メメント・モリ(鳳瑛一)4
(4)



時計の嵌った手首を、ふと掴んだ。
相手の体がビク、と跳ねたのが、腕を通して伝わる。
『……何ですか?』
振り向いたその顔を、椅子に座ったまま見上げる。
『いや……何でもない』
俺はそう呟く。フワ、と腕から手を離すと、細い手首がぎこちなく腰の横へ収束した。
『……? えっと、じゃあ私はこれで』
『ああ、目の下のクマが消えるくらいには、ゆっくり休んでくれ』
言葉に詰まったように歪んだ顔を眺めてから、PCの画面に視線を戻した。
扉の閉まる音を聞いてから、再び曲を再生した。

『瑛一〜!』
呼ばれて振り向けば、廊下の先に小さな姿があった。
『ナギか、収録は終わったのか?』
『そうそう聞いてよ〜ヴァンったら今日もずっとボケ倒してくるの〜エンジェルの前ならともかく、カメラも回ってないところで誰がツッコむと思ってるの?』
微笑ましいと思い、ハハハ、と笑えば、ナギは『真面目に聞いてる?』と可愛らしい顔を酷く歪めて見せた。
事務所の廊下を並んで歩く。ナギの歩幅に合わせて、無意識にゆったりとした足取りになる。
『ていうか聴いたよ? 瑛一の新曲』
ナギの言葉に、思い出すように口を開く。
『ああ、そういえば、昨夜1話が放送だったな』
『大和が仕事だったけど、ドラマ皆んなで観たよ。瑛一はロケだったもんねえ』
『そうだな。どうだった?』
俺が問うと、ナギは突然笑みを浮かべた。頬に人差し指を当てる。
『な〜んか、瑛一の今回の曲、今までとちが〜う!』
戯けたように声を張って、ナギが高々と言った。
俺は思わず足を止める。
『「違う」? 良い意味か?』
『さあ〜? 分かんないけど、なんか甘いっていうか〜必死っていうか〜』
『「甘い」? 「必死」?』
ナギの言葉を繰り返しながら、俺は覚えのある言葉だと思った。
『そ。な〜んか正に「愛の歌」って感じの曲じゃな〜い?』
『何を言うんだ。俺はどんな時だってエンジェルへの愛を歌っている』
思わず声を上げれば、ナギは『そうだけど、』とちゅうを仰ぐように黒目を動かす。
『いつもより身近な愛だなって思ったの。世俗的っていうか? 瑛一の歌う愛って、何だかすっごく高い所にあるイメージだったから、驚いた』
ナギの横顔を眺めながら、俺は目を見張って眉を歪める。
『それは良い意味か? 俺はエンジェルの甘い声に応えて、これまでの曲を超えた歌を届けなければならないというのに』
ナギは眉を非対称に釣り上げた。
『褒めてるの! ていうか瑛一は、この曲に自信ないワケ?』
ナギの目を見たまま、俺は暫く固まる。
視線を外して、顎に手を当てた。
『いや……勿論素晴らしい出来だと思っている。エンジェルへの愛もこれ以上ないという程、歌詞に出来たと思っている』
『じゃあ何でそんな自信なさげなの? いつもは鬱陶しいくらいのテンションで語ってくるのに』
顎に親指で触れたまま、廊下の床を見つめる。
『……「甘く」て「必死」か……。確かに俺もそれと似たような感想を覚えた、この曲を聞いた時に』
ナギは黙って俺を見上げている。
『今回は締切前に急に作り直した事もあって、曲を聴いたのは完成してからだった。聴いた瞬間に、何かがいつもとは違うと感じた。未知な衝撃過ぎて、それが良いものなのかどうかを、未だに測りかねている』
強く訴えるようなリズムの中に、誘うような旋律。出口の見えない迷宮のような闇。それでいて、闇を滲み出すように染め上げる、強く熱を持った色。
『歌詞も……曲に引っ張られたようなところがある。それ程、この身の奥深くに絡むような曲だった』
衣服を掻き寄せるように、胸元を握る。
ナギは暫く俺をジッと見つめた。
『ふーん』
ナギはそれだけ言うと、コツ、と靴音を鳴らす。歩き出した。
『いいんじゃない? たまにはこういう曲も。天上人って感じだった瑛一が、ずっと近くに感じられてエンジェルは嬉しいと思う。……それでいて瑛一の崇高さは失われてないんだから、流石だよね』
文尾は独り言のように呟いた。
ナギは笑みを作ると、腕を上げて伸びをした。
『そんなことよりさ〜ヴァンが今日も夕飯たこ焼きって言ってるんだけど〜! 瑛一がタコ丸々一匹買って帰って来るから!』
ナギの背中を眺めながら、頭の中に流れる旋律に耳を傾けた。
自分の手の平を見つめ、掴んだあの腕の感触を思い出す。
その日を境に、何だか名前とよく目が合うようになった。


溜息を吐き出す。
前髪を掻き上げる様に額に手を当てる。
半分に狭まった視界の中で、テーブルの上に置いていた書類が目に付いた。
それを掴み、投げ置く。
クシャ、と紙の音がしたと同時に、ノックが響いた。
コンコンコン、と三度鳴った音に耳を傾ける。
顔を上げ、『はい』と返事をした。
ガチャリとドアノブが下がり、扉が開いた。
『お疲れ様です』
静かな会議室に声が響いた。
扉の隙間から姿を覗かせ、後ろ手に閉めるその様を眺める。
名前の髪には束ねていたのを解いたというような波打つ跡があり、衣服も急いで着替えたのか、ジャケットの肩山が片方手前にズレていた。
『突然呼び出してすまなかったな』
『いえ……寮に居ましたから』
名前はそう言うと、こちらに向かって足を進めた。
俺が腰を下ろしている席までやってくると、そこで足を止めた。
『また親父の悪い癖が出た』
言いながら俺は額に手を当てる。
『社長が……? 何かあったんですか』
名前の声がする。
いつのまにか日没を迎えた窓の外からは光など入らず、小雨でも降っているのか窓を叩く微かな音がする。
『アジア音楽フェスティバルへの、HE★VENSの出場が決まった』
『え? それって……凄いじゃないですか』
名前の声に『ああ』と答える。
ソウルで開催され、アジアのトップアーティストが参加する音楽フェスだ。
録画放送は韓国、日本のテレビ局を始め多数の国の主要テレビ局が行う。
『HE★VENSの実力を世界へ示す事が出来るチャンスだ。今の勢いを勢いだけで終わらせない為に、確かな経歴が必要なのも事実。俺達にとって大切な舞台となるのは間違いないだろう』
稲妻が走ったのか、暗い室内に一瞬強い光が射した。
『だからこそ、お前の曲でないと意味がない』
机の上に握った拳に力を込める。手元の資料が皺を得て歪んだ。
『…………それは、つまり』
震え、掠れていたような気がした。
バッと顔を上げると、暗く落ちた室内に名前の顔が見えた。
思わず立ち上がる。
後ろへ滑ったキャスター付きの椅子が、ガタッと派手な音を立てた。
『いや大丈夫だ、親父にはこれからもう一度、いや何度でも交渉するつもりだ。海外の作曲家がなんだ! お前以上に俺達の力を引き出す作曲家が他にいるはずがない』
細い肩を両手で掴む。
『…………』
顔が上がらないので、肩に手を置いたまま覗き込んだ。
『名前? 平気だ、HE★VENSの出場もお前の作曲も、俺がどちらも認めさせてみせる。そういう話をする為にお前を呼んだ。親父に何を言われたって屈するなと言いたかっただけだ。だからそんな顔を……』
カサ、と乾いた音がした。
言葉を止めて視線を音の方へ動かせば、テーブルの上に捨て置いた皺くちゃの書類の束が見えた。
名前の手がそれを拾い上げる。
『名前?』
微かな息が聞こえた。
暖房を付け忘れていた暗い室内は、それを白く可視化する。
『…………読みましたか?』
長い沈黙の後に声がした。
『……その曲をか? 読む必要があるか?』
窓から閃光が入る。
一瞬の時を得て、また暗闇に沈んだ景色の中で、名前の結び跡のついた髪が1束、肩から滑るように落ちた。
『…………今回は……社長の言う事は正しいです』
俺は目を見開く。
『何だと!?』
思わず掴む手に強く力を込めると、小さな肩は簡単に揺れる。
『お前はそれでいいのか!?』
『じゃあ読んでくださいよ!』
初めて聞くような荒い声色に驚いた。
雨が強く横殴りに降り、遠くで雷鳴が轟いた。
グシャ、と細い手が五線譜の束を握りしめる。
それは震えを伴って動き出すと、俺の胸の数センチ手前で静止した。
『……この曲は……私には………………こんな事言わせないでください』
五線譜は俺の胸には触れずに、テーブルの上に投げ出された。
腕時計の嵌った左手が、小刻みに震えながら脚の横に戻る。
強く訴えるようなリズム。誘うような旋律。出口の見えない、迷宮のような闇。それを染め上げる、強く熱を持った、
腕時計の分針と秒針が重なる小さな音が、
全てが腑に落ちる音だった。
手を伸ばした。だが触れる直前で躊躇う。
その一瞬の間に、名前は俯いたまま身を引いた。指先は、その身のそばで空を切った。
『……もっと……もっと…………』
震えた息の合間に、呟く声が落ちた。
『……名前、』
言葉は強い視線に遮られる。
呼吸が白く舞う。
『誰よりも優れた曲を……すぐに追いついてみせるから……だから』
視線は一度手元に落ちて、けれどもまたすぐに俺を見上げた。
けれどもその視線は言い淀んで何も言わなかった。
言いたい事は痛い程わかった。そして言わない心情も痛い程。
全てを物語るように、身体の横で小さな拳が強く握られ、暫く震え続けていた。
魂を共有した相手だ。HE★VENSの皆も。
彼らの感じる痛みは、等しく俺の痛みだ。
けれどもその痛みは塞ぐものじゃない、慰めるものじゃない。
傷を得るからこそ見える景色がある。
追い詰め、追い詰めるからこそ、辿り着ける真の歌がある。
だというのに、俺は背を向けたその姿に手を伸ばした。
指先は空を切ったが、地上には激しい雷鳴が轟いた。
それはまるで天譴てんけんのように。

『ええっ!? ホントに!? この人確か凄く有名な……!』
瑛二が声を上げ、目を丸くしながらもあの人とかこの人とか、と海外アーティストの名前を挙げた。
『そんなどえらい作曲家が、何でワイらに? 交流なんて誰もあらへんやろ?』
ヴァンが資料片手にこちらへ問う。
『先日の旅行会社とタイアップした広告が、大々的に打ち出されただろう? どうやらそれを見てHE★VENSを気に入ったようだ』
『ああ、あれ飛行機の機内でも使われてたもんね』
ナギが、ふーんと資料を細い目で眺めている。
寮の共有スペースに、メンバー全員を集めていた。
『しかし、どれだけ優れていようとも、我らの波動を理解し共存し得なければ、音楽になどなるわけがあるまい……』
『確かにな。どないな曲なん?』
ヴァンの言葉に、俺は静かにテーブルの上のリモコンを拾い上げる。
ボタンを押して、スピーカーの電源を入れた。
流れ出した音楽に、瑛二が目を見開いた。
空気が張り詰めたせいか、全員が息を呑んだせいか、澄んだ静寂が部屋を占めた。
曲が最後の一音を伝え終えるまで、誰一人として口を開かなかった。
『……すごい』
最初に口を開いたのは、瑛二だった。
『俺たちの…….曲だよ。音域も癖も、7人全員細かいところまで考えられてる……』
瑛二はゴクリと唾を飲み込むと、バッと突然顔を上げる。
『それに! 今の俺たちだけじゃない、未来の可能性まで詰め込まれてる。俺……ナギの音域は本当はもっと広いんじゃないかって思ってたんだ……! 大和はブレスが少なくて済むから、もっと伸びのあるフレーズだって歌えるような気がしてたし……! それが全部詰まってる、この曲に、』
ガタンッ、と荒い音が響いた。
『……兄さん?』
乱暴にリモコンを置いた後で、我に返る。
裏返ったリモコンを暫く睨むように見て、口を開く。
『いや……すまない』
瑛二が眉を寄せて俺を見た。
『……名前は……何と……言っている』
綺羅の静かな声が響き渡った。
瑛二が、あ、と呟くように目を見開く。
『そうだよねぇ、ボクらの作曲家は名前だもん。ていうか、これ社長の差し金なんじゃないの?』
ナギが眉をひそめて言った。ソファから、俺を見上げる。
『そうなん? 瑛一っちゃん』
ヴァンが真剣な面持ちで俺を見据えた。
答えを待つように、皆の視線が俺に集中した。
身体の横で、拳を握る。
『……名前の……了承は得ている』
俺の言葉に、ナギが目を見開く。
『まことか……HE★VENSを想う気持ちはその程度……』
シオンが見開いた瞳を揺らして呟いた。隣にいた大和が顔を歪めて俺を見る。
『そういう意味なのか?』
俺はグッと拳を握り、力を解いた。
『いや……待っていてくれと……言いはしなかったがそういうことだろう。すぐに追いついてみせると言っていた』
『ふーん、やるじゃねぇか』
大和が少し笑って、ソファの背もたれに肘を掛ける。
『そんなら心配いらへんな。やっぱニックネーム、そういうとこ賢いわ』
ヴァンがいつもの高いそれではない声色で言葉にした。
『本当にこれでいいのか?』
無意識の内に飛び出ていた自分の声に、6人の視線が集まった。
『今からでも名前に……親父を説得して……』
額に片手を添えれば、視界は薄暗く堕ちた。
『瑛一は、名前のこと信じられないの?』
手を離して見ると、ナギが眉間に皺を寄せて俺を睨んでいた。
『困難に挑む、自分を限界まで追い詰める、高みへ登るために必要なこと。それがボク達のやり方でしょ?』
ナギの視線に、俺は目を見開く。
『瑛一がブレるとボクらは何処に行けばいいのかわからなくなる。しっかりしてよ、リーダーなんだから』
目を見張ったまま、ナギの真っ直ぐに届く視線を受けていた。
薄暗闇の中、見た名前の視線と重なる。
『…………ああ、そうだな』
うわ言のように、呟いた。
『まさかナギちゃんがリーダーに説教する日が来るとはなあ〜大きゅうなったんやなー』
『ヴァン……今は……真面目な話……』
会議が終わってから、瑛二が遠慮がちに俺に声を掛けた。名前の事を忘れたようにはしゃいだ事を謝った。
瑛二が謝ることなど何もなく、寧ろあの楽曲の良さを一番に感じ取ったのは、瑛二がそれだけ歌うことについての知識と才能を有しているからだ。
そう思うが、乱暴に音をたてた自分の行動も事実だ。
『お前が謝ることじゃない』とは返したが、笑みを浮かべる余裕はなかった。
『瑛一っちゃん』
自室のドアノブに手を掛けたところで、呼び止められた。
『どうかしたか、ヴァン』
『ニックネームならそない心配することあらへんって』
俺は一度動きを止める。それから視線をドアノブにかけた手に落とす。
『ニックネーム、ああ見えて気ぃ強いとこあるし』
『ああ……わかっている』
手の甲を見つめたまま口にすれば、ヴァンは肩をすくめるようなジェスチャーをした。
『まあええけどっ』
ヴァンがバンと軽く背中を叩いたので、反射でヴァンの方を向く。
ヴァンは俺に向かって笑みを向けると、視線を正面へ向けた。
横顔は、眉を寄せた真剣なものに変わる。
『……ちゅーか、あの曲がどれだけのもんなんかっちゅうのは、ワイらよりもニックネームのがよおわかっとるやろ。作曲家やからこそ、あの音に至るまでの技術とか、今の自分にどれだけ足りへんのかって、きっと現実的に見えとる』
ヴァンの視線がこちらに向く。
『何かしたりたいのは分かるけど、その辺はワイらは口出しできへん領域っちゃう? ニックネームやってプロやで』
ヴァンは一つ笑うと、ポンと俺の背中を軽く叩いた。そのまま背を向けて廊下を歩いて行った。
『リーダーなんだから』

数日後、変わらず立て込む仕事の合間に、フェスの為のレッスンが始まった。
共に取り組む仕事がなければ、名前と会う機会などそうないのだと思い知った。
『あっ、兄さーん』
瑛二の呼ぶ声がして顔を向ける。
廊下の向こうから歩いてきた瑛二が、あっというような顔をした。
俺は携帯を耳から離す。
『一ノ瀬トキヤとの話はもういいのか?』
『あっうん、ごめんね待たせちゃって。あとごめん、電話中だった?』
俺は手の中の画面を見つめる。
『いや……掛からなかった』
そう呟いて、コートのポケットに携帯をしまった。
テレビ局を出て、瑛二とタクシーに乗り込む。外は雨が降っており、肌寒い気温を一層冷えさせた。
『……電話ってもしかして苗字さん?』
『ああ』
瑛二の姿を、窓越しに眺めながら返事をした。
ドアのアッパートリムに肘を引っ掛け、頬杖を付きながら見送る雨の景色。それは一枚のパノラマのようだった。
『何度掛けても繋がらない。まあ、あいつには良くあることだが……特に作曲中は……』
過密スケジュールによる疲労なのか、隣に居るのが瑛二で気が緩むのか、言葉が舌の上で滑る。
『そっか……心配だね……寮に篭りっきりみたいだし……』
瑛二の言葉に、頬から手を離す。
『そうなのか?』
『あれ、知らなかった? 事務所のスタッフに聞いたんだけど、新しい仕事は断ってるみたい。受けてた仕事の打ち合わせとか、必要な時は出てきてるみたいだけど……』
動きを止めて、瑛二の言葉を聞いた。
雨音の中、ワイパーの独特のリズムが鳴り続ける。
扉の前で手を掲げて、暫く静止した。
瑛二との仕事を終えて、次の予定までの僅かな時間に事務所へ足を向けた。
会議室の厚い扉は窓もなく、彼方あちら側の景色を完全に遮断している。
一度瞼を閉じる。
瞳を開いて、コンコンコン、とノックを打った。
中から声が掛からなかったので、そのままノブを押し下げた。
背中を見た。
椅子に腰掛けジッとしている背中は、自分の身体と比べてしまうと、まるで子どものように小さいと感じた。
ガラス越しの降雨を聞きながら、足を進める。部屋の中には他に誰の姿もなかった。
『名前……』
最後までその名を呼べなかった。
背後から覗き込んだ横顔が、こちらに気がついたようにゆっくり眼球だけ動かした。
数秒の空白の後に、ハッと我に返るように動きをいた。
『瑛一さん……あ、え? どうしたんですか』
不思議そうに問う声は、弦を弾いた余韻のように、震えて聞こえた。
『…………』
俺はただ目の前の姿を見ていた。
何も言わない俺に、名前は眉間を微かに狭めた。
『瑛一さん……? えっと、打ち合わせですか? だったら部屋を間違われてるんじゃ……』
例えば手を取って、握りしめる。震えを去なすように。
例えば頬に、ゆっくりと手を添える。届いた指で、重なるクマに触れる。
青い肌も撫で、深い傷を負った胸を、抱き寄せて、色素の失った唇へ、熱を。
音のないときが、部屋には訪れていた。
目の前の瞳が、その色を変えていることに気がつく。
瞳孔が、その表面に泳がせる反射光が、揺れている。
リーダーなんだから。
手を伸ばして、肩に触れた。
華奢なそれは微かに跳ねた。
『……期待している』
高い所から、ゆっくりと、呼吸を込めて呟いた。
俺を見上げる瞳が、大きく見開かれる。
そうして、ゆっくりと瞼を下ろした。
『……はい』
頷く仕草に、髪が一房滑り落ち、肩にある俺の手甲を撫でた。
俺は体の横で拳を強く握りしめて、顔には笑みを浮かべた。
肩の手をゆっくり離した。
俺に向ける瞳の光を確認して、俺は靴音を鳴らした。
丁度扉が開き、打ち合わせ相手と思われる事務所のスタッフが入ってきた。
廊下を歩み、エレベーターへ向かった。
名前を鼓舞し、高めるものは、生温かなじゃれ合いなんかじゃない。
期待、信頼、重圧。
俺が求めているものと同じだ。HE★VENSに、エンジェルに……あの男に。
我欲を貫き何処までも天を渇望するHE★VENSが、今日より一層深い愛を望むエンジェルが、自らの完璧なステージの更に先をと不惜身命ふしゃくしんみょうなあの男が、居るから俺は存在できる。
ならば俺が与えなくてどうする。あいつの魂に最も深く寄り添えるこの運命を、活かさずにどうする!
エレベーターの到着の音を聞いた。
建物の外に出ると、相変わらず雨が落ちていた。
タクシーに乗り込み、頬杖をついて街を眺める。
軒下で携帯を見つめる人、母親と父親の間で手を握る幼い子供、一本の傘を差して寄り添う男女。
景色は、相変わらずパノラマだと感じた。

『じゃあ、メールを紹介していくよ……って言いたいところなんだけど、今週のメール、ほとんどが兄さんのドラマの感想なんだよね』
瑛二の控えめな笑い声が、ヘッドフォンを通して耳に届いた。
『やっぱりエンジェル達もびっくりしたんだね』
『メンバーからも随分と言われたな』
『そうだね。兄さんも含めて皆んなで観てたんだけど、俺途中からどこを観ていいのかわからなくなって、凄く焦った』
『ハハハ』
笑い声が防音壁に吸い込まれて、狭いブースの中に心地よく響いた。
瑛二とパーソナリティを務める、ラジオ番組の収録。初めてエンジェルからのメールを読み上げたあの瞬間から数年が経ち、もう随分勝手もわかってきた。
『じゃあ一枚紹介させてね』
瑛二がエンジェルネームと読み上げて、メールを読んでいく。
前半はドラマの感想が続いた。自身が意図したこと全てを、いやそれ以上の事を、エンジェルはいつも感じ取ってくれる。それは努力の全てが報われるような、筆舌に尽くしがたい幸福の瞬間だ。
『ところで話は変わるのですが、この前仕事で大きなミスをしてしまい落ち込んでいます。何か慰めの一言をお願いしてもいいですか?』
瑛二がメールを読み終え、机に紙を置く微かな音がした。『うーん』と短い唸り声が聞こえる。
『ミスをした時って辛いよね。自分を凄く責めちゃうし……でも、俺は味方だよ? どんな時でも。それを思い出してくれると嬉しいな』
瑛二は真剣な眼差しで言葉にした後、首の後ろに手を持っていく。
『難しいな……今すぐエンジェルの元へ飛んでいけたら簡単なんだけど……兄さんはどう?』
顔を上げた瑛二と目が合った。
俺は暫くただ瑛二を見ていた。瑛二が瞬きと共に首を傾げる。
『兄さん?』
『……ああ』
それだけ口にして、視線を机上に並ぶ用紙に下げた。
『どうかした?』
『いや……そういうことだろうなと思ってな。……苦しい時に欲しいのは慰めの言葉だ』
『? そう……だね?』
瑛二が不思議そうに俺の様子を窺う。その視線を感じながら、俺は瞼を閉じて額に手をついた。
『……慰めとは、無条件の愛とも言えないか』
『無条件の愛……?』と瑛二が言葉を繰り返す。
『何を求めることもなく愛を与えられる。そういった関係は決してありふれたものではない。家族、恋人、特別な関係だ』
俺は名前に求めなければいけない。
最高の音楽を。エンジェルの為に、HE★VENSの為に、名前の為に、俺の為に。
俺には出来ない事を、軽々とやってのけてしまう相手が、名前にもいつか出来るのかもしれない。
ゆっくりと、睫毛を持ち上げる。
『……腕に触れて、』
この唇から紡ぐ声が、静かにマイクの穴へと消えていく。
『指先を、そのまま肌へ滑らせて、指と指を絡める。……顔を近づけ、頬にも触れよう。全ては、嫌という程優しく』
机上の指先で、印刷された文字をゆっくりと撫でる。
『お前の考えうる全ての手段で愛を伝え、お前の欲しい言葉を全て、紡いでみせよう。……他でもないこの唇で』
最後に、隷属を誓ってキスを。
リップ音を鳴らせば、ブースの中に良く響いた。
『ありのままのお前を愛させてほしい、エンジェル』
目を細めてマイクを見つめる。己の声がよく響くのが、ブースの内も外もシンと静まり返っているからだと気がついた。
視線を上げれば、口元を両手で覆った姿の瑛二が見えた。
『もう喋ってもいいぞ瑛二』
『うっ、うわ……うん、えっと……』
瑛二が口から手を離して、マイク前で姿勢を正した。
『俺までドキドキしちゃった……すごいね兄さんは……』
俺は眩しいものを見るように目を細めた。そうしてゆっくり瞼を閉じる。
『俺が凄いんじゃない。俺をそうさせる存在が居てくれるからだ。エンジェル、HE★VENS……お前達が居るから俺は在る』
そう、結ばれることがないとしても、同じ宿命の元で、同じ夢を見ようじゃないか。
それは何にも代え難い、俺とお前の最高の未来だ。

『……兄さんってさ』
帰り道、タクシーに揺られながら、瑛二が口にした。
『ん? どうした?』
すっかり更けた夜の街は、明かりだけが筋になって通り過ぎていった。
『その……好きな人とか……いるの?』
瑛二の遠慮がちな眼差し。俺は瞼を閉じて笑って見せた。
『ああ』
頷いて見せると、瑛二がバッと顔を上げて、珍しく顔を近づけて詰め寄った。
『ほんとに!? それって俺の知ってる人?』
『ああ、お前だからな』
『へ?』と瑛二が豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。
『瑛二と、綺羅、ナギ、大和、ヴァン、シオン』
『……そういう好きな人?』
瑛二の呟きに少し笑って、俺は真っ直ぐ前を見据える。
『そしてエンジェル』
口元に笑みを描く。
『俺の愛の全ては、エンジェルと、そしてHE★VENSに捧げる。永遠にな』

コンコンコン、とノックをしたが返事は無く、無断で扉を開けた。
ミーティングルームの時計を見れば、アポイントの時間からはかなり経っていた。
靴音を鳴らして部屋の中に入る。後ろ手に、なるべくそっと扉を閉めた。
窓の外は深い夜の藍色が覆い、室内の蛍光灯が眩しい。
ノートPCが開いたまま机上に置かれていた。画面がスリープ状態で真っ暗だ。
キーボードに掛かるように置かれていた五線紙を、手に取る。
暫くして五線紙を下げる音がカサ、と鳴る。不敵な笑みの浮かんだ口元が、スリープモードの画面に反射して映った。
微かな音が耳に届く。
机に突っ伏している身体を、長い髪が一束滑り落ちた。
垂れたその一束に、指を伸ばす。
ガチャ、と物音がした。
『あっ! すみません使ってましたか』
扉を開けたのは事務所のスタッフだ。
『ああ、打ち合わせの予定だったんだが、前の仕事が押してしまってな。部屋を使うのか?』
『いえ、そろそろ閉めようかと思っただけなので。終わったら鍵を返却してくだされば問題ないです』
わかった、と返事をして、扉の閉まる音を聞いた。
伸ばしていた手を腰の横に戻した。
窓の外へ視線を向けると、内の光が眩ゆい為に景色ではなく反射した室内が窺えた。
机に突っ伏し寝息を立てる愛しい相手の姿と、その傍らに立つ自分の姿。
暫くそれを眺めていた。
時計が針を鳴らした時、笑うように息を吐いた。
着ていたコートから腕を引き抜き、小さな背中に柔く被せた。
机上にあったメモ帳から一枚紙を破いて、挟み込まれていたボールペンも拝借する。
走り書いて、真っ暗なスリープ画面に立て掛けた。
五線紙の束を手に取り、そのまま部屋を出た。
パチバチと眩しい未来が見える。最高の仲間と、最高の音楽。不可能などあるか? いいや。
口角は笑み、自然に笑い声が漏れる。
力を込めて楽譜を掴み、携帯を取り出してコールボタンを押した。
『さあ、最高の音楽を歌おうじゃないか、HE★VENS!!』



「vade mecum」
ペン跡の走る紙切れを手にしていた。
楽典の最終ページから滑り出たそれを、早朝の朝靄の中、長く眺めた。
自室を出てリビングでバタバタと準備をしていれば、物音の中に軽いスリッパの音が混じった。
「出掛けるのか……? 随分早いな」
欠伸混じりの、パジャマ姿で、私はしばし固まった。
眼鏡を掛けてはいるがそれだけという具合で、髪も跳ねていれば瞼も重そうだ。
「え、ええ、綺羅さんのスケジュールの合間を縫っての事なので……」
視線を逸らしながらどぎまぎ言えば、少し低い声が上がった。
「『綺羅』?」
眼鏡と寝癖の向こうで、派手な瞳が顰められる。
ハッと気がつき口を閉じる。
「いやあの……」
「綺羅に会うのか? こんなに朝早くから? それは仕事なんだろうな」
パタパタとスリッパの音が近づき、高い影が私の身体を上から覆う。
私は肩に掛けた鞄の持ち手を握りしめる。
「えっと……その……」
仕事と言えば内容を問われるだろうか。何とか濁せば……。
ス、と視界に影が映った。頬の皮膚に何かが触れ、ビクと思わず肩を揺らす。
眉を歪め、目を細めた華やかな顔が近づいた。
唇に柔らかく触れた。
「…………」
頬に熱を宿しながら顎を引くが、至近距離にあまり変化は無かった。
暫く顰めっ面で見つめられる。無言の唇は弓なりに引き結ばれている。
「…………車を出そう」
やがて開いた唇は、溜息と共に吐き出した。
「え……車?」
「送っていく。少し待っていてくれるか」
瑛一さんは至近距離から身を引くと、「着替えてくる」と言ってリビングを出て行った。
私は二、三度瞬きをし、それから慌てて閉まったばかりのドアノブを握った。
「瑛一さん、平気ですから。事務所ですし電車……」
寝室のドアを開けると、パジャマのボタンには手が掛かっていた。
「ああわかった、事務所だな」
瑛一さんはこちらを一瞥し返事をすると、身頃を掴んで開く。
「!!!!」
バタンッ! と大きな音を立てて扉を閉めた。
ドアを背に、ズルズルとしゃがみこむ。
「う……うわ、あ……」
顔を両手で覆う。
呻くように声を漏らしながら、知り得ないほど速打つ心臓に呼吸が乱れる。
垣間見た肌の色が、脳裏に蘇って消えない。
ガチャ、と頭上で音がし、反射的に飛びのく。
「どうかしたのか? 凄い物音だったぞ」
上から見下ろす体が、取り敢えずシャツを纏っている事に安堵する。
「い、いえ何でも……」
よろよろと立ち上がると、瑛一さんが不思議そうに首を傾げた。

うやむやになり、結局助手席で振動に揺られる。
瑛一さんは顔を隠しているつもりなのか、マスクをしていつもとは型の違う眼鏡を掛けているが、その桁外れの魅力まではどうにも隠しきれていないような気がした。
けれども、これまでは変装というのを全くしない人だったので、それに比べれば有効なものだ。
「今日の帰りは何時頃だ」
「9時半……には、帰れると思います」
「わかった。待っていよう」
エンジン音を聴きながら、ハンドルを握る横顔を眺めた。長い睫毛が前を向いている。
「少し遠いがここでいいか?」
瑛一さんは事務所の手前で車を停めると、こちらに身を向けた。
早朝に加え、寮側の門前というのもあり、人通りは無い。
「はい、起き抜けに……ありがとうございました」
私の言葉に、瑛一さんは一度フロントガラスに視線を向けた。
「いや……むしろ俺が礼を言うべきだ。俺のワガママに付き合わせてすまなかったな。ありがとう」
戻ってきた視線は私を真っ直ぐに捉えた。マスクで隠れてはいるが、一つ笑みを向けられたのがわかった。
私は小さく呟くのが精一杯で、背を向ける口実にシートベルトを外した。
ドアを開けて足を地面につける。
「じゃあ……行ってきます」
外から車内を覗き込んで口にする。
目元が優しく細まった。
「ああ、いってらっしゃい」
優しい声に溶けるような心地がした。
初秋の、朝の冷えた空気の中、ドアのハンドルを離すのが惜しいと思った。
「…………外だぞ」
甘く咎めるような声が聞こえて、ハッと気がつく。
薬指にはまった指輪を、撫でるように触れていた自らの手。慌てて引っ込める。
ハハハ、と笑い声が聞こえるが、その左手は動くことなくそこに置かれたままだった。
「…………」
気恥ずかしさと気まずさと、熱と期待とが入り混じって、言葉を探すがグルグル思考が乱れる。
「早く行かないと綺羅が来てしまうんじゃないか?」
「あ、ああ、そう、ですね……」
やっと紡げた言葉はただの返事で、私は息を吸い込んで、全て吐き出した。
片足を浮かせた所で、声がする。
うちで待っている」
視線を戻した場所には、何かを込めた瞳が笑っていて、私は目を見開いた。
「…………はい」
それだけ言って、助手席のドアを閉めた。
体温を冷ますように、秋風を受けながら歩く。
服の上から胸元を握る。視線を人差し指に向ける。
事務所の門まで行くと、見知った背格好が見えた。
声を掛けようと口を開いたタイミングで、その横顔がこちらを見た。
「おはようございます、綺羅さん」
「……ああ」
綺羅さんは軽く顎を引くと、私が来るのを待ってか足を止めた。
二、三歩を早足で歩いて綺羅さんの隣に並んだ。だが、綺羅さんは道の後方を見たまま動く気配がない。
見上げると、綺羅さんが徐に口を開く。
「…………瑛一の……車か……」
え、と綺羅さんの視線を追えば、真っ赤な車は遠くにまだ停車して見えた。
「あ……えっと」
どう説明をすべきか思わず口籠る。
「…………嫉妬……したのか……瑛一……」
低い振動を伴う声が、頭上から降った。
見上げると、横顔は車を見つめたままだった。
「…………何故、そう思うんですか」
横顔が何となく憂いて見えた。朝靄の光も影も薄い空気の中で、遠くを見つめるように細めた眼差し。
「…………」
綺羅さんは一度視線を下げた。瞼が降りた。
「……俺が瑛一の……立場なら……思う……」
綺羅さんの答えに、私は暫く動きを止めていた。
綺羅さんは最後に車を一瞥だけして、大きな門をくぐった。

昨夜練った構想をいくつか伝えたが、綺羅さんから首肯は得られなかった。
反対に綺羅さんのアイディアも、本人自身も納得がいっていないようで、確かに全てを異変させる灯火とうかとは言い難かった。
次の仕事の為に綺羅さんが事務所を後にし、私も会議室を出た。
スタジオを少し借りようかと考えながら廊下を歩く。雰囲気から掴んでみようか、足踏みをしているばかりの苦しさから逃れたい。
エレベーターに乗り込むと、「あっ」と声を上げられた。
「あ、お疲れ様です」
「うん、おつかれさま」
瑛二さんは目を少し見開いていたので、彼も私に気がついていなかったのかもしれない。
『閉』ボタンに指で触れる。扉が閉まった。
「苗字さんは仕事?」
「あ、はい、打ち合わせをしていて」
「そうなんだ」
「瑛二さんは」
「あ、うん」
瑛二さんが少し目を伏せた。
「父さんに……呼ばれてて」
私は視線だけを隣に向けた。
瑛二さんは暫くジッと地面を見つめていた。
ふと顔が上がる。
「なんか、凄く緊張しちゃって……父さんと二人きりで話すなんて、あんまりない事なんだ。特に事務所でなんて……」
瑛二さんの、肩に下げたトートバッグが少し皺に寄る。
握った肩紐を、瑛二さんは暫くして離した。
「……兄さんは凄いよ。父さんのプレッシャーを、一身に受けてた兄さんが、羨ましいって思った時もあったけど……兄さんだから立っていられたんだろうなあ」
瑛二さんは天井を見上げて呟いた。それから力を抜いたように、こちらに笑いかける。
「それに、父さんも今よりずっと厳しかったしね」
事務所に所属したばかりの頃の社長を思い出す。お目にかかる事自体滅多になかったが、思い返せば事務所の雰囲気が、もっと殺伐としていた気もする。
「ゴメンね、こんな話聞いてもらって」
「あ、いえ……。社長は、HE★VENSの事……何か言ってましたか」
問えば、瑛二さんは視線を下げて、体の隣で拳を握った。
「わかってたことだよ、俺も皆んなも苗字さんも……。頑張らなきゃ、ね」


五線譜にペンを走らせていた。
途中で動きが止まっては、段をまたがる斜線を一本引く。新たな紙を引っ張り出す。
道しるべ、なのだ。この曲は。
あの人の代わりに、HE★VENSとエンジェルを導く道しるべ。
負の感情さえも享受し、力と変え、高い天へ夢を描き、それがこの手で触れられる事を、この身の肯定をもって教えてくれる。
思い詰めれば詰めるほど、あの人の背負っていた物の、大きく重い事に気がついた。
『瑛一の立場なら』
力を込めたペン先が、五線譜に黒いシミをつくる。
考えた事が無かったのだ。瑛一さんが当然のように背負うから。
外は分厚い雲に覆われていた。
午後には雨となって降り出した。
映画のサントラの音響チェックと、過去のCM・BGMのアレンジについて打ち合わせ。それを終えて事務所に戻り、レコーディングルームで抱えていた作曲の作業を進めた。
その後そのまま、綺羅さんの楽曲を練る。
レコーディングルームは防音壁が四方を覆い、もちろん窓もなく、降り続く雨音など完全に意識の外へ遮断していた。
備え付けのキーボードをいたずらに触りながら、眉間に力を込める。
ヴーヴー、と音色の合間にバイブ音が鳴った気がした。
鍵盤から手を引いて、脇に置いていた鞄の元へ行く。
携帯を手に取ると、着信は切れた後だった。
だが、画面には着歴が残っている。二件、と表示が。
「…………」
ハッと覚醒し、画面にも時刻は表示されているのに、腕時計を確認した。22時を回っている。
そうこうしている間に、画面に通知が足された。今度はメールだ。
慌てて着歴の方をタップして、端末を耳に当てる。
ワンコールですぐに出た。
「あっ、あの瑛一さん」
『ああ、仕事中だったか?』
耳元であの声が聞こえる。
「いえ違うんです……すみません」
『ん?』
私は額に手を当てた。
「作業をしてたらこんな時間に……すぐに帰りますけど、今からなので……」
どうしてこう周りを見ずに自分のことばかりの人間なのだろう。瑛一さんは褒めてくれたが、脇目を振らぬ事で約束に遅れるなんて一度や二度じゃないのだ。
繰り返してしまうのは、他人との約束より自分の比重が大きいからだろう。今まではそれでも何とかなるようなプライベートだったが、共に暮らすということは毎日が約束のようなもので。ちゃんと、しなければ。
『はは、まあそんなことだろうと思ったが』
電波の向こうから、くつくつと笑い声がした。
『万一何かあったならいけないと思ってな。少し心配だったから掛けたんだ。ゆっくり帰ってくればいい』
「…………」
優しげな声を耳に聞いたまま、私は暫くじっとしていた。
胸に、左手を持っていき、握りしめた。
「……ありがとう……ございます……」
『ああ。では待っている』
『気をつけて帰ってくるんだぞ』と瑛一さんの声がした。空気の音をマイクが拾ったのか、ガサ、と軽いノイズが鳴る。
「瑛一さん、」
呼び止めると、もう携帯を顔から離していたのか、少し遠いところから声がした。
『ん? どうかしたのか?』
「………………ありがとうございます」
思考を回したが、結局口に出来たのはそんな一言だった。
『それはさっき聞いたぞ』
「……はい」
電話の向こうで笑い声が聞こえた。


全てを受け止め、肯定する。
それには大きな覚悟と強さが必要不可欠な。
明かりの消えた寝室の暗がりの中、音を立てぬように注意して身体を起こす。
静かな寝息を背中に聞きながら、床に置いたスリッパに素足を入れ、ベッドを抜け出した。
自室へ入ると、机上のスタンドライトだけを灯して、五線紙に向かった。
傍らに置いたMIDIキーボードの上で指を動かし、PCに音を打ち込む。プリセットから音色を選択して様々な音を試してみるが、これだ、と心を打つものがない。
闇だけの世界で、目的地も分からぬまま道を探すような感覚。
「…………」
机に肘をついて、額に両手をつく。
一つ息を吐いて、机上に立て掛けていた楽典に手を伸ばす。
パラパラと捲りながら、やがて動きを止めた。
最終ページを開く。
長い夜の束の間、頭を抱えたままふと眠りに落ちた。久方ぶりの、夢を見た。


「大和さん」
事務所のレッスンルームの扉を開けると、大和さんがダンベルを持ち上げていた。これでレッスン後のクールダウンだとか言うのだが、流石にもう驚かない。
「あ? どうした」
「綺羅さんはもう帰られましたか?」
広々としたレッスンルームには、大和さんの姿しか見えない。荷物なども無い。
「綺羅なら用があるとか言って、そこのエレベーター上がってったぜ」
ガラス張りのレッスンルームの、すぐ向かいにはエレベーターが見える。
「……何の用事かは」
「聞いてねぇな」
そうですか、と返し、私は暫くガラス越しにエレベーターを眺めた。
「綺羅に用だったのか?」
「あ、いえ……」
ふーん? と大和さんは片眉を上げただけだった。ダンベルを置くと、今度はその巨体で軽々と重力に逆らい、逆立ちを始める。
「じゃあ、失礼します……お邪魔しました」
レッスンルームを出て、エレベーターの前に立つ。階数表示を見上げた。
丁度降りて来るエレベーターがあり、順番に点滅する数字を眺めていた。
間の抜けた音が鳴り、扉が開く。
「綺羅さん……」
思わず口に出た通り、エレベーターには綺羅さんの姿があった。
目が合って、綺羅さんは暫く逸らさなかった。

空いていた会議室で、綺羅さんは徐に口を開いた。
「……ライブの許可が……下りない……」
私は目を見開いて、正面の綺羅さんを見た。
「だから……社長に直談判……したが……」
綺羅さんの呟きが落ちる。私は顔を歪めて、視線を指先に落とした。
沈黙が続く。
「…………社長は、何て」
口を開いて問うと、綺羅さんの端整な顔立ちが歪んだ。
「…………HE★VENSは……今が大事な……時期だ、と……」
微かに震えて聞こえる声色。それを紡ぎ出す唇を、私はジッと眺めていた。
「だから……」
綺羅さんが息を吸い込む。
瞼を閉じて、眉を歪めた。
「……もう失敗は……許され……ない、と……」
目を見開いた。分針が、カチ、と鳴る。
「……『失敗』…………?」
喉の奥から込み上げる熱が、呼吸を震わせた。指先に痙攣を伝えた。
「何を…………」
酷く捻転ねんてんした声が自身の口からこぼれた。
左胸をきつく握り締めた。
だがそんなものでは到底抑えられなくて、気がついた時には、会議室の扉を勢いよく閉めた後だった。

最上階でエレベーターを降りた。
すると正面には警備服を着た男性が立っていて、行く手を遮られる。
「……あの、社長に話が」
「何も聞いてないけど、アポは取ってる?」
怪訝な顔をして問われる。
「…………部屋に居るんですよね?」
それだけ呟いて脇を通り抜ける。腕を掴まれたので、振り払おうとした。
ピリリリ、と短く機械音が鳴った。
警備員がすぐに端末を耳に当てる。ええ、はい、と返す声が、無音の広い廊下に寂しく響いた。
「……案内します」
端末を耳から離すと、警備員は言った。
歩き始めた背中に付いて足を踏み出し、天井の監視カメラを見上げた。
バタン、と背後で扉が閉まると、煙の匂う室内に一人残された。
一面の窓の外は今日も分厚い曇り空に覆われた。その灰色の光を逆行に、大きなシルエットは微かに動いた。
煙が、ゆっくりと揺れる。
「何の用だ」
独特な声色が、距離があるというのにハッキリと届いた。
大きな影は椅子に腰掛け、葉巻を物々しい動きで吸い込んでいる。
「……綺羅さんのライブを、認めて下さい」
ゆっくりと口にした。
すると、息を吐くような、口を鳴らすような、独特な相槌が返った。
葉巻を口に咥える。
「何を言い出すかと思えば」
フーッ…………と吐き出された濃い煙は、薄暗闇の中、ユラユラ天井へと登っていく。
暫くの間、呼吸も潜めてしまう程の重苦しい沈黙に場を支配された。
「そんな事より、」
キィ、と椅子が軋むが鳴った。黒い影は高く大きく姿を変えると、重い靴音を鳴らした。
コートの揺れる音と、靴音と共に、距離が近づく。
目の前で相対した時、その影にこの身は全て覆われ、景色は真っ暗に落ちた。
「うぬにはやる事がある筈だ。瑛一が駄目なら次をつくれ」
暗闇の中で微かに目を見張る。
影が近づきグッと顎を掴まれた。大きな手により無理矢理に上を向かされる。
「フーン……まあ期待は出来ぬがな。彼奴あいつも見る目がない」
指が離れる。私は顔を戻して、呼吸を整える為に、数回暗闇に息を吐いた。
いつかの横顔が脳裏に浮かび、昔々の音が記憶に蘇った。
「……貴方の曲はすたれましたか」
なに?」
今なら分かる。瑛一さんがこの人へ抱いた感情、抱いて欲しいと求めた感情。
それらが少なからず瑛一さんの活力になっていたこと、ずっと近くに寄り添える今なら。
「廃れましたか」
「何が言いたい」
頭上から見下ろす瞳は、サングラスの奥で鈍い光を放つ。
「貴方は引退したかもしれない、栄光は塗り替えられたかもしれない。でも貴方の曲の威厳は、圧倒的力は、……永久とわに失われることはないんです」
それが音楽だと信じる。いつだって音を鳴らせば鮮明に蘇る。呼吸も血の気も思いも全てが。例えその身が朽ちたとしても。
「瑛一さんだって同じです。失敗なんかじゃない、あの人の輝きは永遠に残り続ける。音楽という形で、エンジェルや世界中に。無かったことになんてならない」
腰の横で握り締めていた拳を、不意に解く。視線を指先に落とせば、暗闇の中でも、光りを教えた。
「そして瑛一さんにはHE★VENSがある。それが貴方と違うところです」
指先を握って、顔を上げた。サングラスの向こうと眼が合う。
「瑛一さんの夢は消えない、消させない、HE★VENSがある限り、鳳瑛一はアイドルで在り続けるんです。もっと上へ、天高くへ、誰も辿り着けない景色へ、進んで行くんだ、これからも! ……それを私が、HE★VENSが……叶える、何を賭してでも」
サングラスの中の瞳は、やがて光の角度が変わると反射光に遮られた。見据え続けるが、その色に変化があるのかは分からない。
「…………」
言葉に限界があるのを知っている。この身の全てを一番にていせる物は、音楽の他に無いのだから。
「…………だから、HE★VENSの未来を示す曲を……エンジェルに、世界に、瑛一さんに、もう一度HE★VENSという夢をみせる曲を……どうか届けさせて下さい」
視線を下げ、それから徐に頭を下げた。
粛然とした沈黙が長く続いた。
「……良かろう」
バッと顔を上げる。
ただし!」
力強い語気が響き渡る。
「一切援助はせぬ、許可をするだけだ。後は汝等うぬらでどうにかしろ」
反射光の薄れたレンズの向こうには、皺を寄せた華やかな瞳が見えた。
コートが翻る。
「…………ありがとうございます」
「それと」
背中は足を止め、口を開いた。顔は見えない。
「……瑛一は分かっていると思うが、わし汝等うぬらの結婚は認めない。瑛一には二度とこの事務所の敷居を跨がぬように言ってある。うぬもそのつもりで過ごせ……ただの作曲家だ、それ以上など無い」
静止の後、コツ……と靴音が響き渡った。
「…………はい、ありがとうございます」
頭を下げた視界の中で、葉巻を吹かす音を聞いた。
最後に軽く会釈をして、大きな扉を開いた。


部屋を出ると綺羅さんが立っていた。
無理矢理振り切ったのか、警備員が困ったような顔でその後ろに立っていた。
「…………」
綺羅さんが無言で私を見つめる。
私は小さく頷いてみせた。
エレベーターで下りながら口を開く。
「事務所の支援は受けられませんが……。会場の交渉も、自分達でしなければいけないかもしれません……」
そもそも会場を探す所からのスタートかもしれない。中継は不可能だろうか、事務所の力が無ければテレビ局など難しいだろうし、事務所のチャンネルも公式SNSも使えないとなれば。
「いや……充分だ……ありがとう……」
綺羅さんの瞳が、真っ直ぐこちらに向いていた。
「…………いえ……」
私は額に片手を付き、前髪を掻き上げた。振り払わなければならない暗雲が、どれだけ重いものなのか、身を以て知った気分だ。
「…………名前、」
名前を呼ばれて、顔を上げる。隣の横顔は、階数表示を見上げていた。
「……曲を……暫く……俺に任せて……くれるか……」
目を見開く。意図を測りかねて、暫く固まった。
視線がゆっくりとこちらへ向いた。思わず見つめてしまうような、不思議な眼と目が合った。
「…………必ず……叶えてみせる……」
低い声は、強い息を込めて紡いだ。
こちらへ向けている言葉なのか、自分自身に言い聞かせる決意なのか。
私は何も言い返せぬまま、エレベーターが間の抜けた音を立てた。


空気が澄んだものに変わってから、私は椅子を立って自室を出た。
廊下を歩き、リビングのドアを開く。窓の外は朝靄のボヤけた光が眩しかった。
パタン、と何か書籍でも閉じる音がして、ハッと我に返る。
「は……瑛一さん……」
ソファから長い脚が見えていた。
瑛一さんは上体を背もたれから離すと、軽く捻ってこちらへ向けた。
「朝食を作ろう」
それだけ言うと、雑誌をテーブルに置き立ち上がる。
パタパタとキッチンへ遠のくスリッパのを聞きながら、私は呆然と突っ立っていた。
瑛一さんはパジャマにカーディガンを軽く羽織った姿だった。今起きたと言うわけでもないんじゃないか、まさか。
「……瑛一さん……」
対面式のキッチンを挟んで、私は言い淀む。
IH式のコンロにフライパンを置く物音がした。手元に下げられていた視線だけが、チラリと上がる。
「……別に咎めはしないさ」
瑛一さんは静かに呟いて、頭上のキャビネットから鍋を取り出した。
蛇口から出る水が、鍋の底で暫く音を立てた。
コン、とコンロの上に鍋が置かれると、そこで物音が止んだ。代わりにスリッパの足音が響く。
キッチンを出て、立ったままの私の傍までやってきた。
フワ、と優しく腰に腕が回った。
その片腕は、私の身体を自身に引き寄せる。チュ、と頭上にリップ音が落ちた。
「少し眠るか? 朝食が出来たら起こしてやるから」
「…………」
申し訳無さと自己嫌悪で満ちる。けれども改善の意など抱けない。盲進するしかない逼迫ひっぱくした胸中に、私は何も言えずに顔を歪めた。
ポン、と一度柔く頭に手が触れた。手を握られると優しく引かれて、私はそのままソファに横たわった。

「っは」
目を見張って飛び起きる。
前髪が覆う暗い視界の中で、浅い呼吸を繰り返した。
額に両手を当てて、ソファの上で頭を抱えた。
トントントントンと、包丁とまな板が立てる軽快なリズムが聞こえていた。
「もう起きたのか? まだ五分も経ってないぞ」
キッチンへ行くと、瑛一さんが手を止めて顔を上げた。
「……大丈夫です、あんまり眠くなくて……。何か手伝いますか」
「…………」
瑛一さんは暫くこちらを見つめたが、何も言わずに料理を再開した。
「いや、お前は身支度を済ませてきたらいい。今日も早くに出るんだろう?」
俯いた角度だと、眼鏡のフレームの隙間から、伏せた長い睫毛が窺えた。
『憧れの存在だった。誰のどの曲よりも聴いたさ』
『HE★VENSはまだまだ高みを目指せる。宇宙へだって天国へだって、何処へだってな』
『今度はお前が見せてくれ。俺にあの夜に見た夢の、その先を』
「……はい」
静かに呟いて、フラリと爪先の向きを変えた。
脳裏に浮かぶ光景を振り払うために、身体の横で拳を握った。


朝早くに出掛け、事務所のレコーディングルームに篭る。時間になると打ち合わせなどの仕事に向かい、終えるとまた事務所で作業をし、夜も帰宅は遅くなる。
夕飯を食しベッドに入った後、夜中に起きだして朝まで自室に篭る。
そんな生活が数日続いた。
「あれ〜名前、美味しそうなの食べてる〜!」
事務所の休憩スペースで箸を片手にしていたら、背中に聞き慣れた声が掛かった。
「あ……ナギさん、シオンさん……お疲れ様です」
ナギさんは悪戯でも仕掛けるような顔をしてこちらへ近づいて来た。が、私のもう片方の手を見て、呆れたように顔を歪めた。片手には五線紙がある。
「ナギ達もさっきお弁当だったんだよ? すっごく美味しかった! ね、シオン?」
「天草が普段食さぬものだったが……美しい景色を眺めながら食す味というのはまた格別……素晴らしい経験だった」
「紅葉ロケだったんだよ」とナギさんが教えてくれる。
丸テーブルには囲むように椅子が三つ並べられており、ナギさんがその一つの背もたれを抱くように腕を引っ掛ける。
「ていうかさーあ、名前がお弁当って珍しいよね? それってもしかして〜……愛妻弁当?」
ナギさんがわざとらしく首を傾げた。
「『愛妻』……いやそういう訳じゃ……」
というかそれだと立場が逆だ。
「なんと」
シオンさんが目を丸くして、物珍しそうに弁当箱を眺める。
「何故かわからないですけど、持たされてしまって……」
この数日昼食は取っていなかったが、帰って中身の残った弁当箱を返す訳にはいかず。
「あ、食べますか……?」
シオンさんがあまりにしげしげと眺めるので、声を掛けた。
「いや、」
だがシオンさんははっきりと首を振ると、柔らかく微笑んだ。
「これは其方そなたへの愛が込められた結晶だ。天草が食すものではない」
笑みを向けられる。珍しいシオンさんの笑顔にか、その言葉にか、私は動きを止めた。
「ちゃーんと味わって食べなきゃね〜名前」
ナギさんがニヤニヤと笑みを浮かべながら、私の片手から五線紙を引き抜いた。

「ありがとうございました、美味しかったです」
帰宅して弁当箱を返すと、瑛一さんは蓋を開けて一つ笑みを浮かべた。
「そうか、良かった。明日も作ろう」
私は言葉に詰まって、ただ視線を指先へ落とした。
この人はこんなにも与えてくれる。それに返さなければいけない。
だが私が出来る事など、一つだ。
スタンドライトに照らされる五線を見つめる。
綺羅さんは任せてほしいと言った、あれから綺羅さんとは会えていない。
綺羅さんに何か考えがあるなら、待っていればいいんだろうか。だが。

暗く暗く、常闇だった。
暗澹の他には存在せず、音も聞こえぬ酷く寂しい空間だった。
その中を歩んでいく。
一等星が光っていた。それが光明だった。
明かりが、不意に遠のく。
雲でも掛かったように、眼前が影で覆われていくように、見失いかける。
地面を蹴って駆け出す。
後ろを振り返るゆとりなど無い、光は先にしか無いことを知っている。あの人の元にしか無いことを知っている。
背中に向かって手を伸ばすことが許されないことも、私の拙い言葉では何一つ届かないことも。
選択肢など駆ける以外に遠になく、けれども距離は果てしない気がして。
闇の蔦が眼前を覆う光景を、マクロの光まで吸い尽くす光景を。
背中が、闇で遠のいていく光景を。
何度と繰り返して、目を覚ます。

額へ手を当て、呼吸を繰り返した。
スタンドライトに照らされる五線上の黒い玉が、二重になって三重に見える。
きつく瞼を閉じて、カタリと椅子を立ち上がった。
洗面所で顔に冷水を浴びて戻ってくると、高い影がドアの前に立っていた。
私は立ち尽くすように足を止めた。相手の視線がこちらに向いた。
瑛一さんは暫くこちらを見つめてから、肩の力を抜くように息を吐いた。
「コーヒーでも淹れるか? 夜は冷えるだろう」
暗い廊下に優しい声が落ちる。
「……いえ……大丈夫です……」
額に手を添える。
前髪がパラパラと落ちた。
「……瑛一さん、先に寝てください……私は平気ですから」
手を離して顔を上げれば、すぐ側にシャツの皺があって驚いた。
頭の後ろを大きな手で柔く押さえられる。頭頂でリップ音が鳴る。
乱れていた私の前髪をその手で直しながら、瑛一さんは口を開く。
「俺が好きで起きているんだ、お前は気にしなくていい」
優しい声が落ちてくる。
私は顔を歪めた。身体の横で拳を握る。
「そんな……迷惑ばかりかけられません」
片足を後ろへ引いたが、手首を掴まれる。
「迷惑? そんな風に思ったことは一度もない」
「でも……」
「名前、」
名前と共に、両手を掴まれる。その肌に沿うように指は触れて、優しく手を握った。
「ならばお前はどうなんだ、名前。愛する相手に、自分の全てを捧げたいと思ったことはないか?」
目を見開く。繋ぐ手に力が込められたのが分かった。
「お前の歌が語る愛は、そういう愛だと感じたのは……俺の勘違いではないだろう?」
指が動く。私の手の甲を撫でるように。
「俺とお前は似ている。お前に尽くすことが俺にとって幸福以外の何でもないこと……お前にはわかるだろう」
片手が離れ、その親指がゆっくりと頬に触れる。
顔を上げれば、惚けたように細めた目と目が合い、ゆっくりと微笑みに変わる。
「何があろうと俺はお前の味方だ、ずっとそばに居ると誓う」
頬を大きなその手が包み、親指が下眼輪をなぞった。
繋いだ手を柔く引き寄せられて、身体が胸の中に抱かれる。
そうして頬の手は、顔を上へと向かせる。影が近づき、唇が密した。
体温を運ぶような、優しい口づけだった。
再び抱き寄せられて、胸の中に沈む。
暗闇の視界は、けれども温かい体温が香って、鼓動の音もこんなに近く。
闇雲でも走り続けていないと恐ろしかったのだ。闇に足を取られて貴方に、永遠に追いつけない未来が幾度とよぎって。
堪えるために息を吸い込むと、鼻をすする音が響いてしまった。
微かに笑うような振動が伝った。
ポン、ポン、と背中を優しくあやしながら、声がする。
「……不謹慎だな。お前の涙が見られることが、嬉しいと思ってしまう」


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