819の日記念企画


「名前、見すぎ」

 窘めると言うよりもどこか呆れたような、揶揄うような声が頭上から聞こえて、名前は後ろを振り向いた。わざわざ席を立ち口元を緩ませている先輩兼幼馴染は、新しい玩具を見つけた少年のような顔をしている。プライバシーもあったものじゃないと、勢いよく持っていたスマートフォンの画面を胸元に押し付けても、既にこの男にはバレているのだ。ただでさえ勘の鋭い男なのに。

「昨日からこの状態だし無駄だよ」
「お前もだぞ、研磨。酔うからバスの中でゲームすんな」
「別に酔わない」
「私も別に酔わない!」

 先輩兼幼馴染の黒尾は、並んでそれぞれのスマートフォンを凝視している兄妹に車酔いもといバス酔いの忠告をしようと席を立ったのだろう。しかし、否、だからこそ2人が素直に聞く性格でもないこともよく解っており、顔は呆れ返っている。

「お前らな……」
「まぁまぁ。移動の時くらい大目に見てやれよ」
「そうやって甘やかすのは良くないと思いマース」

 相変わらずこのチームは孤爪兄妹を甘やかす。黒尾は、聞き分けがない2人にため息を吐き、肩を竦めながら再度席へと腰を下ろした。
 助け舟を出した夜久は、なんだかんだお前が一番甘やかすだろと内心思いつつも、口に出すことはやめた。

 やっと黒尾の視線から逃れた名前は、暗くなってしまったロック画面をタップして、パスワードを入力する。慣れた手つきでアプリを開き、先程同様、トークの一番上に表示されている名前とメッセージを眺めた。

『また明日ね』文面は絵文字も顔文字もない至ってシンプルなものだ。この会話はほぼ毎日されているもので、その度に名前は心が温まる思いをしているのだが、今回は殊更に特別である。
 いつもの、『また明日ね』に『はい! おやすみなさい!』と返す会話に、『明日会えるの楽しみです!』『俺も』が加わった。このメッセージを受け取った時、ベッドの上でバタバタと足をばたつかせてスクリーンショットを撮ってしまったくらいには、名前は幸せをかみ締めていた。
 何せお互いに忙しくてなかなか時間も合わない。最後に会ったのは9月に行われた練習試合である。その時の会話らしい会話は挨拶くらいだ。今回の合宿は8月の長期合宿ぶりに烏野も参加するので、果たして時間が取れるのか悩ましいけれど、名前としては会えるだけでも幸せである。
 5月の今年度一番最初の練習試合で一目惚れをした名前が、振り向いてもらうために何度も何度もアプローチを続けた結果が今である。付き合って2ヶ月め、順調すぎて幸せすぎて死にそうです。

「早く着かないかな……」
「ずっと着かなくていいよ」

 合宿が楽しみで仕方がない妹と合宿に億劫を感じる兄。その温度差に、周りにいた部員は静かに吹き出すこととなる。










          **

「赤葦さん!」

 梟谷学園男子バレー部員たちの言葉を借りれば、飼い主を見つけた子犬、迷子センターで親を待つ子供、ヒーローを待つ特撮ものヒロインである。子犬、子供、ヒロインと称された少女は、休憩中、赤葦が廊下に出たところを見計らい、ぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべながら、タオルで汗を拭う赤葦の元へと駆け寄っていった。

「お疲れ様」
「お疲れ様です!」

 赤葦も満更ではないようで、自身の前で急ブレーキをかけた名前の頭をゆっくりと撫でながら、久しぶりの恋人の体温を堪能している。そうすれば、大好きな赤葦に撫でて貰えた名前は、幸せそうに目尻を皺ばめるのだ。
 本当にあの孤爪研磨の妹なのかと疑ってしまうほど、素直なこの子がどうしたって可愛い。

「会いたかったです……」

 人目を気にせず、ぎゅうっと抱きついてくる名前の背中にさりげなく腕を回して、ぽんぽんと優しく撫でてやれば、名前の腕の力が強くなる。「俺汗くさくない?」「くさくないです! 赤葦先輩の香りはいつでもフローラルです!」「……そう」だなんて会話も心地がいい。
 四方八方から飛び交う生温かい視線や、情景に若干引いている彼女の兄からの視線はたしかに少し気まずいけれど、それだけではこの可愛い少女を引き剥がす理由にはならない。幸い、顧問たちは教官室にいるので咎める人もいないし、各主将たちは窘めるどころかニヤニヤと口角を緩ませているのだ。
 しかし、時間は無限にあるわけではない。特にこの数多の学校が集う合宿中は、分刻みでスケジュールが組まれている。副主将という立場であるからこそ、積極的にオンとオフを切り替えていかなければいけない。

「休憩そろそろ終わるよ」
「……足りないです」
「名前……」

 名前もそれはよくわかっていた。我儘は赤葦を困らせるだけで、今の私はただの我儘野郎だということを。けれど、一度くっついてしまうとどうしても足りないと感じてしまう。しかし、それで嫌われるのならば本末転倒、名前はゆっくりと赤葦の背中から腕を離した。一歩後ろに下がって距離をとる。震える体から涙が溢れてしまわないように、きゅっと下唇を噛んで耐えた。

「夜にさ、」
「よる?」
「うん。時間作るから俺と会って欲しい」
「っ、赤葦さん……」

 顔を伏せた名前の髪を梳かして、そんなことを言った赤葦に、いよいよ双眸に張っていた涙が頬を伝った。

「だから泣かないで?」

 頭を撫でていた赤葦の指が、そのまま頬骨を滑って目尻を撫でる。その手を捕まえて名前は頬に擦り寄せ、掌に唇を押し付けた。目に力を入れて、これ以上赤葦の前で泣いてしまわないようにきつく口を結ぶ。

「いい子」

 赤葦の声は酷く優しかった。

「夜、いっぱい触ってもいいですか?」
「さ、さわって……? うん、いいよ」

 理性的に言い聞かせた赤葦とはいえ、僅かでもいいから付き合ったばかりの彼女と触れ合いたいと思っていたので、名前からの申し出を拒否することは無い。少しばかり引っ掛るような物言いであったものの、深くは考えなかった。むしろ可愛いとさえも思う。

「じゃあそろそろ戻ろっか」
「はい」

 しかしこの時。赤葦と名前の間に僅かなズレが生じていたことを、部員の元へと戻り、マネージャーが用意してくれたシューダスターシートを踏んだ赤葦は気づいていない。








          **

 室内といえど10月合宿の夜は冷え込むもの。予め名前には上着を羽織ってくるようにと伝えていたからか、しっかりと赤いジャージを着込んでいる。消灯まで残り40分ほど、少しでも赤葦といられるようにと既に歯磨きまで済ませたという報告を受け、赤葦は思わず笑みを零した。可愛いなあ。
 宣言通り、出会い頭に赤葦に抱きついた名前は、ぎゅうぎゅうとしがみついている。それ程までに寂しい思いをさせてしまっていたのかと申し訳ない気持ちになるものの、特に平日はなかなか時間を作ることが出来ず、どうすることも出来ない歯がゆさに、奥歯を噛み締めるしかなかった。
 だからこそ、こうした僅かな時間でも、なるべく甘やかしてあげたいと思っている。

「赤葦さんの香りって落ち着きます」
「それは良かった」

 風呂上がりの自分の匂いになにか特別な効果があるとは思えないが、嫌悪感を抱かれるよりはよっぽど良い。それに、鼻孔をくすぐる恋人の香りに癒しを感じるのは赤葦だってよくわかっている。

「名前もいい匂いだね」
「本当ですか!? 実は赤葦さんにいい匂いって言ってもらうために選んでみたんです」
「そうなんだ」

 なんだこの可愛い生き物は。ドラッグストアなのかデパートなのかは分からないけれど、サンプルを鼻に近づけて選んでくれたのだろう。しかも俺の好みを考えながら――。
 未だに、赤葦のジャージにしがみついている彼女から顔が見えないことをいいことに、緩む頬を引き締めることすらやめた。

 それからお互いに体に腕を回している状態で、会えなかった時間を補充するように色々な話をしてみる。消灯まであと15分、後ろ髪を引かれる思いでそろそろ部屋へ戻る提案をしようと、立ち上がった時だった。
 突如、赤葦の背中に回っていた掌が上下に滑ったかと思えば、そのままジャージの中に侵入し、ぺたりと肌と肌が吸い付いた。もちろん犯人は目の前の可愛い彼女しかいない。

「え!?」

 突然素肌に触れた掌に、ビクッと体を揺らし、間抜けな声を出してしまったのがなんとも情けない。しかし、言い訳をさせてもらうと、まさか名前が直接背中を触ってくると思っていなかった。事故や誤りなのかとも身構えたが、名前に変わった様子はなく、未だに赤葦にしがみついている。

「名前……?」
「赤葦さんの背中すべすべのもちもちで赤ちゃんみたいです……しかも筋肉ついてるのに細いなんて……」
「え、ちょっ、」
「きっと前も腹筋が凄いんだろうなあ」

 そう言うや否や、腰やら背中やらをぺたぺたと撫でていた手が前へと移動し、赤葦が抵抗する前にTシャツを捲りあげた。そしてそのまま、ズボりと服の中に頭を入れる。

「胸筋も素敵……」

 誘われているんだろうか。
 ここが学校ではなくベッドの上だったら、きっといただきますをしていたかもしれない。未だにちゅっちゅと胸元に口付けをしている名前の腰を撫でながら、赤葦はそんなことを思う。とりあえず学校でセクハラはやめて欲しい。








title:溺れる覚悟 様
res:ぴー様へ



なあ僕は充分頑張ったよな

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