ダウンフォール・カノープス(3)


※殺闇。(1)(2)の続き。

(これまでのあらすじ)
ダークニンジャとの死闘のさなか、眩い光に包まれたフジキド。彼が再び目を開けるとそこは見知らぬ山の中だった。
放浪の末に宿敵を見つけ、嬉々として殺そうとするが、ダークニンジャは抵抗せずにただ「さむい」と呟いた。
その言葉によってフジキドの殺意は凍らされ、子供のように震える彼を抱き締めることしかできなかった。



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長く彷徨い続けた末にフジキドが辿り着いたのは、ゴーストタウンと化した無人の集落だった。
峻厳な山々に抱き込まれるようにして、大小の家々がまばらに佇む。そのどれもが奥ゆかしい日本家屋であった。瑞々しい輝きを放つ木々の緑、山から流れる川の澄んだ青。一見、豊かな自然に囲まれた長閑な田舎の風景だ。
だがよくよく見ると、どの家の庭も雑草が生え、屋根が潰れかかっていた。漆喰の外壁には蔦や唐草が絡んで、元の白い壁を覆い隠している。物置小屋と思しき建物の前には、古い農耕機や自転車などがそのまま放置されており、錆びて赤茶色になっていた。干からびた野菜の屑が、軒先に吊り下げられたまま放置されている。
かつて人が住んでいた頃は、どの家も農業を営み、細々と自給自足の生活を送っていたことを想起させる。もう随分昔に打ち棄てられた場所なのだろう。地方の過疎化による都市部への移住はそう珍しい話でもない。

果たしてここはどこなのか。自分はあの男との最後のイクサに身を投じていたはずだ。一対一の、負けられない一騎打ち。数時間にも及ぶ激闘のさなか、突如として世界が反転し、気付いたら山の中にいた。フジキドには全く身に覚えがない場所だ。
この無人の集落の存在も気にかかる。ネオサイタマには、ここのように自然豊かな場所は見られない。何らかの方法で強制的に移動させられたと考えるのが妥当だろう。何者かのジツによるものか。しかしあの場にいたのは2人だけ、あの戦いにジツで干渉できるニンジャが果たしてこの世に何人いるというのか。
いくら考えを巡らせたところで埒が明かないのは明白だった。今は落ち着いて思考を整理するだけの余裕がない。

やっと人里に下りられたと安堵したのも束の間、住人が誰一人いない事実に気が滅入る思いだったが、また民家を探して長い距離を歩くほどフジキドに体力は残されていなかった。それに、彼の背中に死にかけの男がいる。とにかく休息の場所が必要だ。
背に腹は代えられぬと、フジキドはとある一軒の家に不法侵入した。他の家々よりも遥かに広い、屋敷と呼んでも差し支えないような家だ。元はこの集落の長でも住んでいたのだろうか。だが屋敷内は他の家と同じように荒れ、庭の雑草は室内に入り込みそうなほどに伸びきっている。
床の間らしき部屋に着くと、フジキドは背負っていた男をゆっくりと畳の上に寝かせた。押入れを開けると黴の臭いが一気に溢れ出る。出来る限り鼻呼吸をしないように意識しながら、押入れの中にあった布団を引き出す。黴臭さがきつい煎餅布団だが、無いよりはましだろう。なるべく清潔にしたそれに男を寝かせると、安心したのか疲れがどっと出てきた。

部屋の中は恐ろしく静かだった。破れた障子戸の隙間から漏れ出る光は、まだ朝の気配を残している。
死んだように眠る男の青褪めた顔を、フジキドはじっと見つめる。
寝息はまったく聞こえない。今度こそ本当に死んだか、と不安になってその口元に手を当ててみる。微かだが温かく、呼吸していることが分かった。数分に一度はそうやって呼吸を確かめ、そのたびに安堵の息を漏らしてしまう。この男は、もとよりこうして音なく眠るのが常なのだろう、という結論に落ち着いた。
あれほど殺したいと願ってやまなかった相手の命を、何故こんなにも必死に繋ぎとめようとしているのだろう。寒さに震える子供を放っておけない、ただそれだけなのか。

(殺せ)
頭の中で声が響く。ナラクではないもう一人の自分が語りかけてくる。
(殺せ) 殺さない。
(妻子の仇を取れ) その時は今ではない。
(殺すのなら今しかない) 今だからこそ、殺さない。
(今ここで介抱してやったところで、殺し合う定めは変わらない) 分かっている。
(体が回復すれば、この男はすぐにでも牙を向くぞ) それでも。――それでも、今は。

フジキドは自覚的に結論を先延ばしにした。深く考えれば考える程、自分にも相手にも誠実ではないような気がした。
「…………」
落ち着いて腰を下ろすこともままならない。彼はのろのろとした動作で再び立ち上がり、屋敷の中を徘徊しだした。
「着替えと、水と……食料もか」
小声で呟きながら廊下を歩く。体は疲れ切っていたが、動いていた方が気が紛れて良い。余計なことは考えないようにしたかった。
板張りの廊下は一歩踏み出す度にキイキイと音を立てて軋む。床が腐り落ちていないだけまだましな方だろう。

新しい部屋を見つけると、押入れや棚の中を物色して目ぼしいものがないか確認する。成人用の着物と浴衣がいくつか残されていたのは実際ありがたかった。
見て回って分かったことだが、この屋敷のあちらこちらに、一度持ち主の手を離れて廃墟となった後、誰かがまた足を踏み入れたと思しき痕跡があった。倒れた家財道具、中途半端に開いたままの引き出し、床に放り出された掛け軸や骨董品。生活に必要なものを漁るというよりは、値打ちのあるものを探し出そうとしたかのような。

いくつかの部屋を抜けた先に厨があった。今どき見ないような、古風ゆかしい竈が存在感を放っている。ざっと見回してみたが、食べられそうなものは置いていなかった。水道場に備え付けてあった蛇口を捻っても案の定何も出ない。しかし厨を出たすぐそばに井戸があった。長らく手付かずだったはずだが、水質は悪くない。水桶の中に頭ごと突っ込み、ごくごくと喉を鳴らしながら水を飲んだ。乾き切った喉と体に、冷たい水が驚くほどの勢いで染み込んでいく。もう丸一日以上水を飲んでいなかったことに今更気付いた。それはあの男も同じだろう。
井戸水で顔を洗い、濡らした手拭いで体を拭く。今まで身に付けていた赤黒の装束を脱ぎ捨て、薄い水色の縞が入った浴衣に着替えた。着るものを変えただけで嘘のように体が軽くなった。

水の入った桶と手拭い、それと浴衣一式を手にして床の間へと戻った。男はやはり音を立てずに眠っている。
「……すまん、触るぞ」
どうせ聞こえてはいないだろうが、一応断りを入れてからその装束に手を伸ばした。血が染み込んだ黒い布を一枚ずつ脱がせると、無駄のない引き締まった体が露わになる。そしてその体には、傷、傷、傷――大小様々の傷が、青白い皮膚の上にいびつな模様を描いていた。フジキドははっと息を呑んで手を止めた。戦いに明け暮れ、殺し合いをする者の体だ。これとよく似た体を知っている――そう、自分の体だ。時間の経過と共に傷は塞がる。何事もなかったかのように体は動く。だが、傷跡はいつまでも残り続けるのだ。殺してきた者たちの記憶の証明のように。
男の傷跡の中でとりわけ大きく目立つのは、腹部に真一文字に走る刀傷だった。ここまで深く抉るような傷をみすみす付けられる男ではあるまい。まさか自分で腹を切ったのか。
無意識にその大きな傷跡に触れようとして、フジキドは慌てて手を引っ込めた。触れてはいけない。傷跡に触れるということは、記憶を盗み見るのと同義だ。相手の意識がないからといって、していいことと許されないことがある。そしてこれは間違いなく「許されないこと」の一つだ。

フジキドは深く息をついた。個人的な興味や感情を排さなくてはならない。今求められているのは、機械のように冷静に、的確な処置をすることだ。自分にそう言い聞かせ、フジキドは努めて冷静に作業を再開した。男の体を丁寧に拭き、傷には包帯を巻いてやる。最後に浴衣を着せたが、これが結構な重労働だった。何しろ相手は全体重をフジキドに預けているので、その立派な体躯を支えながら着替えさせねばならないのである。やっとの思いで浴衣の帯を締めた頃には、額にじんわりと汗が滲んでいた。
「疲れた……」
布団の脇にへたり込んで汗を拭う。
心なしか、男の顔色が前よりいくらか良くなっているように思えた。先程まではぴくりとも動かずに寝ていたが、今は呼吸音と共にゆっくりと胸を上下させている。着替えたことで寝苦しさが改善されたのかもしれない。あの苦労も無駄ではなかったのだ、と妙な誇らしささえ覚える。

目元にかかる前髪を掻き分けてやると、その拍子に指が長い睫毛に触れた。睫毛の量こそ多くないが、一本一本が長く、透き通るように白い。指先で軽く弾くと、重力を伴ってしなるように跳ねた。
――戦いの時には爛々と輝く凶悪な眼を縁取るのが、こんなにも繊細な白糸だったとは。思わぬ発見に指先が少し震えた。
冷静な状態で見てみると、実に端正な顔である。すっと通った鼻筋と、薄い唇、柔らかな灰色の髪。こうしてじっくりと顔を見るのは初めてだった。ただでさえ会う機会が少なく、顔を合わせればそれ即ち戦いの合図なのだから当たり前ではあるが。フジキドはこの男の、命を根こそぎ奪い尽くさんとする苛烈な瞳しか知らない。その瞳に感情が迸る時はいつだって、怒りや憎しみに燃える紫の炎があった。
閉ざされた目蓋の下には、やはりあの炎しかないのだろうか。この男の瞳が、穏やかな光を宿すことはないのだろうか。……望んでも仕方のない期待ばかりが、浮かんでは消えていく。

「……やはり、動いていないと駄目だな」
自分に言い訳をして、逃げるように部屋を後にした。





温かい日差しが燦々と降り注ぐ日中の頃には、気付けば埃まみれで屋敷の中に立っていた。その黒髪には蜘蛛の巣が引っ掛かっている。
倒れた家具を元に戻し、棚や押し入れの中にある使えそうなものをまとめ、割れたガラスや雨戸を庭に放り出し、埃と細かな土に覆われた床を箒で掃き――いつの間にか大掃除を始めてしまっていた。元からの凝り性な性格もあるが、なるべく体を動かしていないと、先ほどのように余計なことを考えてしまいそうだからだ。それに、この廃墟の住環境を少しでもまともにしたいと思ったのだ。彼の行動の裏側には、これからこの家で短くはない期間を過ごすであろうという予感が根差していた。自分でも不思議で仕方なかったが、なぜかそう思えて仕方ないのだ。

埃を被った顔を洗うために井戸へ行くと、柔らかな日差しに出迎えられた。久しく感じていなかった眩しさにフジキドは目を細める。遠くから鳥のさえずりが聞こえた。
濡れた髪の毛もそのままに、フジキドはふらふらと庭先へ出て行った。縁側に腰掛けると穏やかな風が頬を撫ぜた。山の中で経験した暗闇の恐ろしさとは対照的に、今は毒気を抜かれるほど穏やかで温かい空気に包まれている。
南中を過ぎた日差しが、庭に放り出されたガラスに反射してきらきらと光っていた。光の反射する角度によって輝き方が変わる。屋敷の柱や壁に映し出される光の粒は、自然が作り出す芸術品のようだった。

庭には雑草が生い茂っているが、その中で野の花がまばらに咲いている。たんぽぽ、れんげ、あざみ、ハルジオン……花にあまり詳しくはないフジキドでもすぐに名前が思い浮かぶ花たちだった。
「……そうか、今は春だったな」
フジキドはぽつりと呟いた。誰に聞かせるでもないただの気付きだ。よくよく見てみれば、ここに咲いているのは春の花ばかりだった。幼いころ見た図鑑に写真付きで紹介されていたのを覚えている。ニンジャ殺しに明け暮れて、季節を感じることなどすっかり忘れていた。
黄色やピンク、白など、色とりどりの野の花が、無秩序にも思えるこの茂みにささやかな美しさをもたらしていた。花と花の間を行き交うのはみつばちだ。小さな羽をはばたかせて蜜を求めにやってくる。驚くほど穏やかで平和な光景だった。フジキドは口を半開きにしたまま、飽きることなく庭を眺めていた。





昼を過ぎ、日没を過ぎ、夜が訪れてしばらく経った頃。
ゴーストタウンと化した集落の中、ただ一軒の屋敷に灯りがともる。それは蝋燭の小さな光ではあったが、闇夜の中ではまるで灯台のように明るく浮かび上がる。
光が映し出すのは2つの影。1人は寝所と廊下とをせわしなく行き来し、もう1人は布団に横たわったまま動かない。
動き回る影は無論フジキドである。屋敷の修理が一段落ついたのも束の間、今度は高熱を発した男の看病に追われることとなったのだ。

気温の低い山の中で、長時間に渡り外気に晒されたのがよくなかったのだろう。男は額に汗を浮かべて浅い呼吸を繰り返していた。高熱の状態が長く続けば、命にも危険が迫りかねない。
フジキドは冷たい井戸水で濡らしたタオルで、何度も繰り返し顔や体を拭いてやった。屋敷の中をいくら探しても薬の類は見つからなかった。今できることといえば、こうして少しでも熱を逃がしてやることだけだ。焦燥に駆られながらも、辛抱強く看病を続けた。

これだけ汗が出ているのだから、水分補給をしてやらなければ。そう考えて、フジキドは厨からふちの欠けた湯呑みを持ってきた。湯呑みには水がなみなみと注がれている。
男の体をゆっくり抱き上げ、口元に飲み口を近付ける。湯呑みを傾けて少しずつ水を流し込んでやると、こくり、という小さな音と共に喉が動いた。フジキドは思わず安堵の溜息をついた。意識は未だ戻らないが、水を飲めるのならば回復の見込みは高まる。汗をその都度拭いてやりながら、定期的に水分補給を行った。介抱してやりながら、フジキドはしばしば、雛鳥の世話をしているかのような気分に陥った。

苦しそうに上下する胸を見つめていると、不思議と心が凪いでいく。青白い顔で眠っていた時よりも、高熱にうなされている今の方が安心できるのだ。不謹慎かもしれないがそれは確かだった。ぴくりとも動かずに眠られると、本当に死んだとしても気付けないのではないかと思え、不安で仕方なかった。今は、生きていることをはっきりと確かめられる。
水を汲みに行ったり、水を飲ませてやったりと、するべきことは多いが苦ではない。寝顔をじっと眺めて何もできずにいるよりも遥かに気が楽だった。たとえその行為が自己満足にすぎないとしても。

体を拭くために掛け布団をどけると、不意に弱々しい手が伸びてきた。何かを探すように指先が空をさまよう。ぎこちないその仕草があまりにも切なげだったので、フジキドは手を取らずにはいられなかった。熱い掌を下から持ち上げ、できる限り優しく握った。
「大丈夫だ……すぐによくなる」
重ねた手を軽く振って、気休めの言葉をかけてやる。意識のない相手にその言葉は届いていないだろう。だが、そうやって言い聞かせると、男の体から力が抜けて、寝息が緩やかになったような気がした。弱い力で握り返された手を静かにほどき、フジキドはまた布団を掛け直した。
男の顔を見やると、いつのまにか目尻に涙が浮かんでいた。高熱によるものなのか、それとも別の理由があるのかは分からない。深い意味を考えないようにしながら、汗に混じった涙を掬った。

次第に夜は深まり、時間と共に蝋燭も短くなっていく。
布団の横に座るフジキドの影がゆらゆらと揺れた。


(4)へ続く

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2015/08/04
2016/01/13 加筆


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