ダウンフォール・カノープス(2)


湿った土の匂いで、彼は目を覚ました。冷たく澄んだ空気が首筋を撫で、今が朝であることに気付く。装束は夜露に濡れてしっとりと重みをもっていた。
昨夜道中で樫の大木を見つけ、少しだけ休息をと思ったのだが、そのまま背を預けて眠ってしまったらしい。ほんの一瞬のまばたきだったような気もするし、深く深く眠りの底へと潜っていたような気もする。樫の木は何食わぬ顔で悠然とそこに立っているが、確かな安息の時間を彼にもたらしてくれた。不思議と体が軽い。先のイクサでのダメージ、その後に山の中を放浪した疲労が、するりと体をすり抜けていったかのようだ。

日の出は過ぎているようだが、まだ霧が深く、空には靄がかかっている。山中に棲む野生の動物たちが徐々に起き出しているのか、遠くから細い鳴き声が木霊になって聞こえてくる。昨夜は命のない暗闇だと思われたこの場所にも、生き物たちが確かに存在しているのだ。耳を澄ませてその音に聞き入る。甲高い小鳥の囀り、小動物が草を踏みしめて駆ける足音。山の朝はひっそりと静かなようでいて、そこかしこに生き物の営みがある。生命の気配に、フジキドはひどく安堵した。

彼はゆっくりと体を起こし、再び歩き出した。広大な草原は永遠に続いているのではないかとも考えていたが、さすがに終わりはあったらしい。草ばかりの光景は徐々に途切れ、木々の生い茂る森へと続いていた。周囲の景色が少しでも変化しただけでも、彼には僥倖であった。諦めずに歩き続けることで、人里へと辿り着ける可能性が高まったからだ。

力強さを取り戻した足取りで森の奥へと進んでいく。――と、不意に、凶暴性のある唸り声が耳に飛び込んできた。狼か、それとも野犬の類か。距離はそう遠くない。彼は進みを速め、獣の吠える声がする方へと向かった。
密集した木々が次第にまばらになり、開けた場所へと出る。途端に、先程から聞こえていた音が大きくなる。ばちばちと火花の散るような音と、獣同士が噛み付き合う猥雑な音。山の朝らしからぬ張り詰めた空気に、思わず身を硬くする。

――野犬たちの争いだ。
ドーベルマンのように強健でしなやかな身体をもった野犬たちが、掴み合い、噛み付き合いながら熾烈な争いを繰り広げている。十数頭はいるだろうか。その鋭利な牙によって毛皮が裂かれ、剥き出しの肉が引き千切られて鮮血がどっと溢れる。まるで地獄めいた光景だ。一般人がこの争いの中に入ろうものなら、一瞬で身体を引き裂かれて惨死するだろう。

フジキドはしばしの間呆然とこの争いを見つめていたが、やがて野犬たちの争いの輪の中心に横たわるものの存在に気付く。よほど上等な餌なのだろうか。しかし野犬たちは餌を取り囲んで争うばかりで、我先にとそれに喰らい付こうとはしない。餌の周囲数メートルには誰も踏み込まず、円のようにぽっかりと空間ができている。近付きたくとも近付くことができない、触れてはならぬ存在に対する、ある種の畏れを本能的に感じ取っているようだった。これは一体どういうことなのか。
フジキドは目を凝らして、群れの中心にいるものの正体を見極めようとした。ニンジャ視力が失われているためはっきりとは見えない。だが、草の隙間からその色が見え隠れする。

灰色がかった髪、オブシディアン色の装束。そして――乾いた血の赤。

彼は無我夢中で駆け出していた。呼吸さえ煩わしい。
「どけ!!」
凄まじい剣幕で野犬たちを怒鳴りつけ、両腕を振り回して殴り、頑強な脚で容赦なく野犬の鼻面を踏み倒す。カラテを失くしモータル同然の力しか持ち得ないはずの男が、次々と野犬を嬲って蹴散らしていく。今の彼は、この場にいるどの生き物よりも獰猛な獣であった。

凶暴な争いを繰り広げていた野犬たちは、突然の乱入者に恐れをなして逃げ惑った。甲高い悲鳴を上げてあっけなく散らばっていく。野犬たちの足音はみるみる遠ざかり、吠える声も細く小さくなっていった。
先程までの喧騒が嘘のように、辺りは急激に静まり返った。獣と化した男の荒い息遣いが森の静寂を乱す。
肩で息をしながら、彼は一目散にそれの横へと駆け寄り、膝を着いた。

「……見つけたぞ。ダークニンジャ=サン」

打ち震えるその声には、歓喜とも憎悪とも取れる響きが混濁していた。
ダークニンジャと呼ばれた男はその呼びかけにぴくりとも反応しなかった。息遣いもまったく聞こえない。湿った草叢に横たわる体は身動きひとつせず、重力に押し潰されるかのように手足が地面に縫い付けられていた。青褪めた顔は死人めいている。目蓋は固く閉ざされ、その下に隠された瞳の色を窺い知ることはできない。
もう既に死んでいるのか。
目に見えるバイタルサインは限りなく死に近い情報を提示してくる。だが彼は間を置かず男の白い首筋に指を添えた。……微弱、実に弱々しくではあるが、脈拍があった。生きている。

「……!」
瞬間、彼の手は男の首全体を包んだかと思うと、あらん限りの力を込めてぎりぎりと締め上げ始めた。生きているのならば殺すまで。業火のような殺意が再び彼の内に湧き上がる。
「無様なものだ、たかだか野犬に襲われるとは。ニンジャの名が折れるな……」
努めて冷静であろうとするが、妻子の仇を目の前にした憎悪、弱り切った相手を虐げる残酷な快楽が、彼の手と声をわなわなと震わせる。彼にニンジャとしてのカラテが残っていたのなら、この時点で男の首はあっけなく縊り切られていただろう。鮮やかに美しく、痛みは一瞬で終わる。だが今は、冷静さを失い力の奔流を制御できないが故に、彼は男を殺し切れず、徒に苦しみを長引かせていた。
「わざわざ私に殺されるために生き永らえていたとは殊勝なことよ。貴様の願い通り殺してやる!今ここで!」
首を絞める手により力を込める。殺す殺す殺す殺す殺す。そうやって殺意を昂らせるほどに、力の焦点がぶれて首の骨さえも折れない。

男はひたすらに無抵抗だった。腕は力なくだらりと下がり、フジキドのされるがままになっている。
――だが、ふと、その目が薄く開かれた。朝露に濡れ、くしゃくしゃと乱れた前髪の隙間から、男のうつろな目がのぞく。あの鋭いハガネのような眼光はなく、ただただ虚無であった。首を締め上げられているというのに苦悶の表情ひとつ見せない。
「どうした、抵抗せんのか!この手を振り払い、私に斬りかかってみせろ!かつて貴様が殺してきたニンジャ共のように!」
声を荒らげて迫る。もう片方の手で、男の顔の横の地面を強く叩いた。その衝撃を受けて、遠くの木々に留まっていた鳥達が一斉に羽撃いた。ばさばさと大きな音を立てて二人の頭上を飛んで行く。

行き場を失いかけた握り拳が、この怒りを手放すまいと必死に爪を食い込ませた。血が滲むほどに。
「貴様!それでもダークニンジャか、我が妻子の仇か!…………何か応えろ!」
最後の言葉はまるで懇願のように悲痛な響きを伴っていた。少なくとも、殺したいと思う対象に向ける響きではない。そこまでして呼びかけても、聞こえているのかいないのか、男はぼんやりとどこか遠くへ視線を彷徨わせるだけだった。目が合うことはない。
彼は男の首を掴んだまま、自分の顔の近くへと引き上げた。鼻先が触れ合いそうになる程の近距離でその名を吠える。


そこではじめて、男は反応を見せた。ゆっくりとその肩が上がり、首を掴むフジキドの手首に男の指が触れる。
白い唇が、かすかに動いた。

――さむい、と。


フジキドは雷に打たれたように硬直した。怯んだ拍子に右手が首から離れた。男の体は重力に逆らわず、背中からどさりと地面に崩れ落ちる。
手首に触れた男の指先は、ぞっとするほど冷たかった。その冷たさに、フジキドの憎しみと殺意はあっという間に凍らされてしまった。あれほどに彼を昂らせ、怒り狂わせていた感情は掻き消え、代わりに、何か取り返しの付かないことをしてしまったかのような後悔と焦燥、胸を引き千切られるような痛みが襲う。

「……ッ!」
何故だ。何故こんなにも精神を乱されている? 男の体温が思いがけず低かったことに動揺したのか。首を締められ、命を奪い取られる恐怖――フジキド自身が与えた痛みや苦しみよりも、身を凍らせる寒さの方が、男にとって耐え難いものであったからか。自分には男のうつろな目を変えることができないと思い知らされたからか。理由はいくらでも見つかるようでいて、どこにも答えはなかった。

力なく横たわる男を、彼は呆然と見下ろす。白い首筋にくっきりと浮かび上がる己の指痕。男の目は、灰色の髪に隠れて見えなくなった。その代わり、うすく開かれた唇が、かたかたと小刻みに震えていることに気付く。
――耐え切れず、男の体を抱き上げた。そうして強く、強く、掻き抱く。その体は氷のように芯まで冷えきっていた。……さむい、と告げた言葉は真実だった。
ここにいるのはニンジャではない。妻子の仇でもない。弱り切って動けずにいる、ただの人間だ。寒さに震える小さな子供だ。
彼は、自分の体温を少しでも分け与えるかのように、きつく男の体を抱き締めて離さなかった。



(3)へ続く

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2015/08/04


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