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2.1 

ピピピピ、ピピピピ。機械的なアラーム音で目が覚める。見慣れた部屋の天井が視界に入り、徐々に頭が冴えてくると、真っ先に思い浮かんだのはナックルとシュートのことだった。昨日、雨の中で突然二人に出会い、家に連れてきた。奇妙な御縁で、一週間彼らと一緒に暮らすことになった。ナックルお手製の美味しいキムチチャーハンを食べ、物覚えの良いシュートにパソコンの使い方を教えた。
――ひょっとして、全て夢だったのではないか。むしろこれだけの超展開となれば、その方がよっぽど納得がいく。

すぐにリビングへ向かうと、そこには綺麗に畳まれた二組の布団。次いで、キッチンからコーヒーの良い匂いと何かをジャージャーと炒める音がした。
さらに、昨日三人で囲んだ食卓に手際よく食器を並べるその人は、起きてきた私に気づき、親しげに言う。

「おう、よく眠れたか?」
「、ナックル……」

思わず息を呑んでしまった。やっぱり、全て現実だったんだ。大変で落ち着かない非日常になることは容易に想像できるけれど、それを遥かに超える期待を隠しきれない。

「うん、眠れたよ。おはよう、ナックル。 シュートも、おはよう!」

ナックルに改めて返事をした後、今朝の料理担当のためキッチンで腕を振るっているであろうシュートにも声をかける。聞こえていないのか、返事はない。

「昨日の夜、『明日は何時起きだ?』って私に聞いたのは、それより早く起きて準備するためだったんだね」
「まあな。同じ時間に起きてちゃ朝メシも昼メシもまともに作れねーだろ。そうそう、弁当ももう出来てるぞ」
「はやっ! ありがたすぎる……」

感謝の気持ちがあふれて仕方ない一方で、慣れない環境にいる二人に相当無理をさせているようで申し訳なかったが、また昨晩と同じ問答を繰り返すのもかえって失礼に思えた。
何せ二人とも、一度決めたことはそう簡単には曲げたがらない性格だ。
いっそ開き直って、この一週間はお言葉に甘えてしまおうか。誘惑に弱い自分の方が、徐々に優勢になってきた。

「朝メシももう少しで出来るから、それまでに顔洗ったりしてこい」
「あ、うん! そうだね」

思えば、今の私は寝起きで顔も洗ってないし髪も梳かしていない、ひどい体たらくである。何のために寝室に鏡台を置いているのだろうか。慌てて洗面所にいくと、鏡には山姥のような女が映っていた。

「出来たぞー!」
「はーい、今行きます」

山姥から普通の女に戻る過程のついでに、簡単に化粧も済ませる。
さて、シュートが作る食事とは、どんなものだろう。昨日のナックルの料理がとても美味しかったので、自然とハードルが上がってしまう。ナックルは『漢の料理』という感じがしたが、シュートはどうなのだろうか。

「わあ……! すっごい!!」

リビングに戻った私が目にしたのは、グランドホテルのモーニングビュッフェ顔負けのメニューだった。
鮮やかなグリーンサラダ、こんがり焼いたソーセージ、ふわふわとろとろのスクランブルエッグ、絶妙な焦げ目のついたフレンチトースト、細かく刻んだリンゴ入りのヨーグルト。
どれも元々はもれなく私の家の冷蔵庫から引っ張り出したものに違いなく、あんなにありふれた庶民の食材ばかりでも、作り方を工夫するだけでこんなに豪華に生まれ変わるとは驚きである。

「シュート、ほんとにありがとう! どれもすごく美味しそうだよ」
「気に入ってもらえたなら良かった」

抑揚をつけずにそう言いながら、シュートは三つの左手を器用に動かして三人分のコーヒーをカップに注ぎ、それぞれの席に置いた。どうやら、こちらの世界でもおかまいなく、シュートの操作系能力は健在らしい。念能力とは私が思っていたよりも遥かに絶対的な力のようである。この問題は何だか難しそうなので、深く考えるのは止めにした。

「はー、綺麗……」

黄色く輝くスクランブルエッグを眺めながら、うっとりと呟いた。つい昨日までは、菓子パンとコーヒーやら、インスタントのお茶漬けやら、そんな適当極まりない朝食メニューが当たり前だったのだから、今この瞬間の幸福レベルは計り知れない。

「朝起きたら、こんなに立派なご飯を誰かが作ってくれてるなんて。幸せ過ぎて倒れそう」
「随分と大げさなことを言うんだな。早くしないと冷めるぞ」
「へへ、オメーなりに女子ウケを意識した甲斐があったな、シュート?」
「うるさい」

私の心からの感動の言葉はあっさりとシュートに受け流され、ナックルの意地悪な笑みからこぼれた悪態もこれまたあっさりと受け流された。
無言でコーヒーをすするシュートの真意は定かではないが、もしナックルの言うように、女性の好みを考えて今日の朝食を作ったのだとしたら、シュートは実に女心をよく解っている。これまで散々モテなさそうだと揶揄し続けていたのを、撤回しなければ。同時に、ファンとしては新たな一面が解って嬉しい。

シュートのビュッフェ風朝食は、味も申し分なかった。むしろ、凝った食材を使っていない分、気取らない風味があり、もりもり食べられてしまうほどだ。

「ふう、美味しかった! シュート、ごちそうさまでした」
「なかなかの食べっぷりだったな」
「そういや、そろそろ時間か?」
「そうだね。着替えて準備したらちょうどいいや」
「片付けはオレたちがやっとくから、とっとと準備しろ。あと、弁当忘れんなよ」

何だか、ナックルには古き良きオカンとしての要素が見え隠れするような気がする。原作を読む限りではそこまで感じなかったが、やはり一緒に住んでみないと解らない感覚なのだろうか。
そう思うと、今更ながら、私は世界中のナックルとシュートのファンの中で紛れもなく一番の幸せ者なのだということを改めて自覚した。他のファンにこの状況を共有できないのが申し訳ないぐらいだ。そんな思いを胸に抱いて、バッグを片手に立ち上がる。

「それじゃあ、行ってきます。帰りに食品と服、買ってくるね。お昼は家にあるもの何でも食べていいから。何かあったらメールして」
「ああ。気をつけろよ」
「仕事も頑張ってこい」

温かい声を背中に受け、私は家を出た。

外に出ると、そこに広がるのはいつもと同じ景色、同じ匂い、同じ世界。家の中で繰り広げられている非日常を言い訳に、仕事や他のことをおろそかにすることはできない。それでは、ナックルとシュートとの出会いが、私にとってマイナスだったという結論になってしまう。
深く息を吸って、歩き出す。履き慣れたお気に入りのパンプスが、耳に心地良いヒールの音を鳴らした。見上げた空は、真っ青に澄み切っていた。

***

「ただいま!」

仕事と買い物をできるだけ速やかに終え、慌ただしく帰宅した。一刻も早くナックルとシュートの無事を確かめたかったのだ。私の部屋の鍵とは別に、アパート自体にもオートロックがかかっているため、余所者が容易に侵入することはできないのだが、それでも、帰り道にふと嫌な想像が頭をよぎると、それは簡単には拭えなかった。ナックルとシュートは、この世界の人間じゃない。それだけでも狙われる可能性としては十分に思われた。もしも何者かがナックルとシュートが私の部屋にいることを突き止め、超能力か何かで鍵をこじ開け、二人をさらって――

「っ、ナックル、シュート!!」
「おー、帰ったか!」
「予想より早かったな」
「……」

玄関の鍵を開け、無我夢中でリビングへ向かうと、二人はとても自由にくつろいでいた。そりゃそうだよね、と思う一方で、安心のあまりへなへなと座り込んでしまった。

「おいおい、どうしたよ。帰るなり座り込んじまって」
「何かあったのか?」

シュートの問いかけに、力なく首を横に振る。我ながらあまりにもばかばかしいので、本当のことを話す気にはとてもなれなかった。例えるなら、急にレストランの中で居なくなった我が子を必死で探し回っていたら、いつのまにか最初に居た席に戻ってにこにこと笑っていたのを見つけて、体中の力が抜けていくような感覚。

「何でもないよ。大丈夫」
「ならいいが」
「……あ、ナックル。お弁当とっても美味しかったよ、ありがとう。具だくさんでお腹もいっぱいになった」
「そうか、そりゃ良かった。腹が減っては戦も仕事もできねェからな」

満足げに笑うナックルを見る限り、今日のお弁当は渾身の一食(?)だったのかもしれない。金平ごぼう、ちくわの磯部揚げ、ミートボールなど王道のおかずがたくさん詰め込まれた、バラエティ豊かなお弁当箱だった。
お昼休みにお弁当を開けた瞬間の私と、隣にいた同僚の女の子のテンションの上がりようといったら言うまでもない。彼女には『今朝は気合入れてきちゃった☆』等と下手な嘘をついてごまかしてあるが、相当猜疑的な目で見られていた気がするので、もしかしたらバレていたのかもしれない。

「そうそう、約束どおり服も買ってきたよ。二人それぞれ、上下三着ずつあれば足りるよね」
「すまないな。今日風呂から出たら着させてもらう」
「ありがとよ」

二人にそれぞれ新品の服を手渡した。一緒に洗濯する上で、ごちゃ混ぜにならないよう違う色のものを買ったのだが、メンズは色や形の選択肢が女性より遥かに少ないのだと初めて知り、実は結構苦労した。

「な、腹減ってるか?」
「まだ大丈夫。とりあえず着替えてくるね」

寝室で手早く動きやすいルームウェアに着替えてから、リビングに戻った。

改めてリビングを眺めてみると、何だかフローリングの床がツヤツヤしている気がする。それに、テレビの裏や部屋の隅など、今まで見て見ぬ振りをして掃除をサボってきた見えないところが随分と綺麗になっていることが解った。

「もしかして、掃除もしてくれた……?」
「こんだけ世話になってんだから、当然だろ」
「時間を持て余して、他にやることもなかったしな」
「神か……」

思わず本心が口から漏れ出してしまった。それをさも当たり前のことのようにけろりと言ってしまうところが、またいっそう人として素敵である。私も二人を見習わなくては。

「ありがとう……なんかもう感謝と感激しかない……」
「何寝ぼけたこと言ってんだよ?」
「そういえば、例の漫画も、途中まで読ませてもらった。ゴンとキルアがグリードアイランドを攻略しているところだ」
「! うん、どうだった?」

見知らぬ言語で書かれた漫画を、翻訳ページに照らし合わせて読むのは、さぞ大変だっただろう。ところがそんな苦労を少しも感じさせない雰囲気で、二人は顔を見合わせて同じタイミングでふっと表情を緩めた。

「オレたちが知っているとおりのゴンとキルアが居たよ」
「マジでそのまんまだな。あいつら、こんな風に念の修行して、色んな経験をして、今みてェに仲良くなっていったのかって思ったぜ」

ゴンとキルアのことを思い返して微笑む二人を見て、私も何だか温かな気持ちになった。ともに死線を潜り抜けた同志として、彼らもまた、特別な存在なのだろう。

「このペースでいくと、明日には三十四巻まで読み終わりそうだ」
「となると、いよいよ二人が登場するところかー」
「ああ、ますます読みたくない……」
「まだ言ってんのかよシュート!」

ナックルは笑って、豪快にシュートの肩を叩いた。体勢を崩しかけたシュートは恨めしげにナックルを睨みつけるが、依然としてカッカと笑っている。

「平和だなあ……」

そんな独り言を言ったのは生まれて初めてかもしれない。私の居場所は、二人が来てからたった二十四時間で、最高ににぎやかで楽しい場所になった。

基本的に逆トリップ作品における主人公といえば、逆トリップしてきたキャラクターが招くトラブルに巻き込まれて、常時ドタバタしている印象がある。ところがどうだ、私ときたら、逆トリップしてきた二人に迷惑を掛けられるどころか、毎食立派なご飯を作ってもらえて、掃除も洗濯もしてもらっている。それに加えて、日々の生活に潤いと刺激も与えてもらっている。恵まれ過ぎていて、逆に申し訳なくなってきた。

「そういや、今更なんだけどよ、一つ聞いていいか?」
「うん。何?」
「おめェ、彼氏とかはいねェのか? オレたちと二週間一緒に住むって即決してたけどよ、対外的にまずい事情とか、何もねェのかなって思って」

訂正。誰かに申し訳なく思うほどは、恵まれていませんでした。

「……ご安心を。彼氏はいません」
「そ、そうか」
「……おい、余計なこと言って怒らせてどうするんだ、ナックル」

ごめんシュート、小声で言ってるつもりだろうけど、この距離だと流石にばっちり聞こえてる。

「怒ってないし大丈夫だよ。確かに、ナックルが気にする理由も解るからね。そんな相手がいたら、仕事帰りに突然一緒に帰ってくるかもしれないんだし」
「そうそう、そういう意味だったんだよ」
「だが、もう少し気の利いた聞き方もあっただろう」
「シュート、もういいってば」

居ないと解った以上、もうこの話題に用はないはずだ。話を続けたところで、進展も何もないし、誰も幸せにならないのだから。

「ま、おめェなら大丈夫だ。余計なことは言わねェけど、頑張れよ」

二次元から来た人物に彼氏の有無を心配され、かつ今後の恋を応援してもらった人間なんて、この広い世界においても、せいぜい私ぐらいのものだろう。
大変貴重なありがたい経験とともに、一日は終了した。

***

金曜日。定時を過ぎた後の職場は花金ムード全開で、誰もが幸せそうな面持ちで足早に帰り支度をしていた。私も早くキリの良いところまで作業を済ませてしまおうと、必死でキーボードを叩いていた。今の私には、私の帰りを待つ大切な存在が二人も居るのだ。一秒も無駄にはしていられない。子どもが生まれたばかりの若いサラリーマンだと勘違いされそうなモノローグだが、本当なのだから仕方ない。

「頑張ってるわね。今週もお疲れ様」
「! 室長、お疲れ様です」

そのとき、私の肩に小さな手がぽんと置かれた。ふと顔を上げると、穏やかに微笑んだ室長が目に入る。彼女は室長という高いポストにありながら、とても温厚な性格で、仕草も気品があり、職員からの人気も高い。例に漏れず、私も彼女を上司として心から尊敬している。

「突然なのだけど、展覧会はお好きかしら? 実はね、私のお友達がこの展覧会の関係者で、無料招待券をたくさんもらったの」
「展覧会?」

室長は、A4のチラシを一枚手渡してくれた。『世にも奇妙なオカルト展』と書いてあり、SF映画に登場しそうなモンスターやクリーチャー、機械の写真があちこちに点在している。未確認生物の特別展示などもあるようだ。場所は、私の住むアパートからほど近いイベントスペース。日付は今週の土曜日と日曜日である。

「残念だけど、私はこの週末予定があって行けなくて……でも、お友達の親切な気持ちを無駄にしたくなかったの。だから、こうして職場の人に配らせてもらっているのよ」
「そうだったんですね」
「もちろん無理にとは言わないんだけど……」
「ありがたく頂戴します。行くかどうかはまだ解らないですが、オカルトには興味があるので嬉しいです」
「まあ、本当? ありがとう!」

実際オカルトにはそれほど興味はないが、社交辞令として最低限言っておくべきだろう。室長の素敵な笑顔に魅了された後、私は気持ちよく退社した。

***

「ただいまー。遅くなってごめんね、買い物が長引いちゃって」
「おう、おかえり」

今日もナックルが白い歯を見せて出迎えてくれ、思わずほっとする。何のトラブルもなく、私の家で過ごしてくれていたようだ。
リビングに入ると、シュートがちょうど件の漫画の三十四巻を読んでいるところだった。いつも以上のしかめっ面で、通常であれば眉毛に当たる部分には一段と深い皺が寄っている。

「シュート、ただいま。どうかした?」
「ああ、おかえり。実は今日、この三十四巻まで読み終わったのだが」

ちなみに今は左手を休ませているらしく、右手だけで器用に単行本を支えていた。

「三十四巻の続きはどうしたら読めるんだ? とても良いところで終わっているし、最終回という記載はどこにもない」
「そうそう、この漫画が連載してる週刊誌までは突き止めたんだが、そのホームページを見ても、この漫画については何も書いてねェんだ。なぁ、何か知らねェか?」

……。
『どうやったら続きが読めるのか』、この漫画のファンは一人残らず同じ疑問を抱き続けて生きているんだよ。そう伝えたいのは山々だが、ぐっと堪えた。きっとこれは、二人には教えるべきではないと直感的に判断したのだ。

「……ごめん、知らない」

次いで、どうして二人にこれを教えてはならないのか、すぐにその理由が解った。とても簡単な理屈だ。
考えたくないことだが、もし仮にこの漫画の続きが永遠に書かれなかった場合、ナックルは、シュートは、他の登場キャラクターたちは、どうなるのだろうかという未知の問題がある。ある一時点を境に、永遠に動けなくなるのではないか。だって、彼が筆を執らなければ、あの世界に未来は訪れないのだから。彼が作らなければ、あの世界は存在しないのだから。考えれば考えるほど嫌な想像ばかりが浮かんで、私はそれを断ち切るようにぶんぶんと首を横に振った。

「本当に知らないの、ごめんね」
「そうか。ならば仕方ない」
「……でも、絶対、続きはある。だから大丈夫だよ。この世界にそれが共有されるのに、少し時間がかかってるだけ」

その言葉は、ナックルでもシュートでもなく、自分に向けたものだった。

「ま、そういうことにしとくか。オレたちがこっちにいる間に読めるようになりゃ、ラッキーだけどな」

あっけらかんとしてジョークまで交えてしまうナックルに、重い気持ちがいくらか救われた気がする。彼には天性のムードメイカーとしての才能があるのかもしれない。シュートの表情も、少しだけ柔らかくなったようだ。

「さあ、メシにしようぜ。買い物に時間かかって、腹減っただろ?」
「……うん。お腹すいた」
「テーブルの片づけはオレがしておく。部屋で着替えてこい」
「、解った。二人とも、ありがとう」

寝室でカットソーを脱ぐと、嫌な冷や汗も同時に拭い去ったような、すっきりした感覚を覚えた。肌触りのいいルームウェアに着替えると、気持ちも徐々に穏やかになった。二人の気遣いに感謝しなくてはならない。

リビングに戻ると、既に美味しそうな食事が何品も並んでいた。今日はイタリアン中心で、メインはクリームソースのリングイニのようである。以前親戚にもらったものの、いまいち使いどころが解らなくて、常温保存なのをいいことにずっと使わずに引き出しの奥深くしまっていたリングイニが、ようやく日の目を浴びたようだ。ナックルの料理のセンスには脱帽の一言である。

三人で食卓を囲みながら、私たちは件の漫画の話をした。シュートはユピー戦の自分の姿があれほどドラマチックに格好良く演出されているのがどうにも解せなかったようで、ひどく居心地の悪い思いをしながら読んでいたそうだ。反対にナックルは、仲間や敵のモノローグを読めるという点が非常に興味深かったようで、あの日の一瞬一瞬を鮮明に思い出しながら読み進めていたようである。同じ立場でも、感性の違いによってこんなにも異なる感想や読み方があるのだなあと感心してしまった。

「……あ、ごめん。今になって気づいたんだけど」
「おう、どうした?」
「二人のこと、もしかしたら作者の先生にはちゃんと言った方がいいのかな。結構すごいことが今起こってると思うんだよね」

私の声は、自分の想像以上に真剣な色を帯びていた。これまで散々漫画の話をしておきながら、何故今までこんな基本的なことに気づかなかったのだろうか。同じ思いは二人の中にもあったようで、きょとんとした表情で、部屋の棚に並ぶ漫画の背表紙に目をやった。作者の名前は漢字で書いてあるので、二人には読めないだろう。後で教えてあげる必要があるかもしれない。

「……どうだろうな。確かに、この漫画の作者にオレらが今こうしてここに居る事実を伝えることに、一定の意味があるってのは理解できるが」
「だが、作者だけに伝えることなど、特別なコネでもない限り、現実には難しいだろう。どうしても外部に漏れるリスクが出てくる」

シュートの言うことは紛れもなく正論だ。それが理由で警察に捕まることはなくとも、二次元からの逆トリップが現実に存在するなんて、知る人が知ったら大変な事態になるのは容易に想像できる。

「普通のファンは、作者と個人的なコネなんざ持ってねェよな」
「うん……」
「であれば、作者に伝えることはデメリットが大きすぎる。オレは反対だ」
「そうだな、オレも反対だ」

そうだな、私も反対だ。やはり、改めて同じ結論となるが、トリップの期限が切れるまでの間、二人にはひっそり過ごしておいてもらった方が良さそうである。
そう心に決め、私は二人とともにリングイニを美味しく頂いた。

夕食後は、私のわがままを二人に聞いてもらい、なんと念願の水見式を実現することができた。放出系のナックルが錬を行うと、本当に水の色が変わり、どんどん白濁していった。操作系のシュートは、葉を小刻みにぶるぶると震わせていた。もちろん私はどんなに力を込めても、何の変化も起こらずに終わった。

「あー、すっごく楽しかった! 満足だよ! 二人ともありがとう」

水の入ったコップを片付けながら、私は興奮気味に二人に感謝を述べる。当の二人は、何でこんなものをありがたがるのか全く解らないといった様子で、顔を見合わせていた。

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