819の日記念企画


 一般的に言えば『付き合って3年』が長いのか短いのかは分からない。それでも私は、この3年間を大事にしてきたつもりだし彼のことはきちんと好きだった。記念日は忘れたことはなかったし、四季折々のイベント事もそれなりに頑張ってきたつもりである。社会人だしね、と言い利かせてお祝い事になればそこそこに値の張るプレゼントだってしてきた。このまま順調にいけば結婚という選択肢もあると思っていたし、彼とならばそのゴールで足を揃えたいとも思っていた。それなりに、きちんと。

 付き合って3年、正確に言えば付き合って2年と11ヶ月と16日。支社がある北海道への出張の日程が天候の影響で1日早まり、おかげで予定よりも早く宮城に帰ってくることができた。その疲れを癒そうと仙台空港から彼が一人暮らしする家に直行したのが全ての間違いだった。いや、今思えば正解だったのかもしれない。

 1時間ほど前に送ったにも関わらず一向に既読にならないアプリを不思議に思いながらも、特に考えなしに鳴らしたインターフォン。暫くは音沙汰なしと言った具合に玄関が開くことはなかった。外から見上げた部屋は明かりが点いていたから、もしかしたら寝ているのかもしれない。そう、推測してここで帰っていれば良かったのかもしれないし、彼もそれを望んでいたのだろうけれど、私はもう一度そのインターフォンを鳴らしてしまった。
 やっと、とたとたと覚束ない足が玄関を隔てて聴こえた。やっぱり寝ていたのかも、ってちょっと申し訳なく思いながら待つと開かれる扉。そこに立っていたのは眠たそうに目を擦る、知らない女だった。

「なんですかあ?」

 間延びした声のその女の格好は、遠回しに言えば随分とラフな格好で、はっきりと言えばパジャマみたいなそれ。髪も乱れており、いかにも今まで寝ていましたと格好が表していた。頭が冴えたのだろうか私を認識した女がその大きな瞳を見開き、次第に眉を潜める。「誰ですか?」訝し気にこちらをねめつける女の顔に嘘は見られず、ああ、彼女も一種の被害者なのかと段々と頭が冷えていく。ただ被害者だとしても赦す気になれるかと言われたら悩ましいけれど。

「あなたこそ誰ですか」

 ここ最近で一番を飾るのではないかと思えるほどの低い声が口から零れて、更に女の顔が歪んだところでどたどたと泡を食ったような足音。遅れて登場だなんてまるでヒーローみたいだけれど、もしこれがヒーローならば地球は崩壊することだろう。

「なんで……」

 私と女を交互に見据える彼は、一言ぽつりと言った。なんで、だなんてこちらのセリフだ。帰宅が1日早まった出張、彼氏の家のインターフォンを鳴らしたのに何故か眠たげな女に出迎えられ、慌ててやってきたこちらも明らかに寝ていたであろう男が上半身裸だなんて、素人でさえもすぐに答えが出そうな事件は、私がドアを思いきり閉めたことによってその日は幕を閉じた。

『最後に話がしたい』

 舐め腐ったメールを送ってきたのは翌日のことだった。皮肉にも出張による振り替えのおかげで仕事が休みで、怒りから酒で飲み荒れていた午後1時のことである。メッセージアプリは彼の家のエレベーターに乗って地上へと下りている間に速攻ブロックをしたので、それに気づいてから何度かメールが送られていた。話すことは特にないが、たしかに話す必要はあるのかもしれないと渋々了承し、1週間後に近くの喫茶店で話をすることになった。

 結局喫茶店では、彼の大層な弁明が長々と紡がれるだけで、最終的にはあの女が悪いと浮気相手に全ての罪を擦り付けようとさえもしていた。もはや幻滅や怒りや悲しみやら超えて無である。人間、嫌いを超えると無になるらしい。泣き言と浮気相手の愚痴、俺は悪くないというただの言い訳。長々と紡がれるそれらに、『無理だから』と一刀両断すれば、『俺だってお前みたいな女は無理だわ。少しくらい許してくれてもいいだろ』というザマである。

『俺がお前をフッたんだからな』悪役もびっくりな捨て台詞を吐き出した男は、どすどすと足音を鳴らしながら喫茶店から出て行った。正直どちらがフッたとかもうどうでも良すぎるのだが、喫茶店でこのようなお見苦しい争いををしてしまったことに申し訳なさを感じながら身を縮ませて私も店から出たのだ。それが1時間前のこと。


「むっかつくなー、」

 フラれたという押し付けも、別れたという事実も、もうどうでも良いのだけれど、それでもやはり足の底から湧き上がる怒り。こういう時は酒でも飲んで嫌なことを全て忘れてしまいたいと思うが、この時間から友達を呼ぶのは少々申し訳ない。明日が普通に平日であることも気が進まないひとつの要因である。

「一発くらい蹴っておけば良かったー!」

 よくあるヤンキー漫画みたいな喧嘩とは無縁な生活を送ってきたとはいえ、あの男に怒りを物理的にぶつけることくらい許されてもいいはずだ。物に当たるのは良くないことは分かっているけれど、当たりたくなる気持ちも十二分に理解できる。

「傷害罪は見過ごせないな」

 ふと、後ろから聴こえてきた宥めるような窘めるような声。そういえばここ交番前だった。やってしまった、と背中を冷やしながら急いで振り向くと、そこには見慣れた、けれども懐かしい人物と目が合った。

「澤村!」
「おお、やっぱり名字か。久しぶりに見かけたと思ったら随分と荒れてるんだな」
「え、と、それは……はい」

 にこにこと人の良い笑みを浮かべる澤村は、烏野時代の同級生である。たしかバレー部の主将も務めていたはずで、その高校時代から備わっていた貫禄さは今も健在のよう。最後に会ったのは成人式の同窓会で、警察になるべく今後国家試験を受ける予定だと聞いたことがある。大学卒業後、潔子ちゃんから聴いた話によれば、見事に警察官採用試験に受かった澤村は6か月ほど警察学校に通い晴れて警察官になったのだとか。

 傷害罪と捉えられてしまうらしい一言を聞かれたのが澤村で良かったと肩を撫でおろし、改めて澤村の隣に並んでみる。なんというかさらに体格が良くなったみたいだ。ジーンズにパーカーというラフな格好なのに逞しさがよく分かる。

「というか私服?」
「ちょうど帰るとこだったから」
「なるほどね」

 たしかに澤村は交番の横側のドア付近にいたかもしれない。ならばやはりここは澤村が勤務しているらしい交番。困ったことがあったらここを頼ろうと心に決めて、澤村に続いて自然と一歩を踏み出した。

「それで? 名字はどうしてそんなに荒れていたんだ?」
「あー、訊いちゃう?」
「言いたくないなら無理には訊かないよ。でも名字は、昔から誰かに言った方がすっきりするタイプだったから」
「さすが澤村だね」
「あとは誰かと暴れたいタイプ」
「なんかその言い方はちょっと恥ずかしいかな」

 そんな昔のことまで覚えていてくれるだなんて、さすがの一言に尽きる。たしかに私は嫌なことがあれば友人たちとカラオケに行ってストレスを発散させたり、ひたすら電話で愚痴ったり、暴飲暴食をしたりとジッとしていられるタイプではなかった。「楽しい話ではないけど、良い?」そう前置きをした口は止まることを知らない。











          **

 変わらず逞しくて貫禄があって温かみがある笑みを浮かべる澤村の顔と声が酷く優しくて、私はひたすら澤村に愚痴を零していた。出張から帰ってきた日に浮気現場に遭遇してしまったこと、先程まで元カレと話していたこと、そこで目の当たりにした元カレの姿や仕草のこと。
 気づけば公園の椅子に座っていて、澤村が自販機で買ってくれたスポーツドリンクを飲んでいて、ティッシュまで渡されて、顔面は涙でぐちゃぐちゃになっていて。それでも澤村はひたすらに相槌を打ったり同調してくれたり、顔を顰めたりと最後まで耳を傾けてくれた。
 そして最後は澤村が大きな掌で私の頭を撫でてくれていた。「名字はよく頑張ったよ」という励ましをくっつけて。それでまた泣いてしまったのは言わずもがなだ。

「別れ話で交番に相談しに来る人がたまにいるんだけどさ、」
「そうなの? まずは警察署とか行きそうだけど」
「まあそうなんだけど。でも先に交番に来る人もいる。多分交番の方が来やすいんだろうな。そこで、ストーカー被害を訴える人も少なくない」
「……怖いね」

 間合いを読んだ澤村が話してくれた事件は、フラれた腹いせにストーカーになった男の話でなんともタイムリーな話題に背中が冷えた。明日は我が身だというのはまさしくこのこと。

「あいつもそうなったらどうしよう」

 いくら彼の中でフったのが自分になっているとはいえ、いつおかしな行動をするかは分からない。

「その時は守りますよ」
「っ、」

 多分澤村は警察官としての任務を全うしようとしているだけのこと。それはよく分かっている。けれど、それでも――。





res:美和様へ



ときめいてしまったのです

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