さんは話を進めた。
「そういうわけだから、お前は大人しく座っていろ。寿司でも頼むか、好物だろう?」
「す、寿司ですか? そんな良いものでなくても、何の日でもないのに……」
言いながら視線を泳がせたので、自分の指に光る輪を見た。
「あ」と私の上げた声と、瑛一さんの笑い声が重なった。
「ハハハっ、一番高いものを頼もう」
下瞼を押し上げるような楽しげな笑みで、私を見据える。
それからテーブルの上に置いてある携帯を取ると、早速電話を掛け始めた。
私は頬の微熱を持て余しながら、人差し指に嵌まっていた指輪を、そっと薬指にすげ替えた。
「イクラと海老と、それとサーモンか」
不意にそんな声がした。画面を操作しながら、瑛一さんが独り言のように呟いた。
携帯を耳に持っていく。私はその様を目を見張って見ていた。
好きなネタなんて、何故覚えているんだろう。
携帯を耳に当てた瑛一さんの視線が、不意にこちらを見た。
「他にも何か頼むか?」
「えっ、いえ! 大丈夫です……」
瑛一さんは「そうか」と呟くと、電話が繋がったらしく、注文を始めた。
瑛一さんと寿司を食す機会なんてあっただろうか。ああ、HE★VENSの皆と何度か囲んだ事があるかもしれない。その時に……? だが何年も前の話だ。
電話を終えたのか、瑛一さんが携帯を耳から離した。
「どうした? 何か言いたげな顔だな」
「えっ……いえ……」
目がこちらへ向いたので、反射で視線を逸らした。
座っていたソファの、片側が沈む。
「言いたい事があるなら遠慮するな」
顔を上げれば、その距離の近さに狼狽えた。瑛一さんの肩がすぐ傍にある。太ももはどちらかが少し足を開けば触れてしまいそうだ。
「……あ……その……」
そして、膝の間で組まれた手。その左手の薬指に、自分の物と同じ色に、輝くリング。
「…………どうして、私の好みなんて知ってくださってるんですか」
その指輪を見つめながら声にし、手の甲、手首、前腕と、辿るように視線を上げる。
笑うような息遣いを、隣で感じた。
「お前の事なら、何でも知っているさ」
視線がその瞳へ到達する。
瞳は、真っ直ぐに私へ向いていた。そして、何かを込めて、厚い唇が綺麗な弧へ引き延ばされる。
『ああそうだ。ずっと好きだった』
瑛一さんの睫毛が笑みのまま伏せられ、ソファがシンメトリーを取り戻す。
「風呂も沸かさないとな」
そんな声が頭上で聞こえて、私の元まで降ってきた。
フローリングへパタパタと響くスリッパの足音を聞きながら、私は自分の胸に左手を持っていった。

出前を受け取る。小皿を用意する。コップを用意する。茶を入れる。風呂敷を解き、寿司桶を開く。割り箸を箸包から取り出す、割る。
ダイニングテーブルに向かい合って座っている。瑛一さんは作業の全てをこなし、私はそれをただ見ていただけだ。
「イクラからでいいか?」
「え?」
私は意味を図りかね呟いた。
視界にイクラの軍艦が映る。
「口を開けてくれ」
「……………………瑛一さん……」
長い沈黙を交えて、私はそれだけ声にした。
子供扱いされているのか、世話を焼くのも行き過ぎじゃないのか。
「じ、自分で食べますから……」
「俺も、」
箸を下げないまま、瑛一さんが口を開く。
「誰彼構わず世話を焼くわけじゃない」
伏せられていた長い睫毛が、ゆっくりと持ち上がる。
「この意味がわかるな?」
妖艶な口元は笑みを付し。
「…………」
私は声を失って、頬の熱に視線を震わせる。
その言葉が与えた言いようのない熱に、うかされるように、私は徐に口を開いた。
寿司が口に入っても、私には瑛一さんの浮かべる笑みしか見えず、味がよくわからない。きっと贅沢極まりない寿司だろうに。
「次は何が食べたい」
「もっ……もういいですよ」
私は口に手を添え、食している物のせいか否か、モゴモゴと言葉にした。
「そうか? 俺はいくらしてやってもいいがな」
瑛一さんはそう呟いたが、ひとまず溜飲は下がったのか箸を置いた。小皿に醤油を垂らす。
「名前、俺は」
私は、瑛一さんの箸の先を見つめていた。
「今、限りのない幸福を感じているぞ」
箸の先から顔を上げる。
「お前と結ばれる事があるのなら、お前を目一杯甘やかしてやりたいと思っていた。この手でな。それが今まさに叶っている」
パッと目を逸らぜば、瑛一さんの箸の先に視線が戻る。
それはサーモンを醤油に潜らせて、私の目の前に静止した。
「…………」
口を開けると、舌に乗る。
咀嚼しながら、私は知っているようで知らない目の前の優しい笑みを見ていた。
私の歌は瑛一さんの為にあり、瑛一さんの歌はエンジェルの為にあった。一方的なものだと思っていた。いつだってこの人の背中を見ていた。
瑛一さんは一つ音なく笑うと、寿司桶に箸を伸ばす。
白身の刺身を掴んで、それが口の中に入れ込まれる様を追った。
「……それは、何ていう魚ですか?」
瑛一さんの視線が上がる。
「ん? 食べるか?」
「いえ、そうじゃなくて……」
「そうか? まあいいが。これはカンパチだな。脂がのっていて中々旨い」
「成る程……」
私はその後も箸の先を追ったが、瑛一さんはどのネタも満遍なく口にした。
「風呂はお前が先に入るか?」
食事が終わると、瑛一さんが後片付けもした。
「いえ、瑛一さんが先にどうぞ」
「お前は仕事で疲れているだろう? それに俺が入ると湯船の水が減るぞ」
「いやでも……」
瑛一さんが考えるように顎に手を置く。
「二人で入るか?」
身を屈めて顔を覗き込まれる。
美麗な顔が、子供のような笑みを浮かべて、私の視界を埋めた。
「なっ……に言って……!」
「別に可笑しなことではないだろう? 俺たちは夫婦だからな」
「だっ……そんなのっ……身が持ちません……」
覗き込まれた顔を隠すように腕をかざす。楽しそうな笑い声が頭上から降る。
「まあ今日のところは勘弁してやろう。楽しみは後にとっておくものだ」
ハハハ、と目を伏せて瑛一さんが笑う。そんなのとても出来そうにない。シャツ一枚の姿でもこんなに、鼓動が速るのに。
一番風呂には結局瑛一さんに入ってもらい、私はリビングのソファに腰を下ろす。
両膝に肘をついて、身を屈める。両手で顔を覆う。
強く、深く、激しく、どんな闇さえ染め上げる。私はこの鼓動のを、音楽にして捧げたいと思った。
『お前を目一杯甘やかしてやりたいと思っていた』
叶うはずのないもしもの穏やかな世界に、私は何を願ったのだろう。
手を伸ばし触れることの許された瑛一さんへ、鳳瑛一へ、私は。
暫くの間、部屋の奏でる秒針の音を聴いていた。
ガチャ、とドアノブの音が聞こえて、我に帰る。
「上がったぞ」
掛かった声と同時にソファを立ち上がった。口を開いたが、固まる。
柔らかそうな癖毛が、湿っているせいか動きが落ち着いている。毛先が束になってパラパラと肌に掛かっている様は、いつもの綺麗に整った雰囲気を崩していた。
身はネイビーのセットアップのパジャマで包んでいる。シルクの光沢のあるシャツの生地は、重力によく沿うから、その下に隠されたスタイルのいい身体が想像出来た。
「どうかしたか?」
立ち上がったまま固まっている私に、瑛一さんが首を傾げる。水分を含んだ襟足が、首筋に絡まるように触れる。
ドクドクと自分の鼓動が頭の内まで響く。
用意した言葉が、脳内で熱と音とを交えてグルグル回り続ける。
私は、貴方の、全てが。
熱を持った手で、腕を掴んだ。
掴んだ肌は湯で火照り温かく、水分によってかしっとりとしていてまた鼓動が跳ねた。
ドクドクとリズムを聴きながら、その掌に口づけをした。
高い所で瑛一さんの丸く見開いた目を見た気がするが、確認する余裕などない。
そのまま逃げるように、風呂場へ駆けた。

脚も手すらも伸ばせる程、広々とした浴室で、私は顔を覆ってばかりいた。
こうどうして自分は、こんなにも稚拙なのだろう。愛を伝える手腕に、これ程に事欠くのだろう。
風呂を出て、パジャマに袖を通す。
着替えや仕事道具など、一先ずの荷物は、今朝寮から持ち込んだ。家具や書籍、CD、楽器などはまた後日引越し業者に依頼する必要があるだろう。
ドライヤーを元に戻し、鏡の脇のラックへ手を伸ばす。
バスケットの中の指輪を取り出す。一つを薬指へ収め、チェーンから抜き出しもう一つも重ねる。
「……上がりました」
リビングへ顔を出して声を掛けた。
ドアノブを握って後ろ手に閉めると、フローリングにスリッパの足音が鳴る。
「……髪は乾かしたのか?」
目を見開く。
サラ、と乾いた音が耳元でした。
逆光の影を乗せた瑛一さんの顔が、目と鼻の先にあった。
爪の先まで美しい手が、私の髪に指を通す。引き抜く。
私は声を上げられぬまま、体を強張らせたが、瑛一さんは「よし……」とうわ言のように呟く。顔を離した。
瞬間、浮力を感じた。
「えっ……? うわっ!」
初めて体感する心地に、何が何だか分からなかった。
「動くと落ちるぞ。まあ落としはしないが」
フローリングが遠くに見え、瑛一さんの顔が直ぐそこにあった。
私の体を軽々と横抱きで抱き上げた瑛一さんは、そのままスタスタ歩いて行く。
「おっ、下ろしてください!」
返事は何も返って来なかったが、代わりに唇に柔らかいものが触れた。
言葉の通り私を黙らせると、瑛一さんはドアノブに手を掛けた。

両腕は、身体をシーツの上へ横たえた。
背中の羽で着地するが如く、フワ、と柔らかに降りた。
ギ、と足元で微かな音がして、私の身体を大きな影が覆う。
「え……瑛一さ……」
眩ゆいものを見るように、目を細めたその表情を、真上に見た。
手が私の頬を包む。
ゆっくり、顔が近づいた。
唇が触れる。感触を確かめるように、触れたまま何度か動きを持つ。
小さな息遣いを聞いた気がした。
「……!!」
気づけば瑛一さんを突き飛ばしていた。
「すっすみませっ……」
我に返り謝るが、でも、今。
何か濡れたものが、中に。
「俺とキスをするのは嫌か?」
「そっ、そんなわけ……」
「そうだろう? ならば」
片手で肩を掴まれた。
ドサっと背中が沈み、再び影のもとへ。
「覚悟を決めてくれ」
私を組み敷いた腕には、力がこもっていた。
私の唇の薄い皮膚に、瑛一さんが親指で触れる。触れられた跡がピリピリとした熱を持ち、それを感じながら見上げる目の前の顔は、惚けたように私にのみ視線を注ぎ。
「まっ……待って……ください……」
声が震える。真っ白なシーツへ顔を背けながら、自分の血の巡りが逆行するような錯覚すら覚えた。
吐き出す息遣いを、すぐ傍で感じた。
「あのな、最愛の相手にあんなことをされて、我慢出来るほど大人じゃないぞ」
頬に五本の指が這う。グッと顔の向きを元に戻される。
顔が斜めに近づき、食らうように唇が合わさった。
唇に舐めるような感触、頬を抑える指の腹には力が篭り、両脚の間には長い脚がこちらの身動きを制限するように挟まる。癖毛が額をくすぐって、長い睫毛の毛先が瞼を撫でる。
唇が離れると、二人の荒い息遣いが寝室に響いた。
頬を捕らえていた片手が、頭に沿って滑る。後頭を押さえるように掴むと、また顔が近づいた。
「瑛一さんっ……!!」
耐えかねて声を上げた。
珍しく肩で息をする瑛一さんが、動きを止めて私を見つめる。
「……何だ? あまり何度も抵抗されると、無理矢理組み伏せてしまいそうだ」
スル、と片手が手首を撫でる。
その些細な動きにも身体を跳ねさせながら、私は呼吸とともに口を開く。
「私……明日も仕事です……」
切れ切れに何とか言葉にすれば、瑛一さんは暫く固まった。
それから徐に口を開く。
「流石に……初めからそんなに激しくするつもりはないぞ。手加減はしよう」
「てかげっ……! そうじゃなくて!」
瑛一さんは眉を顰めて、首を傾げる。
「こ、こんなことしたら……私……瑛一さんのことしか、考えられなく……仕事どころじゃ……」
顔を覆って呟けば、視界が消えたせいで数秒前の光景がありありと蘇った。感覚すら伴う。
私が追憶に耐えかね視界を開けたのと、瑛一さんが私の隣へ身体を横たえたのは、同時のことだった。
首を回して隣を見る。唇から溜息を吐き出し、表情を歪める横顔があった。
「……まさかHE★VENSの活躍と、己の欲望を天秤にかける日が来るとはな……」
瞼を閉じた瑛一さんは、疲弊しきったように呟いた。
「え、えっと……」
「わかった。今日は俺が引こう。何もしないと約束するから、明日に備えて安心して眠ってくれ」
瑛一さんは言い終えると、私の頭をぽんと一つ撫でた。
「ただ、俺もいつまでも身を持たせる自信が無いからな。次のオフはいつだ?」
「オフですか……? 確か来週くらいに、一日予定のない日が……締め切りもないですし……」
ギ、と音を鳴らして、瑛一さんがベッドに上体を起こす。
「そうか、ならその日にしよう。予定を空けておいてくれ」
瑛一さんは一つ笑むと、ダウンケットを引き上げて、私の上へ掛けた。自分も同じ布団の中に入る。
ギ、と軋むベッドの音と共に、すぐ肩の先に、瑛一さんのパジャマの生地が見える。
瑛一さんがベッドの中から、サイドチェストに手を伸ばす。リモコンを取ると消灯した。
何度か軋む音が鳴って、やがて静かになった。
明かりのない夜の部屋は、隣からの息遣いだけが聞こえる。
「…………」
天井を見上げながら、自分の鼓動がやけに耳につく、と思った。
その日にしよう、って、つまり。一体、どんな心持ちで一週間を過ごせばいいのか。
というか、眠れる気がしない。
唇に触れると、少し濡れた感触がした。慌てて手を離す。
暫く天井を眺め、ゆっくり隣へ首を動かしてみる。
バチっと、派手な瞳と目が合った。
「ん? どうした?」
「なっ、何でも……」
思わず顔を背ける。瑛一さんはいつのまにか裸眼だ。
私は少しベッドを鳴らして、反対側へ寝返りを打った。
「なあ名前、」
シーツを伝って、背中に声がする。
「抱いて眠るくらいなら、何かするの内には入らないか?」
「えっ」
思わず振り向くと、美麗な顔が口元に笑みを浮かべている。
「ほら、もっとこっちへ来い」
「えっ、ちょ、ちょっと……」
『明日に備えて眠る』には程遠い状況だ。
腰に手を回され、グッと力で引き寄せられた。
瑛一さんの胸元に顔が近づき、脚が接触する。
「あ、あの……あの……」
肌の匂いがする。腕の中は温かく、開襟のシャツからは鎖骨上窩が覗く。
「お前が手に入ったという実感くらいは、せめて味あわせてくれ」
声が、私の身体を伝って響く。
眠れるはずがない。
私は暫く息すら止めて、瑛一さんの腕の中で身を固くしていた。
「眠ったか?」
視線を上げると、パチと目が合う。
瑛一さんが少し笑って、私の腰に腕を添え直した。
「名前、お前はどこか行きたい所はあるか?」
唐突な質問に、私は至近距離も忘れて瑛一さんを見上げる。
瑛一さんはシーツを見ているのか、私の頭の向こう側を見ているようだった。
「そうだな……ニュージーランドなんてどうだ? 以前ロケで行ったんだが、大自然が広がる良い国だ。美しい星空が眺められる湖があってな」
瑛一さんの口元は優しく微笑むと、視線を私に向けた。
「お前と来たいと思った」
私は目を見開いて、その表情を見上げた。
「星空が好きだろう? 南半球の国だから、日本では見られない星も見える」
「…………それは……いいですね」
「ああ」と瑛一さんは優しく頷くと、また口を開く。
「個人的にはモナコにも一度行ってみたいんだが」
「ああ、街中をF1カートが走るんでしたか?」
「そうだ、よく知っているな」
「テレビで見た事があって……」
「有名なレースだからな。伝統と華やかさに加えて、高い技術を求められる難コースなんだ。それ故に予想もつかない展開になることも多く、見応えも抜群なレースだぞ」
瑛一さんの声のトーンが一段上がる。上気した頬で語る横顔を、私は見上げていた。
「なら是非……大会の時期に行きましょう」
「ああ」
瑛一さんは力強く頷く。
「それと、すぐには無理だが、式も挙げたい」
瑛一さんが私を真っ直ぐに見つめる。
「し、式ですか……?」
「気乗りしないか?」
「いえそういう訳では、ないんですが」
結婚式の招待状は、この年齢だ、何枚か受け取った気がする。仕事が忙しく、全て欠席に印を付けて返送した。自分とは随分離れた所にあったもので、何だかまだ実感が湧かない。
「派手にやるのは難しいだろうからな。少人数の挙式にしないか? お前の家族と、そうだな……HE★VENSの皆を呼んで」
そう口にして瑛一さんは笑みを浮かべる。
「俺の家族と言っても過言ではないからな」
目を細めたその表情は、とても優しい。
「……はい」
私も口角を小さく上げて、頷いた。
腰に回されている手の平が、あやすようにポンと一度だけ小さく動く。
「お前は、何処か行きたい所は無いのか?」
暗い部屋、シーツの皺と瑛一さんの香りだけが埋める密やかな世界。
「……夏祭り」
シーツに向かって、ポツリと声がこぼれた。
「祭りか。そういえば、今年も結局行けなかったな」
事務所の近くで毎年行われる小さな花火大会がある。HE★VENSが結成されてから、最初の頃は毎年皆で訪れていた。何とも知らぬままナギさんに連行されたのは、初年の良い思い出だ。
だが、HE★VENSが時めくにつれ、今年こそは行こうと皆言うのだが、仕事の都合がつかないまま毎年流れてしまっていた。
今年もツアーでスケジュールがタイトになり、例年通りとなった。
「また行きたいです。……何だか規模が小さいかもしれませんが……」
瑛一さんが並べた行き先を思い起こして、思わず視線を逸らす。
「そんなことはない。必ず行こう。……二人きりでな」
瑛一さんが目を細め私を見た。鼓動が跳ねて、思わず視線を外す。
腰に回っていた手が、数回優しく撫でた。そうして止む。
「名前」
近い距離で、音がふるう。
「ありがとう」
聞こえた言葉に、私は顔を上げた。
何よりも近い場所に、そっと浮かべた柔らな笑みがあった。
瑛一さんの睫毛が、ゆっくり音を立てるように下がった。
「俺の未来が、まだこんなにも輝いているのは、名前、お前が居るからだ」
大きな手が、包むように私の髪を一撫でした。
「正直、お前が居なかったらと考えるとゾッとする」
その手は頭の形に沿って滑ると、首の後ろを支える。
「感謝を。……いや、いくらしても足りないだろうな。これまでもこれからも、俺はお前に救われてばかりだ」
瑛一さんの指が、想いを語るようにゆっくりとうなじを撫でた。
シーツへ掠れた音がする。
首を振った。違う、貴方が救ったんだ。暗闇から、数多の夢を、貴方が示した指の先を。
「……感謝なんて……。私の全ては…………」
貴方の為に在るのだから。
瞼を閉じた夢寐むびの闇の中からは、その言葉を音に出来たかは覚えていなかった。
朝、目覚めると私はまだ瑛一さんの腕の中に居て、美しい寝顔を誰よりも傍で見た。



「いや〜、今日もあっついな〜! 残念やけどエンジェル達、ワイの熱い視線は、暑いしせん、、、、、わ」
「えっ? そう? 最近は涼しくなってきた気がするけど……」
「ちゃうちゃうえーじちゃん!! 後半を取り上げてえな!」
スタジオに笑い声が起こる。
「後半……? ……っあ! ホントだすごい!」
「関心やのうてツッコんで!」
「あ……? どこがボケだったんだ?」
「天草にも理解出来ぬ……」
「だから〜ようはダジャレでしょ? 『熱い視線』と〜『暑いしせん』が〜」
「ナギちゃん説明やめて!」
「今のは…………難易度が……高い……」
「だよね! ヴァンすごいよ!」
「えっ……ちょお、褒められても……」
スタジオに再び笑いが起こる。
テレビ局のスタジオで、HE★VENSのバラエティ番組が収録されていた。
「ていうか何なの? 今日ずっとボケてくるんだけど〜?」
「瑛一っちゃんの穴を埋めようと思っとんのやんか。いや〜天然ボケ枠が一つ減ったんは痛いで」
「やーっと減ったと思ったのに増やさないでくれる〜? ていうか、バランス考えたらどー考えてもツッコミの方を増やすべきでしょ? 天然ボケが何人いると思ってるの?」
ナギさんの大きく歪めた顔が、モニターに映し出されている。
「1、2、3、4……ほらーまだ4人もいる〜!」
ナギさんが指で指しながら数えた。瑛二さんが瞬きする。
「えっ、俺も?」
「当たり前でしょ!」
「俺は……違う」
「綺羅もそう!」
ナギさんが口をへの字に曲げる。
「も〜ナギ1人で疲れる〜」
「俺は……ツッコミも…………出来る」
「おっ、出るか? 綺羅ちゃんのスロープツッコミ!」
「ナニそれ?」
「『スロー』と『シャープ』を合わせとんのやんか! 綺羅ちゃんのツッコミを的確に表す、まさになネーミングっちゃう?」
「そっ、それだと『シャープ』がわかりにくいやないかーい」
「もー瑛二、ツッコむトコがちが〜う!」
息を吸う音がする。
「ヴァンに……瑛一の代わりは……無理……」
「ちょっ、そんなハッキリ言わんといてーな!」
「ヴァンのボケは……いつも……意図的……。瑛一とは……対極……」
「そーそー。だからヴァンに付き合ってると疲れるんだよね〜」
「確かに、ヴァンの波動と瑛一の波動は、似ても似つかぬ……」
「何やこの言われよう! そない言われたらワイかて落ち込むで!?」
「まあ、無駄に騒がしいとこは似てんじゃねえのか?」
「大和それフォローのつもりなん!?」

スタッフの足音が行き交い、機材を乗せた台車の車輪が音を立てる。
収録を終えてスタジオは忙しない。たまに声を掛けられるので、挨拶を返す。
「ニックネーム」
背後から肩に両手を置かれ、思わずビクと反応する。
「ヴァンさん……お疲れ様です」
「ニックネーム、こないなとこでどないしたん? ワイに会いに来てくれた?」
ヴァンさんが肩に手を置いたまま、私の顔を覗き込むように首を傾げてくる。
「あっ、苗字さん」
遠目から柔らかな声がかかる。
「ごめん、待たせちゃって」
「いえ……私が早く着きすぎただけなので」
「急いで準備してくるね」
瑛二さんはそういうと、スタッフに挨拶をしながら、スタジオを足早に出て行った。
「なあに〜? 名前ってば瑛二と約束?」
声がして見ると、ナギさんの姿があった。一緒に他の皆の姿もある。
「そやそや、ワイ嫉妬してまうわー」
「おまえはそいつのなんでもねぇだろ」
ヴァンさんのわざとらしい嘆きに、大和さんが言った。
「打ち合わせの約束をしていて」
私は一番目線の近いナギさんに体を向ける。
「ふーん? 名前、瑛二の曲作るの?」
「いえ、HE★VENSの今後についての打ち合わせを……アバウトなものですが」
「おっ、なんや早速えーじちゃん、リーダーらしいやん」
ナギさんと私の間へ、ヴァンにさんが少し身を屈めて入ってくる。
「ヴァンにリーダーは無理だが、瑛二なら案外度胸があるし、なんとかなりそうだ」
見上げた所に、大和さんの揶揄うように笑った顔がある。
「ちょっ、まだ抉るん? シオンにも似ても似つかんー言われたとこやのに」
ヴァンさんの言葉に、シオンさんが少し目を丸くする。
「天草はそういう意味で言ったのでは……全く違う個性が共鳴するからこそ、我らの音楽は素晴らしいという意味で……」
「まあ似ても似つかないのはホントだけど〜?」
「ちょっ、ナギちゃん!」
「お待たせ、苗字さん」
不意に呼ばれて振り向くと、私服に着替えた瑛二さんの姿があった。
「皆んなも、早く行かないと遅れちゃうよ」
まだ衣装のままの皆に、瑛二さんが声を掛けた。
「おっ、えーじちゃんそのセリフ、リーダーっぽいなあ!」
「うっ、ええっ? そう……かな……?」
「天草はいつもと変わらぬ気がする……」
「えっ? えっとじゃあ、もっと強く言えばいいのかな……? 強く……うん……? 強くって……」
「もー瑛二が遅刻するよー! 今日スケジュール詰まってるんでしょ〜?」
「はっ! そうだった!」
ナギさんが呆れ顔で肩を下げた。少しフラついたシオンさんの背中を、押しながら歩き出す。
「ごめん苗字さん、行こっか」
見上げるとはにかんだ笑みで、瑛二さんが言った。
肩にかけた鞄の中で、携帯が震えた。



「HE★VENSの新曲は、当分見合わせようかなって考えてるんだ。暫くは兄さんの仕事の代役で、皆んなスケジュールが詰まってるし、なにより方向性を決めないと、何をするにも迷っちゃうと思う」
テレビ局の近くに建つカフェ。その店内の奥手にある個室で、瑛二さんと向かい合って座った。
瑛二さんの次の仕事があり、事務所まで帰っている余裕がないので、打ち合わせはカフェで済ますことにした。
店は瑛二さんが選んだが、テラリウムや観葉植物などの緑と、木材の温かな香りのする、穏やかでお洒落な喫茶だった。
「方向性……」
「うん。俺が兄さんになれないのと同じで、兄さんがいた頃のHE★VENSは、7人のHE★VENSじゃないとダメなんだ。だから、俺達は俺達の、HE★VENSを作り上げなきゃいけないと思う」
珈琲の匂いが空間に漂う。瑛二さんは机の上で両手に拳を握って話した。視線は机の木目に向いていたが、その道筋は真っ直ぐだと感じた。
「……って、具体的な事は何も決まってないんだけどね」
瑛二さんが片手を首の後ろに持っていき、あははと苦笑いした。
私は暫くそれを見つめて、無意識に詰めていた息を吐き出した。少し、顔の筋肉が緩む。
「……そうですね」
呟いて、一度瞼を閉じる。口を開く。
「私は、HE★VENSの為ならば何だってします。……いや、私に出来る事は作曲しかないですが……」
視線を珈琲の水面に落としたところで、息を吐くような自然な笑い声がした。
「ううん、それが何よりだよ。ありがとう。そして改めてよろしくね」
瑛二さんが柔らかく目を細めながら、手を差し出す。
「俺がリーダーじゃちょっと、頼りないかもしれないけど……」
瑛二さんが視線を落とす。
私は少し笑って、差し出された手を握った。
「そうだ、兄さんとはどう?」
簡単に打ち合わせを終えて、手付かずだった珈琲に口をつけたところで瑛二さんが言った。
思わず昨夜の光景が蘇り、カップを落としかける。
「いや……えっと……」
「あはは、兄さん二人きりでもあの調子なのかな。目に浮かぶなあ」
瑛二さんが可笑しそうに笑う。
「何て言うのか……とても世話を焼かれて」
それにアイドルと作曲家という関係では、決して有り得なかった密な距離。
変わらないようで変わった関係に、視界がチカチカと回る。
「兄さんって世話焼きだよね」
瑛二さんが私の言葉に、苦笑しながらも深く頷く。
「昔からそうなんだ。そうだ! ツアー前のことなんだけど、俺が歯医者に行くって兄さんに言ったら、『一人で平気か? ついていってやろうか』って兄さん言うんだよ?」
瑛二さんがカップの持ち手に指を添え、持ち上げる。
「俺の事いくつだと思ってるんだろう」
思わず少し笑えば、瑛二さんも同じように笑った。
珈琲を啜る音がする。
「でもきっと、苗字さんのこと大好きなんだと思うよ」
目を細めた柔らな笑みを、瑛二さんは浮かべた。昨夜見た笑みが、重なるように眼前に浮かび。
「…………はい」
私が小さく声にすると、瑛二さんは息を出して笑った。
私はカップをソーサーに置いて、口を開く。
「でも、してもらってばかりで、私もきちんと、返せたらいいんですが……」
机の上に乗せた指先へ視線を落とすと、一輪指輪が目に入る。
「うーん、きっと兄さんは苗字さんと居られるだけで嬉しいと思うけど、そうだね……何かプレゼントしてみるのはどう?」
「え、プレゼント……ですか」
私は視線をずらして、腕に嵌めた時計を見た。
「あっ、」
突然、瑛二さんが声を上げる。
「そういうことなら俺に任せて! 兄さんの好みなら沢山知ってるし、ちょっと待ってね」
そして足元のバスケットへ置いていた鞄を膝の上に上げると、何やら中身をゴソゴソ探し始める。
瑛二さんはスマホを取り出すと、操作し始めた。
「予定が空いてたら、一緒に買い物に行かない? えっとスケジュールは」
「買い物……? いえでも、瑛二さんお忙しいのに」
「そんなことないよ。一日くらい休みは……」
瑛二さんの動きが止まる。
スマホの画面を、にらめっこでもするように見つめる。
「……えっと……来月でもいいかな……?」
私は数回瞬きをした。
「いえ……一人で行くので大丈夫です、ありがとうございます」
瑛二さんは「う……ごめんね」と謝って、携帯を鞄の中にしまう。
多忙なのはわかっていたつもりだが、想像以上に忙しいようだ。瑛一さんの抱えていた仕事量を、思い返してみる。
「……瑛一さんの代役は、大変ですか?」
「ああ、うん。あの兄さんの仕事だからね」
瑛二さんが苦笑を浮かべる。
「でも、正に今朝、兄さんがやってたロケの仕事だったんだけど、兄さんとは反応が全然違って、それが新鮮で良いって言ってもらえて」
瑛二さんがカップに視線を注ぎながら、眉に強く力を込めた。
「ちょっとは自信がついた気がする。俺なりに頑張ろうって思ってるよ」
カップから視線を上げて、こちらに向けて笑んで見せた。
と、思えば、瞼を閉じて眉を歪める。
「うーん、でもやっぱり、苗字さんと出掛けたかったなあ」
瑛二さんは呟くと、もう一度携帯を取り出した。
「少し詰めたら行けなくも……移動の時間が……あっ! でも苗字さんの予定もあるんだ!」
「……えっと……瑛二さん」
瑛二さんの視線が上がり、ハッとしたように目を見開いた。
「ごっ、ごめん! 俺ちょっと舞い上がっちゃってて!」
『舞い上がる』? 、と私は彼の言葉を繰り返した。
瑛二さんがパッと自分の口を覆った。
それから視線を動かし、口の手を襟足へと持っていく。
「えっと俺……苗字さんが家族になったみたいで……嬉しくて」
目を開いた。目の前の、照れるように視線を下げる姿を、ただ見つめた。
何と口にすれば良いのか分からず、視線を指に下げる。目に入る指輪を意味もなく触って、皮膚に触れているチェーンが急にこそばゆい。
あ、と瑛二さんが不意に声を上げた。
「俺ずっと苗字さんって呼んでたけど、もう苗字さんじゃないんだよね。えっと……」
瑛二さんが顎に手を当てて、首を傾げる。
「名前さん……はちょっと言い慣れないし……」
何年も苗字で呼んでたから……と、瑛二さんは首を捻る。
「うーん……うーんと、」
変わらず旧姓で、と言いかけるが、瑛二さんが口を開く方が早かった。
義姉ねえさん……」
目を見張るのと、顔の微熱を感じるのと、口元を覆う事、瞬間的に順序付けられず、結果数秒ただ固まった。
だが、その後に全てを行う事になる。
私の反応を見て我に返ったのか、瑛二さんが視線を逸らす。
「ごっ、ごめん」
私も視線を指先に向けたが、当然それを証明する印がまざまざと鎮座していて、また逸らす。
何だろう、瑛一さんの人生に、足を踏み入れている感じがして、凄く。
ハッと息を吐いて、自分の思考にまた熱を覚える。どうかしてる。
ふふっ、と笑い声がした。
「……なんですか」
「えっ、あっごめんね……!」
瑛二さんは慌てたように謝る。だがそれからまた少し笑った。
「からかいたくなる兄さんの気持ちが、ちょっとわかる気がする」
私は思わず声を上げかけたが、寸前のところで堪える。というか、瑛二さんから見てもそう見えているってことは、やっぱり瑛一さんにからかわれてるんじゃないか。
ヴーヴー、と不意に携帯のバイブ音が響いた。
「あ、俺そろそろ行かなきゃ」
バイブ音はアラームだったようで、瑛二さんが携帯の画面に触れる。
「今日はありがとう。苗字さんが居てくれると心強いよ」
「いえそんな、……頑張りましょうね」
うん、と瑛二さんは強く頷いて、席を立った。
「これから仕事? 送っていけたら良かったんだけど」
「いえ、これから綺羅さんと会う約束をしていて、事務所なので……」
個室のドアを開けかけた瑛二さんが、思わずという風に振り返った。
「綺羅と? 珍しいね」
「ええ……」と私も口にする。
ここに来る前に、メールが一件届いていた。
綺羅さんのアドレスだった。
話があるから事務所に来て欲しいと、それだけ書かれていた。



会議室には、西日が差し込んでいた。
長テーブルに、ノートパソコンと資料を広げて、作曲の仕事をしていた。
ガチャ、とドアノブが回る音を聞く。
「綺羅さん、」
カタリと椅子を立ち上がる。
ドアから姿を見せた綺羅さんは、深い色のシャツに薄手のジャケットを羽織った私服姿。
「……収録が……長引いた…………待たせて……すまない」
綺羅さんがゆっくり言葉にし、ガチャリとドアを閉めた。
壁の時計を確認すると、午後5時を指している。
いえ、と返し、私はテーブルの上の書類を片付ける。データを保存して、ノートパソコンを閉じた。
カタリと綺羅さんが椅子を引いて、私の真向かいの席に腰を下ろした。足元に鞄を下ろす。
「……話っていうのは」
綺羅さんが姿勢を正したタイミングで、私から切り出した。前置きなんて、綺羅さんには要らない気がする。
綺羅さんはその引力を持つような秀麗な眼で、私を真っ直ぐに見つめた。
「……お前に……作曲を、依頼したい」
私は目を見開く。綺羅さんの瞳は、相変わらず私を捉え続ける。
「……新曲、ですか? リリースの予定、決まったんですか?」
思わずそう問う。HE★VENSの新たな活動に関する事務所の方針は、まだはっきりと耳に出来ていなかった。
「……いや」
綺羅さんは少し視線を落とし呟く。
「CDに……出来るかはわからない……。まだ事務所と……交渉している段階だが……新曲は……」
綺羅さんの視線が上がる。
「ライブで歌う……つもりだ」
ライブ、と口の中で繰り返した。
綺羅さんがライブだなんて。強い感情のこもった声色と、固い意思を秘めた視線に、私は暫く動きを止めていた。
カチ、と分針のが響く。
「……綺羅さんの、曲ですよね」
「ああ」
ゆっくり口にしながら、私は測るように目の前の瞳を見る。
「私で、いいんですか?」
綺羅さんのソロ曲は、これまで一度も書いたことがない。
私が得意としている音は、ロックサウンドと、それに準ずるような激しいサウンド。
電鳴でんめい楽器、所謂バンドサウンドやシンセサイザーの打ち込みの音色で、音を作ることが多い。
HE★VENSでは瑛一さんの楽曲を、それとナギさんの曲も何曲か制作したことがある。
時を重ねるごとに、得意分野以外にも様々な曲を作ってはきたが、綺羅さんの楽曲は。
目の前に座る出で立ちを眺める。
ピアノの繊細な旋律。一音一言に数多の想いがこもった、エンジェルの為の愛の歌。
「お前にしか、頼めない」
迷いのない、はっきりとした声だった。
「この曲で……俺はHE★VENSの未来を歌う……。エンジェルに……瑛一に」
日が傾き薄暗くなり始めた部屋の中。強い眼差しを孕む瞳が、目立って光る。
「同じ想いを……共有している……。お前にしか、書けない」
息すら忘れた無防備な皮膚へ、綺羅さんの視線は容赦せず突き刺さった。
「…………はい……はい」
掠れかけた声を、二度目ははっきりと声にして、返事をした。
綺羅さんは何も言わずに頷いた。
分針の音が、静かな空間に響く。
「俺たちが変わらず……エンジェル達を愛しているということ……瑛一の描いた未来は……消えることはないということ……そして……HE★VENSの歩むべき道を示す」
綺羅さんは一つ息をついて、視線を下げる。
「言葉では……表せない程の……この想いを……その全てを…………俺は歌で……伝える」
視線を上げて、迷いのない視線で前を見据えた。
瑛二さんは、方向性を決めたいと言った。それを決めなければ、何をするにも迷ってしまうと。
HE★VENSの歩むべき未来、それを示す曲。
あの日描いた突貫の音、それじゃあ足りるはずがない。
今まで歩んだ長い道のり、全てを刻んで、HE★VENSに、エンジェルに、覆い被さろうとしている翳りを、完全に晴れさせるような、強く激しい旋律を。
会議室を出る際に、綺羅さんが思い出しように振り返った。
「瑛一……との……生活は……どうだ……」
突然の問いかけに、私は肩から鞄がずり落ちた。
「えっ、えっと……」
思わず視線を右往左往させると、いや、と綺羅さんが口を開く。
「……そういう意味じゃ……なくて……」
困ったように視線を逸らす綺羅さんに、私はどういう意味に取られたんだと顔が赤らむ。
綺羅さんが視線を戻して、吐息のような息をついた。
「……瑛一には……黙っていてほしい」
「え?」と返すと、綺羅さんは窓の向こうのオレンジ色を眺めた。
「完成してから……聴かせたい。それくらい……大切に作らなければいけない……曲」
綺羅さんは呟くと、視線を私に戻した。
「……出来るか?」
私は綺羅さんの瞳を見つめて、深く頷いて見せた。



日の落ちた夜道を、歩いた記憶は殆どない。
気がつけば見慣れない道に出ていて、駅からの短距離を危うく迷うところだった。
マンションのドアを開けて、中に入る。
物音がする。
「おかえり、名前」
声に顔を上げると、廊下の先、扉から瑛一さんが姿を見せていた。
「あっ、ただいま……帰りました」
言い慣れない言葉に一瞬戸惑いを返したが、瑛一さんは少し笑うと、ラックから取ったスリッパを床に置いた。
「ありがとうございます……」
「ああ。夕飯が出来ているぞ、すぐに食べるか?」
「あ、いえ……」
瑛一さんが手を伸ばして、私の鞄の肩紐に指を掛ける。
私が高い所にある瑛一さんの顔を見上げると、瑛一さんは首を傾げる。
「ん? どうした? 荷物は俺が持とう」
「あ……いや…………」
未来を示す、どんな未来を。
「あ、あの、メモだけ」
私が口にすると瑛一さんは「メモ?」と繰り返した。
「曲のメモだけしてもいいですか? すぐに終わりますから、夕飯少しだけ待っていて頂いても……」
瑛一さんは私を見下ろしたまま、数回瞬きをした。
それから息を吐くように笑った。
「わかった。ハハ、お前がこれまでどんな生活をしていたか、目に見えるようだな」
「すみません、ありがとうございます」
私は鞄の肩紐を持ち直して、駆けるように部屋に入った。

焦りがある。
締め切りが短いわけではないのに、感じるこの感覚は、大望へ指先が届かぬような怖さ、自らの想像を超えた世界への動悸、そんな紙一重の2つの鼓動。
デスクにノートパソコンと五線紙を広げながら、己の中の鼓動を聴く。
無地のメモ帳に、思い付くアイディアを書き走りながら、何も描かれない五線譜と相対し続ける。
ピアノ、と呟いて椅子を立ち、グランドピアノの前へ行く。
綺羅さんの旋律を頭の中に思い描きながら、鍵盤に触れた。
D音を鳴らしたところで、ハッと動きを止める。
触れていたグランドピアノをもう一度まざまざと見た。
「瑛一さん!」
リビングへの扉を勢いよく開ければ、ソファに座って雑誌を読んでいた瑛一さんが顔を上げた。
「ん? そろそろ食べるか?」
「いや、そうじゃなくて」
私はスリッパをパタパタ言わせながらフローリングを駆けた。ソファの前の大きなテレビは電源が付いていた。
「いつのまに荷物を運んだんですかっ?」
自室に置かれていたグランドピアノは、寮で使っていた私のものだった。そうして改めて見回してみると、本棚から冬服まで私物が全て運び込まれていた。
「午前中に、業者に頼んで運び入れてもらったんだ。ぐずつくものでもないだろう?」
瑛一さんはそう言うと、ソファの背もたれから身を起こして、こちらに体を向ける。
「仕事はもういいのか?」
私は暫く立ち尽くしていた。
我に返って時計を見て、思わず二度見する。
腕時計を確認して、示されている時間が正確であることを知る。
「すみません! こんなに待たせてしまって」
「いやいいさ。お前の集中力にはむしろ感服している。他の物が見えなくなるくらい力を注ぐその性は、俺が惚れているところでもあるからな」
瑛一さんは笑みを浮かべながら、雑誌を閉じてソファを立ち上がった。
からかわれて……いや、これはこの人の素だろう。
ダイニングの方へ向かう瑛一さんの背中を見ながら、私は思い出したように呼吸をした。
「スープを温めるから少し待っていてくれ」
はい、と言いかけて、言葉を止める。
2人掛けにしては広いダイニングテーブルには、所狭しと料理が並んでいた。
「…………」
夕飯というよりは、ディナーという方が相応しいような光景に、私は言葉を失って突っ立つ。
「こ……これ瑛一さんが作ったんですか……」
「ああ。他に誰が作るんだ?」
キッチンのカウンターの中から声が返ってくる。瑛一さんがかき混ぜる鍋からは、美味しそうな匂いが立ち込めた。
「料理なんて、番組で何度か作ったくらいだから、この機会に一から勉強してみるのも良いかと思ってな。お前の口に合うかはわからないが、感想は遠慮なく言ってくれ。お前好みの料理が作れるように努力しよう」
瑛一さんがコンロの火を止めた。スープを器によそうと、それを持ってカウンターから出てくる。
コト、と器を置く心地いい音がする。机の上の料理は、名前も知らないような洒落たものばかりだった。
「……何から、何まで……すみません」
思わずそうこぼすと、瑛一さんは私を見て、息を出して笑った。
「何を言うんだ。お前はこんなこと以上に、俺に尽くし与えてくれただろう?」
そうだろうか。私は顔を歪めたが、瑛一さんは「さあ食べよう」と椅子を引いた。
手を合わせて、フォークを口に運ぶ。外国風の少し癖のある味付けだったが、とても美味しい。
「瑛一さんが、完璧なのは知っていましたが……」
「ハハハ、お前に褒められると悪い気はしないな」
思わず呟いた言葉に、瑛一さんは笑って、自分も料理を口に運んだ。
「これは、何ていう料理なんですか」
「パテ・ド・カンパーニュか?」
「パテド……え?」
瑛一さんがくつくつと肩で笑う。
「イイ、お前のそんな顔は初めて見た」
瑛一さんは目を細めて、口元に弧を描く。
う、と私は言葉に詰まって、口の代わりに手元を動かした。
「仕事はどうだった。何か新しい曲作りが入ったようだな」
「あ、えっと、はい」
答えながら、スプーンに持ち替える。
「今日は午後に瑛二さんと打ち合わせもしたんです」
「瑛二と? そうか。元気そうだったか?」
昨日も会ったばかりでは、と思うと同時に、瑛二さんの苦笑を思い出す。
「はい」
少し笑いながら言えば、瑛一さんが「何だ」と訝しげに眉をひそめた。
私は「いえ」と返す。スープをスプーンで掬って口元に運ぶ。
瞬きをした。もう一口掬って、私はスープの水面を見る。
「スープはどうだ?」
「えっ、あっ美味しいです」
慌てて答える。
懐かしい味がした気がした。でもまさか、これ程手の込んだ料理の中に、食べ慣れた味なんてあるはずが。
「そうか。ちゃんとお前の実家の味になっているか?」
え、と思わず瑛一さんを見た。瑛一さんもスープを一口啜る。
「やっぱりこれ……」
「今朝お前の実家に電話をしたんだが、その時にな」
「でっ、電話!? 実家に!?」
思わず声を上げると、瑛一さんは首を傾げる。
「何だ、急に大声を出すな」
「すみません……」
瑛一さんが、あの瑛一さんが……。誰が出たんだろう。朝なら母だろうか。
「お前の好みを聞くつもりで電話したんだが、幼い頃の思い出話なんかも聞けて、楽しかったぞ」
「なっ、どんな話を……」
可笑しな話をしてないだろうな。一昨日実家を訪れた時に、当然連絡先は伝え合った。私は使うのは緊急時くらいだろうと考えていたが、瑛一さんや母は違ったんだろうか。
瑛一さんが思い返すように、宙へ視線を向けて思案する。
「そうだな……お前がどんな子供だったかを尋ねたら、『大人しくて控えめな子』だったと言われて。思わず笑ってしまった」
私は動きを止めて、瑛一さんを見る。
「まあ、お前の音楽を知らなければ、そう見えるのも不思議ではないのかもしれないがな」
瑛一さんは真っ直ぐに私を見据える。そして一つ笑んで見せた。
「…………」
胸に左手を持っていく。
「しかしスープに味噌を入れるんだな」
「あっ、味噌!」
ん? と瑛一さんが私を見返す。
「ずっと同じ味にならなくて……自分で作るんですけど全然……味噌だったんだ」
「直接聞けばいいだろう?」
瑛一さんは可笑しそうに笑って、スープを一口飲んだ。
「そう……なんですけど」
長い間声すら聞いていなかった。もしも瑛一さんとこんな関係になることがなければ、これからも家族との距離は、どうだっただろう。
「しかし何だか、お前の家族と話していると、」
瑛一さんは顎にその美しい指を添えた。
「今まででは触れられなかった部分を共有できて……お前の人生全てに手を触れるようで、言い様のない感情が湧き上がるな」
『瑛一さんの人生に、足を踏み入れている感じがして、凄く』
自分でもわかるほど、全身に熱がのぼった。
身体の内部から撫でられるような、気持ちの良い感覚がある。
「…………」
顔を下げてスープを口に運べば、瑛一さんの小さな笑い声が聞こえた。
「……休みの日は私が作ります」
話題を転換するように口を開く。
「瑛一さんのように凝ったものは作れませんが……」
「お前の手料理か、楽しみだな」
「本当に普通の料理ですよ? 唐揚げとか……ハンバーグとか……」
思わず言い訳するように言う。
「イイ! 俺はどちらかというとそういう家庭的な料理の方が好みだ。子供時代にあまり食べた覚えがないから、憧れが強いのかもしれないな」
私は顔を上げた。
瑛一さんはナイフでキッシュを取り分けて、口へ運んでいた。
「……じゃあ、瑛一さんの好きなもの全部作ります」
瑛一さんを見つめて口にすれば、上がった視線と目が合う。
その目は柔らかく細める。
「ああ。楽しみにしていよう」
瑛一さんの微笑みの混じる声と共に、腕の時計がカチ、と分針を鳴らした。


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