ダウンフォール・カノープス(5)


※殺闇。(1)(2)(3)(4)の続き。



瞼の向こう側に光を感じ、目を開けると朝だった。外から差し込む淡い光と、遠くに聞こえる鳥の声、透き通る冷たい空気、それら全てが朝の到来を示していた。
鼻の先が冷えている。春といえどまだ朝方は寒さが厳しいのだ。フジキドは顔をしかめて掛け布団を被り直した。ぬくぬくとした眠りを味うために目を閉じかけたその時、ふと違和感を覚えて首を傾げる。
(……掛け布団だと?)
確か自分は布団の傍らで座っていたのではなかったか。そもそもといえば看病のためだ。

「……!!」
次の瞬間、フジキドは布団をかなぐり捨てて跳ね起きた。
「熱は!」
短い叫びが朝の空気を震わせる。目の前には無人の布団が敷かれていた。そこにいたはずの病人がいない。昨夜、高熱を出して寝込んでいたあの男が、いない。
フジキドは畳の上で寝ていた。布団の傍らに倒れ込むような体勢だった。そこへ掛け布団がご丁寧にかけてあった。先に目覚めたあの男が、フジキドを見かねて自分の掛け布団をよこしてくれたのだろう。この状況からはそうとしか推測できなかった。

では肝心のあの男はどこへ行ったのか。必死の形相で周囲を見回したが人の気配はなかった。男が寝ていたはずの場所に手を当てるとすっかり冷たくなっていた。即ち、男が床を離れてから相応の時間が経過しているということだ。フジキドは迷わず廊下に出た。
「どこだ!どこへ行った!」
思わず「ダークニンジャ」という名を叫びそうになって、寸前で口を閉じた。喉元まで出かかった声が微かな空気だけになって拡散した。今はその名を口にしてはならないと思った。くだらぬ拘りだ。しかし代わりにどう呼ぶべきかも分からない。仕方なく名前で呼ぶことは諦めて、再び「どこだ」と声を上げた。

苦労しながら看病した身としては、安易にふらふらと出歩かれては困る。あの労力が水の泡だ。そして何より――あの男はまだ病人なのだ。熱が下がったことも確かめられていない。出歩けるほど体力が戻っているようだが、だからといって放っておくわけにはいかなかった。完全に回復するまで見届けるのが自分に課された責任だと思う。たとえ相手がそのことを望んでいないとしても、だ。余計なお世話と言われようと、面倒をみると決めた以上最後まで役目を果たさねば気が済まない。

廊下、厨、井戸、押入れ――ありとあらゆる場所を虱潰しに探したが見つからない。まさか屋敷の外に出たというのか?それとも山の中に?山には獰猛な野犬がいる。ニンジャであれば野犬など撃退することは容易い。だが今は状況が違う。もし、今の自分と同じことが――即ちニンジャソウルの消失が、あの男の身にも起こっているならば。ましてや奴は病人だ。万が一野犬に遭遇した場合、無事でいられる可能性は限りなく低い。
フジキドは最悪の事態を想定して身震いした。それはあの男が死ぬということ自体に対する恐怖ではなく、この右も左も分からぬ場所で一人きりになるのではないかという恐怖に起因する震えであった。

庭先に出て雑草を掻き分ける。もしかしたら茂みの中で倒れているかもしれないと考えたからだ。フジキドはどこまでも真剣で、必死だった。
朝露に濡れた野の花の美しさを気に留める余裕もない。時にはあざみの花を踏み越え、時には邪魔な草を引きちぎって探した。しかしあの男はどこにもいない。
「どこだ!!」
もう一度大声で吠えた。捕らえた獲物を探し回る肉食獣のようだ。こんな形相と絶叫で怒鳴りつけられたら、どれほど忠実な飼い犬であっても近寄りはしないだろう。――しかし、あの男に限って言えば、その呼びかけは効果的だったらしい。

「……朝から随分と騒がしいな」

声は頭上から降ってきた。フジキドは血走った目で声が聞こえた方を睨みつける。果たして男は屋根の上にいたのだった。昨夜と同じ浴衣姿のままだったが、帯は新しく締め直されている。こちらから見える足裏が少し汚れているのは、素足のまま屋根に登ったせいだろう。顔色は随分とよくなっているようで、フジキドは一瞬安堵の溜息をつきかけたが慌てて飲み込んだ。
予想だにしない場所に潜んでいた驚きよりも、怒りの方が強かった。それはもう、今までに積み上げた苦労の分を上乗せした怒りである。しかし――フジキド自身はまだ気付いていないが、そこに殺意や憎しみは含まれていなかった。

男を責め立てる言葉を吐き出そうとして、一旦止める。ひらひら揺れる男の足と、妙にすずしげな目を見て眉根を寄せた。高所から一方的に見下されるのは本意ではない。今すぐに文句を言うことよりも、男と同じ目線の高さに立つことが優先された。
フジキドは決断的に踵を返し、猛然と屋敷の裏手へ回った。そこには古びた木製の梯子が立てかけられていた。昨日、屋根を修理しようとして納屋から引っ張り出してきたのだ。片付ける気力を失ってそのままにしていたのだが、おそらく男はこの梯子を使ったのだろう。負けじとフジキドも梯子を上り、屋根の上へ辿り着いた。

冷たい朝の風が浴衣の袖を揺らす。屋根の上からの景色は地上とはまた違った良さがあるのだが、あいにくと風景見物のために来たのではない。フジキドは荒い足取りで瓦屋根の上を進んだ。男の方はといえば、屋根の縁に腰掛けたまま、近付いて来るフジキドを振り返ることもなかった。
熱は下がったのか、なぜ布団を抜け出した、お前は病人なのだから身をわきまえろ、心配させるような真似はするな、――そんな文句を叩きつけたかったはずだったのだが、男の背中を見て、何もかもが空中分解した。この場所に来てからというものの、何もかも調子を狂わされてばかりだ。すべてはこの男のせいであることは明白だった。時々、泣いている小さなこどものように見えてしまうのが、悪い。

畳1枚分の距離まで近付いたところで、フジキドは歩みを止めてしまった。それ以上先へは進めず、何か気の利いたことも言えず、ただ男の背中を見る。急に瓦屋根の冷たさを足裏で感じた。
男は背筋を伸ばして、前を――この屋敷の庭、そして周囲の家々を眺めているようだった。屋根に上がったのも、集落全体を見渡すためだったのだろうか。
湿り気のある沈黙のあと、不意に男が呟いた。

「この景色を見るのは、初めてではない」

一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。しかしすぐに、その言葉が自分に向けられたものではないと気付く。男はフジキドではなく――おそらく自分自身に向けて呟いているのだ。フジキドは壁のような存在だった。男が放った言葉を受け止めずに反射するだけの壁。反応を返すことは端から期待されていない。
「……一度だけ、この集落を訪れたことがある。ずっと前の話だ。父と、母と、3人で……」
父と母、という思いがけない単語を耳にして、フジキドが僅かに眉を上げた。この男の口からそのような言葉が出るとは思っていなかった。
男はなおも続けた。降り始めの雨のように、ぽつりぽつりと言葉を零していく。

「ここは……おれの先祖が住んでいた家だ」

風が吹いて、男の灰色の髪を揺らした。それきり男は口を閉ざした。あの短い告解の中で、語るべきことはすべて語り尽くしてしまったらしい。記憶の稜線をなぞるように景色を見ているばかりだった。
黙ってしまった男の代わりに、今度はフジキドが言葉を発した。
「お前の名は何という?」
その時初めて、男は背後を振り返った。驚きと困惑を瞳に含ませて。フジキドは満足気に目を細め、その視線を出迎えた。今まで散々振り回されてきた分、ここでやっと釣り合いが取れるのだと思うと愉快な気分にさえなった。
それにしても、随分と久しぶりにこの男と視線を合わせたような気がする。あの長い夜にはずっと閉じられていた目が、今こうして見開かれ、心地よい睨み合いの場をもたらしていた。

男は怪訝な表情でフジキドに問う。
「アイサツならとうに済ませただろう。まさか忘れたのか」
「違う。私が訊いているのは、お前がこの集落を訪ねた頃の名だ」
人間だった頃――という言い方は、敢えて避けた。フジキドはかつてなく慎重に言葉を選んでいた。自らに課した制約と、くだらない拘りのためだった。
男はフジキドの目を見た。探るような、試すような視線だ。今更になって取り繕うのも馬鹿らしい気がして、フジキドはその目をすんなりと受け入れた。おそらくそれは数秒にも満たない時間だった。男は視線を外すと再び背中を向けてしまった。だが、ぴんと伸びていたはずの背骨が、今は少しだけ曲がっている。

「……フジオ・カタクラ」

この距離で聞こえるぎりぎりの声量で、名前が無造作に吐き捨てられた。男の妙に子供じみた態度を見て取り、フジキドはこの駆け引きにおける自らの勝利を確信した。
フジキドはもう随分と前から、この男がフジオ・カタクラという名をもつことを知っていた。忘れるはずもない。だが敢えて本人の口から答えさせたことで、彼はその名で呼ぶ権利を得たのだ。
大股で2歩、わざとらしく音を立てながら前に進んだ。瓦屋根の冷たさにはもう慣れてしまったので問題ない。フジキドは男の左隣に立ち、おもむろに腕組みをした。

「なるほど。カタクラ=サンか」
無意識に緩んでしまいそうになる頬をことさら引き締めて、いかめしい表情を形作る。男は奇妙な生き物を見るかのような目でフジキドを見上げた。困惑と呆れを百倍濃縮した視線だ。だが、もはやこの程度で怯むフジキドではなかった。既に主導権は彼が握っている。
「私の名は、フジキド・ケンジという」
その名乗りが出たのも必然だった。
住人のいない集落で、浴衣姿の男が2人、屋根の上。既に見知ったはずの相手に自己紹介をしている。見れば見るほど不思議な絵面であるが、はじめからこうなるようになっていたのだ、きっと。
しばしの沈黙が流れる。逃げ場はない。逃がす気もない。とうとう、フジオ・カタクラは諦めたように息を吐いた。

「……ドーモ、フジキド=サン」
「ドーモ」

屋根の上では、穏やかな風が吹いていた。



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2016/01/23


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