ダウンフォール・カノープス(4)


※殺闇。(1)(2)(3)の続き。


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少年がトイレから戻ると、両親の姿はなかった。どこへ行ったのだろうと周りを見回したが、それらしき姿は探し当てられなかった。仕事の電話が入ったから、席を立ったのかもしれない――いろいろなことを考えながら、仕方なく畳に座った。先程トイレで練習した内容を心の中で反復し、頷く。
「うん、大丈夫」
そうして胸のアミュレットを手に取り、天井の光にかざした。光を受けて漢字がテーブルに写し出される。この不思議なアミュレットの仕組みも、写し出された漢字の意味も、幼い少年にはまだ分からない。だが分からないからこそ引き付けられた。背中に刻まれた痣と同じ漢字を示すアミュレット。きっと自分の未来を導いてくれるに違いないのだ。
しばらくそうやって漢字を眺めていると、少年の背後から2つの足音が聞こえてきた。振り返ればそこには、

「フジオ!」

――両親が、満面の笑顔で立っていた。父は赤いリボンのついた大きな包み紙を抱きかかえ、母は驚いた顔の少年をカメラで撮影している。少年は呆気にとられて口を開けていたが、すぐに瞳をきらきらと輝かせた。なあんだ。お父さんとお母さんは僕を驚かせるためにいなくなっていたんだ。不安だった心が、安堵と喜びへと塗り替えられていく。
両親は顔を見合わせてにっこり笑った。そして愛する我が子へ祝福の言葉を投げかける。


「「メリークリスマス、フジオ!」」





「―――っ!!」

声にならない悲鳴を上げて、フジオ・カタクラは長い眠りから覚醒した。切れ長の目を大きく見開き、壊れかけた天井をひたすらに見つめることしかできない。額には玉の汗が浮かんでいる。はくはくと口を動かして呼吸を試みるが、うまく肺に酸素を取り込むことができず、肩が震えた。それでもか細い空気が気管を通り抜け、「悪夢」から目覚めたばかりの彼に落ち着きを取り戻させる。
せわしなく脈動していた胸が、やがてゆるやかに上下する。彼は細く長く息を吸い込んでは吐いた。

この程度で、何をこんなにも動揺している?今までに幾度となく見てきたではないか。幼き日の願望を都合よく織り交ぜた、幸せな悪夢。あの夜の再現よりもなお惨い夢だ。己の内に巣食う弱さが見せる幻影にすぎない。問題は、そう、なぜ今になってまたこんな夢を見ているのか。
――「今」、とは?

「…………」
彼は現在の自分が置かれている状況を把握することに努めた。全身がひどく重い。疲労という名の重い鎖で、体じゅうを縛り付けられているかのようだ。体の自由がほとんど効かず、布団の中で指先が僅かに動かせる程度だった。
灯りのない暗い室内。黴臭い空気。今は夜であるらしい。外からは虫の声がかすかに聞こえる。視覚からの情報を更に得ようと、持てる力を総動員して首を僅かに動かした。そして彼は、人の姿を視界の端に留めた。
「な、に……」
そこにいた人物を見とめた瞬間、彼は驚愕の表情を浮かべることしかできなかった。

ニンジャスレイヤー。彼の記憶の中では、つい先程まで死闘を繰り広げていたはずの相手だった。特徴的なメンポも、赤黒の装束も身に付けてはいないが、その忌まわしき姿形は見間違えようもない。――ではなぜ、殺し合うべき相手が、布団の横に座してすやすやと寝息を立てているのか?

仰け反りかけたフジオの額から、濡れタオルがずり落ちた。取り替えられたのはしばらく前なのだろう、彼の額から発せられた熱でタオルはすっかり生温くなっている。熱による苦痛を少しでも和らげるためにと用意されたものだった。フジオは、枕元に落ちたタオルと、腕組みをしたまま眠る男とを交互に見て、しばらくの間熟考する必要に迫られた。
なけなしの感覚を研ぎ澄ませてみても、周囲には他に人の気配はない。少なくとも今ここにいるのはフジオとこの男の2人だけである。ならばこのタオルを用意したのは誰か?タオルを水に浸し、彼の額に載せてやったのは?

フジオはやがて、考えるだけ無駄だ、という結論に達した。問いの答えは、考えるまでもなく目の前にあったからだ。そして、考えれば考えるほど、自らの首を締めることになりかねないと判断したからだ。
殺し合っていたはずの相手が、熱を出した自分の看病をして、布団の横で寝ている。この状況から推測できる事実はそれだけ。自分は助けられたのだ。理由も経緯も分からない。今すぐにでも叩き起こして尋問したいところだが、あいにくと今の彼は指先を動かすことで精一杯だった。

しかしここでいつまでも寝顔を見ているだけにもいかない。フジオは全神経を右腕に集中させた。すると肘から先が痙攣した。――ゆっくりではあるが、動く。彼は途方もない時間をかけて腕を動かすことに注力した。その間に男の寝息は数十回近く鳴っていたはずだが、フジオにはその回数を数える余裕もなかった。

やがてその指先は男の浴衣の裾へと辿り着く。人差し指と親指で裾を摘んだ。
「おい……」
男の寝息は止まない。眉間に皺を寄せている顔にも変化はない。それだけ眠りが深いということなのか、それともフジオの引く力が弱々しすぎるだけなのだろうか。
「起きろ、きさま……」
力の弱さを自覚した途端、発する声まで弱々しいものへと変わっていく気がして、フジオは恥と怒りを同時に感じた。自分自身に対する感情である。実際フジオの声は掠れており、寝ている相手へ覚醒を促すに足る音量ではなかったのだ。
代わりにフジオは執念深く裾を引いた。力が足りないのであれば回数を繰り返すまでだ。相手が起きるまで何度も何度も。

フジオがぐっと強く力を込めて引いたその時、男の体が大きく傾いだ。スローモーションのように横へ倒れていく。どさりと音を立てて、男の体が畳の上へと投げ出された。倒れた方向が前ではなく横であったことは幸いだったというべきか。前方向に倒れられた日には、男の全体重がフジオにのしかって悶絶することになっていただろう。しかし、

(これはこれで、問題が……)

結果として、男の頭はフジオの目の前に不時着したのであった。睫毛の本数さえ数えられそうなほどの距離に、フジオは思わず息を詰める。宿敵が目の前にいるからか。あの夢を見た直後だからか。そこにあるのはただ無防備な寝顔だけだというのに、まるで首筋に刃の切っ先を当てられているかのように身動きができない。彼を縛り付けているのは、全身の疲労ではなく、己の精神に課した緊張感であった。

「……うん……?」
それまで穏やかな寝息を立てていた男が、不意に身じろぎをした。瞼がゆっくりと持ち上げられる。だが目が完全に見開かれることはなく、男は未だまどろみの中にいた。
「どうした……ねむれないのか……?」
くぐもった低い声が喉の奥から絞り出された。言葉を紡ぐのさえ億劫そうだったが、それでいて優しい響きがある。

フジオが硬直したまま何ひとつ答えられないでいるのを肯定と受け取ったのか、男はおもむろに右腕をフジオの方へと伸ばした。フジオは反射的に目を瞑って体を縮こまらせたが、一向に痛みも衝撃もない。恐る恐る目を開けると、男の掌がゆっくりと布団へと下りていくところだった。骨ばった大きな手の感触が布団越しに伝わる。フジオははっと息を止めてその手を凝視した。

「……いいこだ……ほら、おやすみ……」
男はまどろみの中でほほえんだ。そしてその掌で、布団の上からフジオの胸のあたりを軽く叩いた。
とん、とん、とん、とん。
入眠を誘う定期的なリズム。心地よい声と音。眠れないこどもをリラックスさせ、優しく穏やかな夢を見せる魔法。
それは、寂しい秋の夜、かつて「父さん」と呼んだあの人にしてもらったのと同じ――


(――殺さなくては、ならない。)


フジオは瞬間的にそう思った。目の前にいるこの男を。「父親」の顔で優しくほほえむこの男を、殺さなくてはならないと思った。
とうの昔に切り捨てたはずの記憶を、今になって思い出すなど、あってはならないのだ。よりにもよって、この男の手で記憶をこじ開けられることを、許してはならない。
殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。……殺せ!

しかし、フジオの体は命令を聞かなかった。それどころか指一本動かせない。
分かっている。この男はまどろみの中で己の息子を重ねているのだ。いつか男自身が父親であった頃の記憶を手繰り寄せて、幸福な夜のひと時を追体験しているだけなのだ。愛する我が子が安心して眠れるように。夢の中でも笑っていられるように。そして、目覚めた後も、その幸せがいつまでも続くように。
……ああ、なんて残酷な魔法だろう。
男は再び深い寝息を立てていた。しかしその掌だけは動き続け、心地よいリズムを繰り返している。男は眠りの中にいる時でさえ「父親」だった。

フジオは男を殺せなかった。あまりに脆く、あまりに残酷な「魔法」。拒絶してしまえたらどんなに楽か。しかしどうしても拒めなかった。男の掌が飽きることなく生み出すリズムを、全身で受け止めることしかできない。
とん、とん、とん、とん。
声もなく泣きながら、彼はただ優しい夜の音に耳を傾けていた。



(5)へ続く

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2016/01/15


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