メメント・モリ(鳳瑛一) 2
(2)


『まさか、馬鹿を言うな。でっち上げに決まっているだろう』
電話を耳に、強い語気で話す姿が見えた。
視線がこちらへ向く。
『ああ名前、来ていたのか。少し待ってくれ』
瑛一さんはそう言うと、携帯に向かって何度か相槌を返してすぐに通話を切った。
事務所のエントランスだ。
『待たせてすまない』
『……いえ』
瑛一さんは携帯をコートのポケットにしまうと、腕の時計を確認する。
『呼び出して悪かったな。仕事の前に、新曲の進捗だけでも確認しておきたいと思ってな』
私は相槌を返して、手にしていた資料を差し出す。
国際イベントのメインアーティストを成功させてから、HE★VENSの人気は一躍社会現象を巻き起こす程となった。
仕事が格段に増え、以前よりもスケージュルが過密になったので、打ち合わせの時間もそう取れるわけでは無い。
最近は合間の少ない時間で、瑛一さんに方向性などの確認をしてもらうことが多くなっていた。
カサ、と音がして瑛一さんが顔を上げた。
『ああ、さすが名前だ。お前に任せておけば問題無いな』
瑛一さんはそう言って楽譜を返す。
『ありがとうございます……』
『HE★VENSの楽曲も、近々作ってもらう事になる。旅行会社とタイアップした広告が決まってな』
『……そうですか』
曖昧な返事になったが、瑛一さんは気がついた風も無い。
私は手の中の楽譜を見つめた。これは瑛一さんが主演を務める事になった、ドラマの主題歌。ソロ曲だ。
『……あの、』
ゆっくり口を開く。
『どうかしたか』
瑛一さんは真っ直ぐこちらを見下ろす。
私は視線を外して口を開いた。
『……週刊誌の、記事は』
指先を見つめながら口にした。瑛一さんが溜息と共に口を開いた。
『ああ、お前も見たのか。デタラメに決まっているだろう』
今朝発売された週刊誌の一面には、瑛一さんの記事が大きく出ていた。
『大方、売上を取るために、いま知名度を上げているHE★VENSの記事が欲しかったんだろう。捏造も甚だしい』
瑛一さんは少し苛立った口調で話した。
『……そうですか』
『当たり前だ。俺の愛の全ては、エンジェルとHE★VENSに捧げている』
瑛一さんは強い語気で言い切る。それから深い溜息を吐いた。
『お前まで、こんな当然の事をわざわざ説明させないでくれ』

HE★VENSのリーダー鳳瑛一が、国民的女優と熱愛。というのが、今朝の週刊誌の内容だった。
『26歳って、オバサンじゃん。瑛一がこんな女と恋人なワケないでしょ』
ナギさんが週刊誌を見ながら、呆れたように言っている。
『へ〜けどこれ、うまいこと撮れとんなぁ。ちゅうか瑛一っちゃん今度のドラマで共演するんやろ? 大丈夫なん?』
『瑛一だから上手くやるでしょ。ちょっと抜けてるとこあるから心配だけど』
ナギさんに資料を渡す用事があったので、テレビ局の楽屋に出向いた。ナギさんとヴァンさんという意外な二人の番組で、今は本番までの待機中らしかった。
『ていうか瑛一の愛はエンジェル達のものだし。ぜ〜んぜんわかってないよね〜』
ナギさんが週刊誌を閉じて言う。
『ね、名前もそう思うでしょ?』
ナギさんが得意げに話を振る。
『……ええ、そうですね』
『いやいやいや、瑛一っちゃんも男やで?』
ヴァンさんが割り込んでくる。
『瑛一はトクベツ! ヴァンと一緒にしないで〜』
『べー』とナギさんがヴァンさんに向かって舌を出す。『ちょっ、ヒドイわぁナギちゃん』とヴァンさんが嘆く。
いつか綺羅さんが、『精神年齢が一緒』とツッコんでいたのを思い出した。
楽屋を出て廊下を歩いた。
腕時計を確認する。午後5時前。寮に帰って、瑛一さんの楽曲を。
『こんな当然の事をわざわざ説明させないでくれ』『瑛一の愛はエンジェル達のものだし』『俺の愛の全ては、エンジェルとHE★VENSに捧げている』
足元を見ていた。
当然の事、わかっている。疑いなど微塵もない。
……だからこそ。
『名前?』
ハッと振り向くと、驚いた顔をした瑛一さんの姿があった。
『会えると思わなかったので驚いた。ここで仕事があったのか?』
『い、いえ、ナギさんに用事があって……』
瑛一さんは『成る程』と呟く。
私は何となく視線を外して俯いた。
『今朝はすまなかったな』
顔を上げると、瑛一さんが考えるように顎に指を当てている。
『きつい言い方をしてしまっただろう。ずっと気になっていた』
目を見開く。
『気が動転していたんだ。親父と話した後だったのもある』
瑛一さんは、力を抜くように小さく息を吐き出した。私は視線を外した。
『いえ、そんな……お忙しいのに、私も妙な事聞いて』
『いや、気になるのも当然だろう。HE★VENSの今後に関わるかもしれない。対策は打ったが、完全に払拭出来るものでもない』
瑛一さんが顔を歪める。
『俺のせいでHE★VENSの名に傷が付くような事があれば……』
『……大丈夫です』
そんな事は、あるはずがないのだ。
『誰も信じてませんよ。貴方がどういう人なのか、エンジェルもHE★VENSの皆さんも、ちゃんと分かってる……』
疑いようもないくらい、真っ直ぐで純な愛をHE★VENSに、エンジェルに、この人は与えるから。
『…………そうか、そうだといい』
顔を上げた瑛一さんはポツリとそう呟く。
『いや、お前が言うなら』
そう呟いて、目が合う。
『そうなのかもしれない。いや、そうだ。俺がエンジェル達を信じなくてどうする』
語気を強めて瑛一さんが言う。
笑みを乗せて私を見る。
『お前の言う通りだ。お前はいつも、俺に欲しい言葉をくれるな。感謝している』
真っ直ぐな視線から目を逸らした。私は自分の指先を見つめた。
真っ直ぐで純な愛を与えてくれる。それは私に対しても然り。
だからこそ、真っ直ぐで純な愛を返さなければいけないのだ。鳳瑛一へ向ける愛が、こんなに邪で軽薄な愛ではいけない。
今朝、その写真を見た瞬間。胸の内で湧き出て心を支配した。その激情。
五線譜の上で音符は絡まり、耳障りなハーモニーしか生み出さない。
シャーペンを放り出しては、奈落で夢を見た。

『あれ〜全然飲んでないじゃーん。何か頼もうか?』
肩を揺らして隣を見る。ディレクターが私のグラスを見ていた。
『あっ、いえ、お構いなく』
『そう言わずにさ』
『ちょっと〜無理矢理飲ませちゃパワハラですよ〜』
隣から女優の綺麗な声がした。
今度のドラマを前に、親睦を目的とした飲み会だった。
これから共に仕事をする相手に、誘われて行かないのも心証が悪い。行っても打ち解けられる訳がなく、結局変わらないだろうが、今回は瑛一さんも居る。瑛一さんの株まで下げるわけにはいかず、渋々参加したのだった。
『パワハラって、彼女の方が立場上じゃない? なんたってあのHE★VENSの作曲家! ぶっちゃけ俺より稼いでるでしょ』
『もう大人気だもんねえ。こんな若い子だと思わなかった〜』
『い、いえ、そんな……全部HE★VENSの皆さんのお陰で……』
指先を見ながら話す。
『またまた謙遜しちゃって〜本当は私天才!ぐらい思ってるんじゃないの〜?』
『え……えっと……』
なんて返せばいいのか分からず口ごもる。
『あまりうちの作曲家を虐めないでくれるか?』
顔を上げると、少し離れた席から瑛一さんが笑ってこちらを見ていた。
『いじめって、人聞き悪いからやめてくれよ〜』
『ていうか、瑛一くん過保護すぎじゃない?』
『悪いか? メンバーが可愛くて仕方がないんだ』
瑛一さんは目を細めて笑む。瑛一さんの隣に座る監督が、声を立てて笑った。
『ははは、父親みたいだな』
『父親か……それも悪くないですね』
顎に手を当て呟く瑛一さんに、『提案じゃないよ!』と監督が突っ込んだ。

『ここに居たのか』
ガラガラと戸が開いて、私は振り向く。
『中々戻ってこないから心配したぞ』
瑛一さんが居酒屋の暖簾をくぐり顔を出した。
『あっ、すみません……』
『具合でも悪いのか?』
『いえ、そういう訳では……』
瑛一さんは戸を閉めると、私の隣に並んだ。
『居心地が悪いのか。無理して来なくてもいいんだぞ。フォローぐらい俺が入れておいてやる』
『……そういうわけにも』
指先を見つめて答えた。瑛一さんは暫く私を見て、それから夜空へ顔を上げる。息が微かに白く形作った。
『……あの、お構いなく……ちゃんと戻りますから』
瑛一さんは私を見ると、軽く笑う。
『そう邪険にしないでくれ』
『そういうつもりじゃ……!』
瑛一さんは『わかっているさ』と笑った。私は口を閉じて視線を戻す。
『どうだ? 曲のアイディアになるような事はあったか? ディレクター達と話をしていただろう』
『いや……あまりそういう話は……』
曲、瑛一さんの曲。五線譜は止まったまま先がないのに。
『そうか。まあお前は周囲からヒントを得るようなタイプじゃないからな。自分自身と向き合う方がお前らしい。心の奥底に眠ったパトスさえも引き出して、お前にしか書けない曲を作ってくれ。期待しているぞ』
胸の内で湧き出て心を支配した、その。
『…………』
『どうした?』
見つめた指先を強く握りしめた。
一度濁った心を、どうすれば白く戻せる。鳳瑛一がエンジェルに捧げる、純粋無垢な愛を乗せる歌が、軽々しい音色では許されないのに。
こんな低俗な、愛は。
『……何でもありません、大丈夫です』
『大丈夫という顔か。どうしたんだ名前』
覗き込んだのか、すぐそこに美麗な顔があった。
眼鏡の奥の、長い睫毛に縁取られる瞳が、私を真っ直ぐに見ている。
鳳瑛一はエンジェルの物だ。私だけをその瞳に映すことなど未来永劫あり得はしない。
ああ。罪業意識で胸が痛んでいるわけではないのか。だとすれば、いよいよ救いようがない。
私は視線を切るようにこうべを下げた。
そのまま空気が止まっていた。暫くして、瑛一さんが姿勢を戻したのか、衣服の微かな音がした。
『……お前が言いたくないならば、無理には聞かない』
隣から静かな声がする。
『だが、言いたい事があるなら、歌で伝えるのがお前じゃないのか』
いつかの言葉のように、それは心にコンと響く。見開いた目は、ぼけた景色のピントを合わせ。
『だからこそお前の歌は、あれほど心を揺さぶる。全てを、全身全霊の激情を余す事なく音にして乗せる。それがお前の歌だろう』
頭を上げれば、その人の姿と共に、夜空と街の明かりが煌めいて見えた。
瑛一さんは笑う。
『安心しろ。お前の思いは全て俺が完璧に歌い上げて、世界中に届けてやるさ』
不敵な笑みが、視線と共に向けられた。
私はその輝く瞳に目を細めて、自分の胸にゆっくりと手を当てた。
ああ、全身に駆け巡るこの音。
『……瑛一さん、』
『どうした?』
『曲を……最初から作り直してもいいですか』
瑛一さんは少し目を見開く。
『作り直す? 締め切りまで10日もないぞ』
『わかっています、でも』
『分かった』
二つ返事で了承が返ってくる。
『お前が言うのなら、断る理由はないな。今より良い曲が出来る確信があるんだろう? ならば俺も、それを是非聴きたくなった』
瑛一さんは不敵な笑みを浮かべてみせる。
『歌詞は半日あれば仕上げてみせる。時間は気にせず目一杯使え』
言い切るその声に迷いはない。当然のように、信じ切ってくれる。
この人が無謀とも言える程の信頼を与えてくれるなら、何だって出来る気がする。あの日の天国のような景色を思い出せば、何処へだって行ける気がする。
けれどもっと、と。
もっと欲しい。あれを、これを、その次はそれだ。渇望は留まることがない。
それがエネルギーだとしたら? この傲慢な欲望も音になるのだとしたら。
『……ありがとうございます。あの、私…………帰ります』
言って顔を上げると、瑛一さんは笑って『ああ』と頷いた。
ドクドクと打ち続ける鼓動のと、駆けた靴裏から伝わる振動が合わさる。
そうだ。何にせよ私には、歌しかないのだから。この心のありのままを。何を迷うことがある。
頭の中に、心臓に、全身に鳴る音色を、ただ瑛一さんに捧げたい。



車は、海沿いを軽快に走っていた。
運転席側が海だったのでそちらに顔を向けていれば、パチッと目が合う。パッと逸らす。
瑛一さんは何も言わずに、喉の奥で微かに笑う。私は助手席の窓から景色を見ながら、その笑い声を聞いた。
「……ま……窓を開けてもいいですか?」
「ああ。好きにしろ」
瑛一さんはまだ微かに笑いながら返事をした。私は助手席のウィンドウを下げる。
生暖かい風が車内に入り込み、前髪をなびかせる。潮の香りが鼻の奥につんとした。懐かしい匂いだ。
「いい所だな」
瑛一さんが呟く。運転席の窓も開いていて、その髪を風が柔らかくさらっている。
「そう……ですか」
「ああ。海が近いのがいい。俺の実家の近くには海など無かったから、新鮮だ」
瑛一さんが柔らかく目を細める。瑛一さんにそう言われると、懐かしい海がなんだかキラキラと煌めいて見えた。
何年振りかに訪れた実家は、出た時と殆ど何も変わっていなかった。ただ庭に花の植わったプランターが数個並べられているのは新鮮だった。
「緊張するな……」
玄関ポーチの段差に足を掛けかけたところで、隣からそんな声がした。
「瑛一さんも緊張するんですか……?」
私は思わず言ってしまった。
瑛一さんは息を吐きながら、軽く笑った。
「お前は俺を何だと思っているんだ。俺だって緊張するさ。人間だからな」
私は「そうですか……」と返しながら、この数年間を振り返った。デビューライブに始まり、緊張しているところなど見た事が。
「まあいい。今ので少しほぐれた」
瑛一さんはそう言うと、段差を上がり、玄関扉の前に立った。インターホンを鳴らす。
ピーンポーン、と間の抜けた音が響いた。
数秒してガチャリと扉が開いた。
「初めまして、鳳瑛一です。突然訪ねてしまい、申し訳ありません」
瑛一さんがにこやかな笑みを浮かべて挨拶をした。
出てきた母が、瑛一さんを見上げたまま暫く固まっていた。
それが解けると、母は何故か家の中を一度振り向く。
「あ、ええ、娘に聞いております。どうぞ」
母は首を傾げ、瞬きを繰り返しながらも、玄関ドアを大きく開いた。
玄関から家に上がると、廊下が続く。
瑛一さんと並んで母の後ろを歩きながら、隣を見上げて妙な感覚を抱いた。自分の家に瑛一さんが居るなんて。ありふれたフローリングの狭い廊下が、どうにも似合わない気がする。
母が扉の一つに手を掛ける。
リビングの中では、父がソファに座ってテレビを見ていた。記憶にある後ろ姿より、何となく背筋が伸びて見えた。
「アナタ、名前が来ました」
父が振り向いて、立ち上がりかけたところでピタリと固まる。
「初めまして、鳳瑛一といいます」
瑛一さんが言うと、父は口を開けてテレビを振り返った。
『所属先のレイジング事務所からの声明には、鳳瑛一さん本人の直筆でのコメントが綴られ……』
テレビにはワイドショーが映っていた。アナウンサーが読み上げ、大きなパネルに沿って経緯を辿っていく。そういう事か。
隣を見上げると、その横顔は笑みを浮かべていた。
「お茶で良ろしかったですか?」
「ええ、有難う御座います」
母に笑ってそう答えた後、瑛一さんの視線は私に向いた。
数秒見つめた後に軽く笑みを見せて、再び前に顔を戻した。
テレビの電源は消え、真っ暗な画面に落ち着いている。
テーブルの上には茶菓子が用意された。そのテーブルを囲むソファに座った。
テレビと向かい合った二人がけのソファに、瑛一さんと私が座り、左右に一つずつ置かれた1人掛けソファにそれぞれ父と母が腰掛けた。
「どうぞ召し上がってください」
母が茶菓子を指して声を掛ける。
「では、御言葉に甘えて」
瑛一さんは軽く会釈をして見せて、湯呑み茶碗に手を添えた。右手で湯呑みを持ち左手を底へ添えて、静かに口をつける。綺麗な飲み方をする、と思った。
私も湯呑みを持ち上げる。隣では湯呑みを置く音がする。
忌憚きたんないもの言いで恐縮ですが、娘さんを俺にください」
ブレた手元が水面を揺らして、お茶が跳ねた。
「熱っ」
思わず声を上げる。
「何してるのよアナタは……」
母が呆れた顔をして、布巾を取りに立ち上がった。
私は取り敢えず湯呑みを茶托へ戻す。
「大丈夫か?」
瑛一さんの顔が、目と鼻の先にあった。
「うわっ、あのっ……」
飛び退いたら、その拍子にカタンッと湯呑みがひっくり返る。
「ああっ、すみませんっ……」
テーブルの上から転がり落ちかけた湯呑みを何とか止める。しかし中身はテーブルの上に溢れ、床へ垂れている。
「か、母さん、雑巾も……」
キッチンに向けて呼びかけようとすれば、父がため息を吐いた。
「いいから少し落ち着きなさい」
私は声を詰まらせ、立ち上がった姿勢をソファに下ろす。
ああ、瑛一さんの前でこんな失態……。
「騒がしくてすまないね。……本当にこんな娘でいいのかい」
父が言うと、瑛一さんは目を見開く。それから、力を抜いたように笑った。
「ええ。名前でないと駄目なんです」

部屋に入ると、途端に瑛一さんが溜息を吐いた。
「す、すみません、可笑しな感じに……」
私は思わず口を開く。結局締まりのない感じに終わってしまった。
「いや、寧ろお前には感謝している。本当に緊張していたからな……助かった」
瑛一さんは深く息を吐き出すと、満身創痍という風にカーペットに腰を下ろした。
此処は二階にある私の部屋だ。いくつかの家具や物は寮に持っていったので所々空いているが、出て行った時から何も変わらぬ姿を見せていた。
「酷く緊張した。上役との会食の比じゃないぞ……」
瑛一さんは顎に手を当てながらブツブツと呟いた。
「流石にそれは……」
「いや、本当だ。お前が傍に居なければ耐えられなかった」
瑛一さんは言い切って、また息を吐き出した。私は自分の胸に触れる。鼓動が一度トクンと音を立てた。弱音、だろうか。この人からこんな色の言葉は、聞き慣れない。
「……でも、そんなに緊張される事も無いんじゃ……」
「いや、そうもいかないだろう。実際、婚姻を許してもらえる確率は高くはない。寧ろ低いと言ってもよかった」
私は瑛一さんを見つめる。
「そんな事は……瑛一さん程の人なんて、他に……」
「例えば、どれだけ一途だと言っても、今となってはとても信じてもらえないだろうからな」
瑛一さんは淡々と呟いた。
私は動きを止めて、瑛一さんを見ていた。
そんな事あるはずがないだろう。この人がどれ程強くて直向きな愛を持つのか、歌を、その姿を、アイドルとしての姿を見ていればわかる。
だから父だって一つ返事で承諾したのかもしれない。誰もが知っているんだ。
それなのに何故貴方が。
私が口を開く前に、瑛一さんが口を開いた。
「名前、」
瑛一さんがこちらを見て笑む。
「……何、ですか」
「こっちに来てくれ」
瑛一さんが言うので、私は足を進める。カーペットに座る瑛一さんの正面に腰を下ろした。
「もっと近くへ来い」
同時に腕を掴まれて、グッと引かれる。考えたよりずっと強い力で、私の体は瑛一さんに向かってぐらついた。
その体を瑛一さんが抱きとめる。
肌の匂いが鼻先で香って、体温が。
バッと離れる。肩を抑えて立て膝をつけば、いつも高い所にある瑛一さんの顔を見下ろしていた。
「す、すみませんあの……」
両手を瑛一さんの肩から離す。距離を取ろうとすれば、腰と背中に手のひらが添えられたままである事に気がつく。
その両手に微力がこもった。
「え、瑛一さん……」
「ん?」
瑛一さんは笑みを浮かべながら私を見上げている。
経験したことのない下からの視線に、思考回路が絡まり始める。
この人の上目遣いなんて、普段は勿論、テレビでも雑誌でも見た覚えがない。
「なあ名前」
その視線のまま、瑛一さんは甘やかな声を出す。
私は思わず飛び退いた。後ろに尻餅をつく。心臓が細かく速くドクドク波打ち続ける。
「はは、少しくらいいいじゃないか。俺も頑張ったと思わないか」
後ろ手をついた私の体に、瑛一さんが身を寄せて、顔を近づけた。
「キスだけさせてくれ。お前に触れたくて堪らない」
口の中で呟くように、ねだるような声色。それが耳に届くと訳が分からなくなって、私はただ瑛一さんを瞳に見ていた。
瑛一さんが目を細める。微かな音と共に、柔らかく触れた。
唇が離れると、吐息すらも感じる距離。
瑛一さんの右手が動いた。ゆっくり私の肩に触れた。
それを黒目を動かし見ていると、不意にその手に力が込められる。
ドサッと、背中がカーペットに着いた。
瑛一さんはまた顔を近づける。
「……ま……待っ!」
慌てて声を上げると、瑛一さんは動きを止めた。私の表情をしげしげと眺める。
「……駄目か」
口を尖らせるように呟く。
「だ、だって……」
その表情にドギマギしながら、何とか声を出す。
顔が近い。私を覆う影が、瑛一さんの影なのだと思うと、その密やかな空間に、鼓動が狂いそうだ。
「げ……限界です私……心臓が、壊れる……」
視線を外して口にすれば、暫く沈黙があった。
衣服の音がした。
「なかなか可愛い事を言ってくれるな。これで我慢しなければならないとは……かなり辛苦だ」
瑛一さんの指が、私の髪を一房弄んだ。それだけで離れる。
体を離した瑛一さんは、私の手を取ると引き起こし、自分も姿勢を戻した。
「まあいい。お前と正式に婚姻出来る幸せを、今は噛みしめよう」
瑛一さんはひとつ笑みを向けると、カーペットの上の私の左手をそっと撫でた。
肩を跳ねさせ引っ込める。瑛一さんが予想通りだと言いたげに目を細め笑った。
「お……お茶、淹れてきます……」
私はドクドク波打つ熱を落ち着ける為に、立ち上がった。

コーヒーを盆に乗せて自室へ戻ると、瑛一さんは本棚の前に立っていた。
私はテーブルにコーヒーを置きながら、声をかける。
「瑛一さん、昼食は食べていかれます……か」
私は動きを止めた。
立ち上がり、慌てて傍に行く。
瑛一さんがその綺麗な指で、棚から何かを引き出していた。
「なっ、何見て……」
可笑しなものでもあったらどうする。
瑛一さんは一度振り向いた。だがまたすぐに、手元に視線を戻した。
「親父のCDがある」
呟いた横顔は、ジッとケースを見つめていた。
私は瑛一さんの手元を見た。それは紛れもなく、鳳社長のシングルCDだった。
瑛一さんの手が、CDケースを棚の隙間に戻す。
「親父の歌を聴いていたのか?」
そして、その隣のCDも引き出して見つめる。声色には、何か複雑な感情が混ざっているように聴こえた。
軽蔑、宿怨しゅくえん、失望、索漠さくばく
私は瑛一さんの手が持つ、CDケースを見つめた。
レイジング鳳のシングル。
「……そうだ、私……鳳社長の曲を聴いて、今の事務所に入った……」
CDはアルバム1枚だけを寮に持っていき、他は全てここに置いていった。
長いこと忘れていた。この身の初速の原動力。
瑛一さんは暫くの間、自分の手の中のCDを見ていた。CDには、『LOVE IS DEAD』と書かれている。
「……つまり、俺とお前が出逢ったのは、親父のお陰ということか。実に良くない気分だ。知らなければ良かった」
瑛一さんは手元を見ながらそう言った。
「……すみません」
私は呟きながら、瑛一さんの姿を見ていた。
この人が、ここまで嫌悪を明らかにする相手は、何年も共にいてたった一人しか見たことがない。
瑛一さんの視線がこちらに向いた。
複雑な表情をして、それからCDに視線を戻す。
「……俺も聴いていた」
暫くして瑛一さんはそう言った。
「幼い頃の話だ」
CDを棚の隙間に戻す。瑛一さんは戻した後も、背表紙の並びを眺めていた。
「あの頃の俺にとって、憧れの存在だった。誰のどの曲よりも聴いたさ。流石にもう、覚えているか怪しいがな」
瑛一さんは目を細くしてそう呟く。どこか遠くを懐かしむような瞳だった。
「だがそうか。そういう事か」
不意に瑛一さんは呟いた。
「お前の譜面を初めて見た時に、どこか懐かしい気持ちがしたような気がした。アレの正体はこれだったわけか」
瑛一さんは背表紙を親指でグッと押して、弾くように離した。
「……初めて見た時……」
「ああ。そうだな、思えば初めから親父が絡んでいたじゃないか」
瑛一さんは自嘲するような口元と、シワを寄せた眉間で笑った。
「お前の曲を初めて見たのは、HE★VENSのデビューが決まった時期だった」
瑛一さんはCDから目を離して、私を捉えた。昼の白い明かりが、後ろの窓の外には溢れている。
「親父は何としてもHE★VENSを成功させたかった。シャイニング早乙女に勝利する為の道具として、作り上げたグループだからな。親父の書斎の机上には、事務所中の作曲家の資料が並べられていた。お前の譜面を見たのはそこでだ」
瑛一さんは本棚に視線を向けた。
「たまたま手に取った楽譜だったが、あの魂を揺さぶるような旋律はどんな歌にも引けを取らないと思った。俺の目指すアイドルの姿がそこにあったんだ」
瑛一さんは笑みを浮かべて棚一面のCDを眺めた。
「まあ親父は、ウチの事務所にはこんな作曲家しかいないのかと激昂して、全員クビにすると言った挙句、海外のコンポーザーに任せるつもりだったようだが」
初めて知る事実に、私は顔をひきつらせた。そんな事が裏で起きていたなんて、一歩間違えばクビだった。
瑛一さんは私に向けて一度笑みを浮かべてから、再び棚に視線を戻した。
私もその棚を辿る。懐かしいタイトルが沢山並んでいる。この人とここに来なければ、もしかすると一生思い出す事もなかったのかもしれない。何となく自分はそういう人間なのかもしれない。
「……レイジング鳳の歌は、それがどんな思いであろうと、圧倒的な力がある事は変わらないんです」
初めて受けた衝撃は、耳ではなく心臓を揺さぶった気がする。
「でもその圧倒的な力に……心が……愛があれば無敵だ。何処までも行ける……魂に響く」
それは、鳳瑛一の歌だ。
心臓よりも深く、魂を揺さぶる。
隣に視線を向ける。瑛一さんもこちらを見ていた。
「……そうだな」
瑛一さんは視線を下げて呟いた。だが、ふとそれを上げる。
「HE★VENSとお前が見せる景色は、さぞ輝いている事だろうな。親父ももう道具だなどと言えないだろう」
瑛一さんは優しく目を細めて笑んだ。
カタ……と隙間でCDが傾いて、小さな音を立てた。

昼食を実家で食して、そのまま東京へ戻ることにした。
折角だから泊まっていきなさいと母に勧められたが、明日には仕事が入っているので断った。
瑛一さんがハンドルを握る車が、広い道路を走り抜けていく。
「このまま帰ってしまうのも惜しいな。どこかへ寄っていかないか」
瑛一さんが、開けた窓からの風に髪をなびかせている。
「何処か行きたい所は無いか? どこへでも連れて行ってやるぞ」
横顔が機嫌良さげに笑う。
私はその横顔を眺める。そして徐に口にした。
「瑛一さんの、ご家族には……」
瑛一さんは私に視線向けた。だがまたすぐに戻す。
「親父に報告に行くのか? 今更そんな必要はないだろう。言いそうな事なら大体予想がつく」
瑛一さんは前を向いたままそう言い捨てた。
私は口を閉じて、指先に視線を落とした。薬指に、ダイヤモンドが煌めいた。
「お前に嫌な思いはさせたくない」
瑛一さんは小さく呟いて、ただ道の先を見ている。
私は指輪に右手で触れた。
「……嫌な思い?」
思い切って繰り返した。瑛一さんが私を見て、視線がバチと交わる。
何処まで踏み込んでいいのかわからないが、少しは許されないだろうか。瑛一さんを見据えながら、今朝までの自分ならきっと黙り込んだだろうと思った。
珍しく瑛一さんが先に逸らした。それから考えるように眉間に皺を寄せた後、肩の力を抜いた。
「……そうだな。お前を理由にするのは卑怯というものだ。俺が嫌な思いをしたくないんだろう」
ダイヤモンドが、午後の光を受けてキラキラ煌めいている。
「家族というものが、あの男に分かる筈がない。だが俺は紛れもなくあの男の息子なわけだ」
目を細めてどこかを見据えるその横顔は、なんだか少しだけ幼く見えた。
「名前、俺は……」
その頬にキスをした。
ヴーーーッとクラクションの大きな音が鳴り響く。
「運転中だぞ!?」
慌ててハンドルを握り直し、大きく見開いた目で瑛一さんが叫んだ。
私は自分のした事を、数秒遅れで認識する。途端に体温が上がる。
瑛一さんが私を見て顔を歪め、視線を逸らした。
「お前が照れるな……」
瑛一さんの赤い頬など初めて見たが、そんな事を思う余裕もない。私はすみません、と蚊の鳴くような声で呟いた。窓の外へ顔を背ける。
暫く沈黙が続いたので、私は何とか話題を探そうとする。が、オーバーヒートする思考回路はグルグル同じ所ばかり回る。
随分経ってから、隣で軽く息を吐く音が聞こえた。
「そうだな、家族か」
瑛一さんは前方を見たまま呟いた。
そして私に視線を向ける。
「お前に会わせたいやつが一人いる。会ってくれるか?」


「ごめん遅くなっちゃった……」
引き戸を開いて顔を出したその人は、一度動きを止める。
パチパチと瞬きをした。
「あれ……会わせたい人って苗字さん?」
「ああ。オフなのに呼び出して悪かったな、瑛二」
「ううん。全然いいんだけど、俺も暇してたし……」
瑛二さんが鞄を置いて、座布団に腰を下ろす。
居酒屋の個室の席だ。瑛一さんの向かいに瑛二さんが座り、私は瑛一さんの隣に座っていた。
夕食時の居酒屋は、賑やかな喧騒が戸越しに微かに聞こえていた。
成る程、会わせたい人って。
「何か頼むか瑛二。いくつか先に頼んでおいたが」
「わあ、俺の好きなものばっかり。さすが兄さんだなあ」
瑛二さんは机の上に並んだ品を見て声を上げた。
「そうか」と言う瑛一さんの横顔は、どこか嬉しそうに見えた。
瑛二さんが飲み物だけ注文して、また戸が閉まる。
「それで、話ってなんだった?」
瑛二さんが料理を箸で口にしながら訊いた。
「ああ、お前には話しておきたい事がある」
瑛一さんの言葉に、瑛二さんが「うん」と相槌を打つ。
「名前と結婚しようと思う」
「うん…………ってええっ!?」
瑛二さんは声を上げて、目を大きく見開いた。箸で掴んでいたものが、ぽとっとこぼれ落ちる。
瑛二さんは暫く固まって、瑛一さんを見ていた。
それから私を見る。
私は視線を逸らして、からまた戻して、頷いたか否か微妙なかぶりを返した。
瑛二さんが一層目を見開く。
「けっ、結婚……? 兄さんと……苗字さんが…………?」
「ああ。明日正式に届け出をしようと思っている。名前の実家には先程挨拶に行ってきた」
瑛二さんは口をあんぐり開けて瑛一さんを見ている。
「二人って、付き合ってたんだっけ?」
「いや、交際期間は設けてないな。だが問題ないだろう。もう何年もの付き合いだ」
瑛二さんはまた少し固まって、それから落とした料理に気がついたのか、慌てて拾った。
「そ、そっか…………兄さんって、苗字さんが好きだったんだ……」
落とした料理を小皿の脇によけながら、瑛二さんが独り言のように呟く。
「ああそうだ。ずっと好きだった」
瑛一さんが真面目な顔で答えた。
顔が火照るのが分かる。瑛二さんまで赤面していた。
「どうかしたか二人とも」
「う、ううん……なんかゴメン苗字さん……」
瑛二さんは口元を押さえ、視線を逸らした。
私は顔を上げられなかった。この人の真っ直ぐな言い草には、本当に。
「でもそっか……そうなんだ」
瑛二さんは小皿を見ながら、ポツリと呟いた。下を見たまま、口を開く。
「じゃあ兄さんがアイドルを辞めるのは、苗字さんと結婚するから……」
「それは違う」
瑛一さんがすぐに答える。
「因果関係が逆だ。アイドルを引退するから名前と結婚する。引退の理由は、膝の故障以外に無い。昨日そう話しただろう」
「……そうだっけ」
瑛二さんは下を向いたまま虚ろに呟く。それを見て瑛一さんが語気を強めた。
「瑛二、しっかりしてくれ」
それから瑛一さんは、少し躊躇うようなそぶりを見せた。だが、視線を上げると口を開いた。
「……本来なら、明日全員の前で話すつもりだったが……お前には、HE★VENSのリーダーを引き継いでもらおうと考えているんだ」
瑛一さんの言葉に、瑛二さんが顔を上げた。
「何言ってるの兄さん……! 俺に兄さんの代わりなんて無理だよ!」
「俺の代わりじゃないだろう」
瑛一さんの口調は強かった。眉を歪めて瑛二さんを見ている。
「……瑛二、しっかりしてくれ。お前は俺の代わりなんかじゃない。俺と比べる事もない。お前はお前のままでいいんだ。お前にしかなり得ないHE★VENSのリーダーになればいい」
瑛一さんは瑛二さんを真っ直ぐに見つめ、一字一句に想いを託すように話した。
「…………」
瑛二さんは表情を歪めてその顔を見ていたが、不意に俯く。
「……HE★VENSのリーダーは兄さんだよ……誰もがそう思ってる」
震えた声が床に落ちた。
それからバッと瑛二さんは顔を上げる。
「苗字さん、」
私に強い視線を向ける。
「苗字さんはいいの? ほんとに兄さんがこのままアイドルをやめても」
眉間に皺を寄せて真っ直ぐに見つめる視線に、私は暫く見つめ返しているだけが目一杯だった。
誰もがそう思っている。メンバーだって、エンジェルだって、マスコミだって、誰もが。この世の誰もが。
鳳瑛一が居なければHE★VENSじゃない。
「……私は、」
俯いた視線を上げた。真っ直ぐ瑛二さんを見据えた。
「瑛一さんがそう決断したなら……それを尊重します」
簡単な決断ではないのが、痛い程に分かる。
誰よりも音楽を愛し、HE★VENSを愛し、エンジェルを愛し、アイドルという存在に誇りを持っていた人だ。
その全てを手放すなど、容易な決断であるはずがない。ならば。
瑛二さんの表情が歪み、視線が落ちる。
瑛一さんは暫くそれを眺めて、やがて口を開く。
「瑛二、」
「かっこ悪い」
俯いた瑛二さんが言葉をこぼす。肩が震えている。
「シオンも……1日閉じ篭ってたのにさっき出てきて……『瑛一がそう言うなら』って……。俺だけこんな……駄々こねて……兄さんの決断を受け入れられなくて……」
瑛二さんの声は震えて、掠れて、途切れ途切れに言葉を零した。
「今だって、もしかしたらやっぱり辞めないって……言ってくれるかもしれないって期待して、俺……ここに……」
鼻を啜る音が響く。強い後ろめたさに、私は思わず視線を逸らした。
逸らした先の指には、リング。
それに導かれるように、ゆっくり隣を見上げる。
横顔は、目を逸らすことなく瑛二さんの姿を見ていた。真っ直ぐに、見つめていた。
きっとこの人はまた。戒めとして、贖罪として、その目に映し続ける義務があるんだと。
「瑛一さ……」
瑛一さんは制止するように、私に笑みを向けた。それから瑛二さんに顔を向ける。
その横顔は、私が今日一日見てきた横顔ではなかった。それよりずっと長く見慣れた、HE★VENS鳳瑛一の横顔だった。
「瑛二、こんな事になって、本当に申し訳ないと思っている。HE★VENSのリーダーとして、俺は誰よりも完璧でいなければならなかったのにな」
瑛二さんが肩を揺らして、眉間を震わせる。
「そういうことじゃないよ……。……いっそ、HE★VENSも解散した方がまだ……」
「それは駄目だ」
瑛一さんがすぐに答えた。その声には、初めて焦ったような色が乗った。
「それだけはあってはならない。HE★VENSは永遠だ」
「そもそも兄さんがいなきゃHE★VENSじゃないよ。俺この先どうやってやって行けばいいのか、何もわからなくなった。兄さんがいなきゃ……何にもわからないよ……」
バラバラな鋭才が目指す先は、鳳瑛一が指す指揮杖しきじょうの先。
瑛一さんが珍しく黙った。
暫く沈黙が場を支配した。
不意に、口を開く微かな音が聞こえる。
「……HE★VENSは、俺の夢そのものだ」
静かな声色だった。
いつかの言葉がフラッシュバックする。
「HE★VENSの見せる景色を、その先の景色を、見たい。宇宙も空をも天国も、それすらも超えた景色を」
瑛二さんが目を見開く。
それから顔を歪めて、眉間に強く力を寄せた。声を震わせる。
「ズルイよ兄さん……そんな言い方……」
声が上ずって、瑛二さんは手の甲を目元に持っていった。
「すまないな、瑛二。だがこれだけは譲れないんだ」
瑛一さんの横顔を見る私の虹彩には、いつかの輝く景色がチカチカと反芻した。やがてそれは、段々と光を弱め消えていく。
「わがままを言っているのはわかっているが、お前達を信じているからこそなんだ。どうか叶えてくれないか」
瑛一さんはそう言った。優しく微笑んでそう言った。
瑛二さんは暫く啜り泣いてた。

「瑛二、お前なにで来たんだ。送っていくぞ。寮で良かったな?」
店を出ると、瑛一さんが車のキーを取り出し言った。
「いいよ、行きもタクシーで来たから。ていうか、俺あんまり邪魔しちゃ悪いかなって」
瑛二さんが笑って言うと、瑛一さんは顔色一つ変えずに振り向いた。
「いや、俺はこれからも毎日名前と会えるからな。そんなに気を遣わなくてもいい」
私は肩を跳ねさせ、瑛二さんは目を見開いてから苦笑いになった。
前を歩いていく瑛一さんの後ろで、瑛二さんが私に耳打ちする。
「兄さん昔から、ああいう事さらっと言っちゃうんだ」
顔を離して、眉を下げ笑う瑛二さんに、「身に染みてます……」と返した。
瑛一さんが地下駐車場の入り口へ入っていく。
「苗字さん」
呼び止められて足を止める。呼び止めた瑛二さんも足を止めていた。
「あの……今日はごめん。俺すごいかっこ悪かったよね……」
瑛二さんが溜息をつきながら言う。
「いや、そんなこと……」
瑛二さんが吐き出した胸の内は、私の胸の内とそう違いなかった。
瑛二さんがふと柔らかな笑みを浮かべる。
「あのさ、俺あんなに食い下がっちゃったけど、二人の結婚は凄く嬉しいんだ」
私は瑛二さんを見た。
「安心した。兄さんからアイドルを取ったら、何が残るんだろうって、思ってたから」
瑛二さんはそう言って、それからはっと慌てて口を開く。
「あっ、兄さんが何も持ってないってわけじゃなくてね! 兄さんは何でも出来ちゃうんだけど、何て言うか……!」
「瑛二、名前?」
向こうから瑛一さんの声がした。はい、と返事をする。
「その、だから……兄さんをよろしく」
瑛二さんを振り向くと、優しく笑った顔があった。瑛一さんに似ている、と思った。瑛一さんが時たま見せる優しい笑みに、よく。
「何をしているんだ二人とも」
瑛一さんが戻ってきて、私達に声をかける。
「兄さん、俺やっぱりタクシーで帰るよ。お幸せに!」
瑛二さんはそう言うと、踵を返して歩いていった。
「おい瑛二っ……いいのか?」
瑛一さんが首を傾げて、その背中を見送る。
背中が人混みに紛れると、瑛一さんは私を見下ろした。
「何を話していたんだ」
私は眼鏡の奥の、美麗な瞳を見つめた。
例え鳳瑛一からアイドルを取ったとして、鳳瑛一である事は変わらない。
「……いえ、何も」
私はそう呟いて、歩き出した。
瑛一さんも「そうか」と返して足を進める。
暫く無言で歩く。
「……お前と瑛二を疑うわけではないが、」
私は思わず目を見開いて、隣を見上げた。
不機嫌そうに目を細めた横顔があった。
「……いや、流石に大人気ないな。どうかしている」
瑛一さんはひとつ溜息をつくと、車のキーを操作した。気づけば瑛一さんの車の傍だった。
瑛一さんはドアを開け、さっさと車に乗り込んでしまう。
私は暫く呆然と突っ立った。ハッと我に帰り慌てて助手席のドアを開く。
乗り込んでシートベルトに手を伸ばす。差込口まで持っていったところで、手を止めた。
「……私達の結婚は凄く嬉しいって」
呟くと、ハンドルに手を置いていた瑛一さんが、バックミラー越しに私を見た。
「……それだけか?」
「……瑛一さんをよろしく、と……」
私が呟くと、瑛一さんからは暫く何も帰って来なかった。
視線を上げかけた時、シートベルトの挿入先を押さえていた手に、手が重なる。
カチッとその手はシートベルトを差し込ませる。音がしてエンジンがかかる。
アクセルが踏まれ、車が動き出した。
「一度自分の物になると、些細な事も許容出来なくなるな」
夜の街を走りながら瑛一さんは呟いた。
「全部が欲しいと思ってしまう」
前方を見たまま呟く横顔に、私はまた鼓動を乱して視線を逸らす羽目になった。
逸らした先の窓の景色は、すっかり日が落ちて見えづらい。代わりに、車内の様子が反射して映った。
横顔を見つめながら、私はいつかの曲を思い出す。
この身ははなから全て、瑛一さんの物だ。全てを差し出し捧げたいと思う。
きっとそれは、何があろうと変わらないだろう。



翌日、9月3日に婚姻届を役所に提出した。
美しい字で鳳瑛一の文字、私の名前、そして証人欄のひとつにはバランスの取れた綺麗な字で鳳瑛二と記されていた。
「お前はサントラのレコーディングだったな。もうすぐに出るか?」
家に帰ると、車のキーを玄関脇のホルダーに戻しながら瑛一さんが言った。
私は携帯で時間を確認する。
「ええ、もう少ししたら行きます。早めに着いておきたいですし……」
「そうか、あまりゆっくり出来ないな」
瑛一さんがスリッパに履き替えて、廊下を進んでいく。
廊下の突き当たり、扉を開けた先には、広々としたリビングが広がっていた。壁一面を使った大きな窓は、都会の景色を階下に映している。
ここは瑛一さんのマンションだ。
事務所の寮とは別に、自分で借りていた部屋らしい。あまり帰る事はなく、物置きとして使っているようなものだったが、婚姻を機に少し片付けたと言っていた。楽曲制作などに行き詰った時に、たまにここに篭っていた事もあったのだとも言った。
部屋はあといくつもあって、一人で住むには当然、二人で住むにしても広過ぎる部屋だと思った。
昨晩そう呟いたら、
『そうか? まあ子供が出来ても平気かもしれないな』
と言われて私は肩を跳ねさせた。
瑛一さんは『ハハ、冗談だ』と揶揄うように笑った。
鞄を肩に掛け、腕時計を着けて部屋を出る。
玄関で靴を履いていれば、瑛一さんも出てきてくれたのか足音が聞こえた。
「気を付けて行ってくるんだぞ。迷子にならないようにな」
「……流石に、子供扱いし過ぎでは……」
私は思わず呟いた。出会ったばかりの頃ならともかく、もういい大人だ。
「不満か?」
瑛一さんが茶目っ気を見せて笑う。
その楽しそうな笑みに、私は反論を留めた。靴に踵を入れる。
「じゃあ、行ってきます」
立ち上がって振り返る。自分の発した言葉に、なんだか慣れない感覚を持った。
瑛一さんは何も言わずに、笑みを見せた。
そして一歩近づいて、高い所にある身を屈める。
唇が近づいて、触れた。
チュ、と軽い音がして離れた。かと思えば、腰に手を回される。
「えっ、瑛一さんっ……」
「子供扱いが不満なんだろう?」
グ、と腰が引き寄せられて、至近距離にその整った顔が見える。
バッと、私は慌てて離れた。心臓が、おかしい。
「なんだ、もう終わりか」
「ち……遅刻します……」
私は顔を上げられぬまま呟いた。
「ハハ、そうだな」
瑛一さんは可笑しそうに喉の奥で笑い声を立てる。完全に揶揄からかわれている。
「…………い、行ってきます」
ドアノブに手を掛けて振り返る。
瑛一さんは笑みを向けた。
「ああ。頑張って来い」
その力強い笑みと言葉は、強く私の背中を押した。
はいと頷いてドアを開けかけ、一瞬動きを止めた。
振り返る。
「……瑛一さんも……頑張って下さい」
私の言葉に、瑛一さんは眉を歪めた笑みを見せた。
「ああ」
そうして頷いた顔は、あの鳳瑛一の顔だった気がした。
扉を閉めて外に出る。腕の時計を確認した。
私は今日1日かけて、レコーディングの立会いだ。
HE★VENSは、昼過ぎからメンバー全員で、今後についての話し合いを成すらしい。
私は人差し指の指輪をなぞった。
そうして顔を上げて、歩き出した。

映画のサウンドトラックの制作をメインで任された。楽曲は完成し、今日はいよいよそのレコーディングだった。
弦楽器中心のオーケストラ編成をレコーディングルームから眺めながら、流れる音に耳を傾ける。
「お疲れ、ドラムの音どう? もうちょいクラッシックに寄せる?」
一旦休憩を挟んだところで、エンジニアが私に声を掛ける。
「いえ、このまま行きたいです。音がブレるなら、TDの段階で調節して頂いて……」
「OK。まあロックのミックスが苗字ちゃんの真骨頂だもんね、了解了解」
「ありがとうございます」と返して、私は無意識に壁の時計を見た。
レコーディングは少し長引いたが、予定の範囲内で終了した。リテイクが続いて、深夜まで延びることもザラなので上手くいったと言える。
「お疲れ〜早く帰れて良かったー苗字ちゃん差し入れのお菓子持って帰えりなよー」
レコーディングディレクターの女性が声を掛ける。この人とは何度か仕事をしていて、いつもよくしてくれる。
「あ、ありがとうございます」
「うんうん。あ、関内さんお疲れ様〜」
ディレクターが通り過ぎていくプロデューサーに声を掛けた。プロデューサーは「お疲れ〜」と言って一度通り過ぎたが、ふと私と目が合うと戻ってきた。
「そうだ苗字君、瑛一君どうなってんの?」
私は動きを止める。
昨日瑛一さんが公開した文書には、引退の理由については何も言及していなかった。
『完璧で居たかった。HE★VENSのリーダーとして、鳳瑛一として』
波の音と共に聞いた声が蘇る。
「ズバッと聞きますね〜」
固まった私を見てか、ディレクターが間に入ってくれた。
「いやだって気になるでしょ。ビックリだもん。瑛一君が居なくなるって事はやっぱり、HE★VENSは解散したり……」
「HE★VENSは永遠です」
思わず声を上げた。二人だけでなく、部屋にいた何人かも振り向いた。
「……HE★VENSは解散しません」
視線を下げて呟いた。
『HE★VENSは俺にとって夢であり、紛れも無い現実だ』
あの日の言葉が綺麗に蘇っては、蝕まれるように消えて行くような気がした。急にそんな気がした。
世間にとって、鳳瑛一が居ないということの意味。
バン、と背中を叩かれる。
「そうそう! あんなに魅力的な子達ばっかりなんだから大丈夫! 雨降って地固まるってことでしょ!」
ディレクターが私の背中を叩きながら、明るい声を上げた。
「そうか? まあ確かにHE★VENSは仕事がこの先も色々決まってるし、解散しちゃうと俺も困るんだけどさ」
プロデューサーはそう言って、それから少し会話をしたのち帰って行った。
「大丈夫、なにかあったら私も手貸すからね」
ディレクターはそう言って笑いかけてくれた。
私は自分の指先に視線を落とした。
その指先には、指輪が見えた。


「ナギさん」
声を掛けると、自販機の側で壁にもたれていたナギさんが顔を上げた。手にはアイスココアの缶が握られている。
「やっぱり来た」
ナギさんは私を見るとそう言った。壁から背を離す。
レイジングエンターテイメント、事務所の廊下。レコーディングを終え、帰宅する前に寄ったのだった。
ナギさんが打ち合わせで事務所にいると知っていた。他のメンバーはテレビ局や遠出の仕事で、会える可能性があるのは彼だけだった。
「名前が来ると思って待っててあげたんだからね? 感謝してよ」
ナギさんがココアを口に運ぶ姿を見つめる。勿論ナギさんにアポイントメントは取っていない。何でもお見通しか。私は「ありがとうございます」と取り敢えず口にした。
「あの……会議は」
私は口を開く。ナギさんは缶を口から離した。
「HE★VENSはこれからも継続。瑛二に次のリーダーを頼みたいって。瑛二も了承してたよ」
「そうですか……」
私は無意識に息を吐きだした。ナギさんは続ける。
「瑛一の仕事は、スケージュールの空いてるメンバーが代打で引き継ぐ。あと名前に関係ある事は、HE★VENSの楽曲のリメイクじゃない? 瑛一のパートを誰かがカバーする事になるから、キーの調節と、場合によっては歌詞も変えた方がいいって」
ナギさんは缶の口を見つめながら話していた。
「まあ、それはライブが決まってからでいいと思うけど。過去の曲を歌うなんてそれぐらいだし、一昨日ツアーが終わったばっかだから、早くても半年後だよね」
ナギさんは言い終わると、缶に口をつけてココアをごくごくと飲んだ。
「……そうですか」
「よかったね」
不意にナギさんがそう言った。
「え?」と私は隣を見る。
壁に背を預けたナギさんの視線がこちらに向いた。
ナギさんは壁から背を離したと思えば、私に向かって手を伸ばす。
細い指が首元に触れた。かと思うと、それは華奢なチェーンを引っ掛けた。
服の中から引き出されたネックレスの先には、指輪が繋がっている。ダイヤモンドの指輪。
マリッジリングは左手の人差し指に、エンゲージリングはネックレスに通して身につけていた。
「瑛一から聞いたよ」
私は目を見開く。指輪がチェーンの先で揺れている。
「み……皆さんに言ったんですか……」
「うん。諦めなよ、瑛一そういう事は隠せない人なんだから」
ナギさんは呆れたように少し息を吐くと、チェーンから指を離す。
私は暫くナギさんを見て、指輪を服の中にしまった。
「ほーんと良かったね。名前、ずっと瑛一のこと好きだったでしょ」
ナギさんの横顔を唖然と見つめた。
「……私、ナギさんに言いましたか……?」
「言ってないけどわかるよ。名探偵ナギにはなーんでもお見と・お・し♪」
ナギさんは言いながら人差し指を立てて決めポーズをする。『名探偵ナギ』は先日第3シーズンまで放送された、ナギさん主演の推理物の人気ドラマである。第1シーズンでは中学生だったナギさんの、リアルに成長していく容姿も見所の一つだ。
今となっては少し高い所にあるナギさんの瞳を見つめた。
ナギさんもこちらを見て、その大きな瞳と目が合う。
「……みんな喜んでたよ。だから、罪悪感とか感じることないと思う」
私はナギさんを見た。ナギさんは暫く私を見つめてから、顔を正面に戻す。声色が戻る。
「瑛一と結婚出来るなんて、ほーんと奇跡みたいなことなんだからね? 神様が二人に与えてくれたギフトなんじゃない? 大事にしなきゃバチ当たるよ」
ナギさんは瞳を閉じて高々と言った。
「…………寂しいですか?」
瑛一さんが、私に全てを捧げると言った。あの鳳瑛一が。罪悪感、ではないが。
私達の知る鳳瑛一は、きっとそんな言葉は。
「だっ、誰が!? 別に瑛一がどっか遠くに行っちゃうわけじゃないし、名前とは今まで通り会えるし……」
「私?」
思わず声をこぼす。
ナギさんが顔を上げる。それから盛大に顔を歪めた。
「あーもう! 名前のそういうとこ、瑛一に似てる!」
顔を背けて言うナギさんの言葉に、私は「え?」と声を上げた。褒められているのだろうか。どうもそんな感じにはみえないが。
ヴーヴー、とポケットの中の携帯が振動した。メールだ。
「ねえ、」
そのタイミングでナギさんが声を出した。
ナギさんの横顔は、少し睫毛を伏せて、けれども前を向いていた。
「頑張ろうね。瑛一のためにも」
寂寥と、それを上回る覚悟が込もった強い声だった。
「……はい」
私は頷いた。
『だから、今度はお前が見せてくれ。俺にあの夜に見た夢の、その先を』。
ナギさんと別れて携帯を開くと、瑛一さんからのメールだった。
『仕事中だったらすまない。何時頃に帰ってこれる?』
こんな文面が、瑛一さんから届くことが慣れなくて、妙な感覚がする。胸の奥がくすぐったいようなこの幸せは、こんな状況でなければ、永遠に知れなかった幸福の形だ。
HE★VENSは、靄だろうと霧だろうときっと切り裂いて行ける。
いや、切り裂いて行くんだ。
エンジェルの為に、自分自身の為に、瑛一さんの為に。


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