819の日記念企画


 カーテンの隙間から差し込む陽光に、今一度瞳をぎゅっと皺ばめてからゆっくりと開ける。ぱちぱちと弾けた視界の先で、カーテンのほかに太陽の光を遮るなにかがぼんやりと映り、いつものように腕を伸ばせば、小さな笑声が目の前の人から零れた。ふに、と上唇を優しく噛む柔らかい感触に、こちらまで笑みが零れてしまう。
 伸ばした腕が僅かに持ち上げられ、浮いた背中とベッドの間に筋肉質の腕が滑り込んだ。そのまま抱き寄せてくれたので、私も負けじと首に腕を回す。なんて幸せな朝だろうか。

「おはよ」

 耳元で聴こえた聊か掠れた挨拶に同じように返して、今度は私から触れるだけのキスを頬に贈る。私よりも早起きが得意な鉄朗にこうして起こしてもらう日常が、今日も愛おしい。

「起きましたか?」

 二度寝をしないか、寝惚けていないかをチェックするように顔を覗き込む鉄朗に、欠伸を噛み締めながら頷いたのに、「まだ眠い?」とどうしても見抜かれてしまう。私はきっと一生鉄朗に勝てないのだろう。

「まだ寝てる?」
「……いいの?」
「可愛い可愛い奥さんのお願いですから。それに今日休みだからなあ」

 なんて、頭を撫でながら甘やかすことを言う鉄朗はやはり優しい。
 ヘッドボードに置かれたスマホを、鉄朗がタップして表示してくれた時間はいつも起きる時間よりも幾分早起きだったので、お言葉に甘えるように体の力を抜いた。だらりと脱力する体、優しくベッドへと寝かされる上半身、髪の毛を撫でた指、額に落ちた優しい体温。真綿を撫でるような、どろどろに溶かされた蜂蜜のような扱いに、なんだかくすぐったくなってしまう。
 一方、寝かしつけるように私の頭を撫でた鉄朗は、のそのそと立ち上がると、私たちのベッドの隣に置かれているベビーベッドを覗き込んだ。

「ママはもう少し寝るってさ。パパが昨日無理させちゃったからだな」

 すやすやと指を咥えて眠る10か月前に生まれた娘を起こさないように抱き上げて、鼻と鼻をくっつける。「口同士のキスは虫歯の原因だから駄目だってさ」と、前にテレビで流れていた情報を意識する鉄朗にまたもや笑ってしまった。そしてまた、娘をベッドに寝かせて頬や腕やらをツンツンと一通り撫でると、満足げに私のベッドへと踵を返し、布団を捲り寝転んだ。絡んだ足と首の下を通る腕に導かれて、胸板に顔を埋める。

「鉄朗も寝るの?」
「……もう少しくっつきたくなったって言ったら笑う?」
「うん、好きだなあって笑っちゃう」
「それは光栄デス」

 どうせまた起きたら、鉄朗は枕で頭を挟んで寝ているのだろう。くっつくのは最初だけ。それもいつもと変わらない。けれどその日常が、やはり愛おしいのだ。








          **

 買い物をしようか、どこか外食へ行こうか、動物園か遊園地でも行こうか。と、色々な娯楽を考えて、結局は家でゆっくりするという結論で落ち着いた。バレーボール協会で働く鉄朗は、なかなかの多忙を極めており、こうして平日にソファに座ってゆっくりしている姿はとても珍しい。有給様々である。
午前中のうちに2人で洗濯機を回して、お風呂を掃除して、掃除機をかけて、昼食をとって、その食器を洗って、やっとソファに腰をかけることができた。
 連日の勤務で疲れているはずなのに、率先して手伝ってくれる姿は昔の主将時代を彷彿とさせる。鉄朗が主将になってからは、部の雰囲気が良くなっただけではなく、掃除などにおいて、無駄や効率の悪さがなくなったのでその分集中して部活に励むことができた。そして、テキパキと主将の仕事をこなす姿に何度も惚れ直したのだ。

「何ニヤけてんだよ」
「昔のことを、ね」
「ふーん?」

 誤魔化すように首を振ってもきっと鉄朗にはバレている。それならそれでいい。ネタばらしをしたところで『僕が優秀なのは元からです』と返されるだけだろう。

「今も昔も幸せだなって思っただけだよ」
「それは良かった」

鉄朗の腕の中ですやすやと眠る娘の頬を撫でながら、ベランダで揺れている洗濯物と、雲一つない晴天のコントラストに幸甚を噛み締める。鉄朗と結婚してから幾年、部屋の中を見渡せば、数々の鉄朗や娘との思い出が並べられていた。その中でも、テーブルの上に置かれた卓上カレンダーの、花丸と誕生日ケーキのシールが貼られた11月17日の枠が輝いて見える。11月17日は私達にとって大事な日なのだ。

「そういえば高3の今日は東京予選の決勝だったね」
「春高決まったやつな。もう10年くらい前か?」
「うん。私が鉄朗に告白したのもその日だからね」
「正直言うと名前も俺のこと好きなんだろうなって思ってた」
「やっぱり?」

 思い浮かべるのは春高東京予選決勝の日。まだ鉄朗とは付き合っていなかったけれど、一緒に帰ったり、隣を歩いている時はわざとに小指をくっつけてみたり、寝る前に電話をしてみたり――いわゆる良い雰囲気ではあった。お互いがお互いに恋情を抱いていることはなんとなく気づいたし、はてさてどっちが先に言うかと駆け引きが行われていた。酷くもどかしい期間だ。
 結局は私が鉄朗に告白をしたのだが。東京予選決勝の帰り道である。

「そしてモンジェネ世代が集まったブラックジャッカルとアドラーズの試合も11月17日だった」
「そうそう。からの、俺が名前にプロポーズしたのも翌年の11月17日」

 告白は名前がしてくれたから、プロポーズは俺からさせてほしかったんだよね――。
 私が返事をしたあとに、そんなネタ晴らしを聴いて思わず笑ってしまったのは記憶に新しい。
 周りにとってはなんてことない日でも、私たちにとってはこれ以上ないくらい特別な日である。毎年捨ててしまうスケジュール帳を取っておけばよかったと後悔するほど、11月17日には思い入れが強い。

「鉄朗、お誕生日おめでとう」
「ありがと」

 もう何度目か分からない祝福の言葉を紡いで、ゆっくりと近づいてきた相貌にそっと目を閉じた。拍子に、がさりとソファと布が擦れた音が耳を打って、そして後頭部に回る腕。次第に訪れるであろう感触を堪能しようとしたところで、きゃっきゃと愛らしい声が下から聞こえた。二人揃って声の方への視線を落とせば、幸せの象徴が、小さな掌を一所懸命に伸ばしていた。それを、父と母の手で繋ぐ。





title:溺れる覚悟 様
res:優様へ



いとしさに抱かれるのさ

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