羽根濡れ烏の追憶
体を覆うように、ふんわりと空気を抱く髪。少し下がれば地面につきそうな黒髪を、しかし持ち主は無造作に払う。
「濡烏」
彼はそう呼んでいた。本来は烏の精であることを知らずに。いや、あるいは。
「濡烏、髪は女性の命なのだから、大切に扱わないと」
それが会う度の口癖だった。髪を一房すくい取り、ひとしきりほめちぎった後で。こんなに長くて綺麗なのに、地面に散らばって泥だらけになっていると。
「私は女ではないよ」
「そうなの? 俺には女性に見えるのだけど」
精悍と称されていたのだろう、種族は違えど見ていて目の保養になる顔だった。その内の眉をわずかに動かし、驚きを表す。
「私は妖精だ、人間のような性別はない。男にも女にもなる」
「なら、俺と会う時は女性の姿で」
思わずとっくりと顔を眺めてしまったことを覚えている。願われたのだ。女の姿でと、希望を言われたのだ。神族ではないのに。
「駄目かな?」
「……さて、な」
些細な願いだ。叶えること自体は簡単だった。ただ、願いは固定をうながす。
「濡烏」
次に彼が現れた時、木の枝に止まり見つめていた。木陰に隠れているのか、川のほとりに寝そべっているのか、と捜して回る彼を上から眺めていた。その次も、さらにその次も。
季節がひと巡りする頃になり、彼はようやく視線を頭上へ向けた。
「……その姿だと、どちらか見分けがつかないのだけど。ねえ、濡烏」
「どちらでもないのだから、仕方ないよ」
それに私は、ただの烏だ。
「濡烏」
彼の精悍な顔で、特に目が好きだった。
「また、ね?」
「さて、ね」
私の羽根と同じ、烏の濡れ羽色だったからか。
「烏」
振り返ると、燕が立っている。
「珍しいねぇ、人間の姿でぼーっとしてるなんて」
どうしたのかと問うてくる燕から目をそらす。
「何も。ただ、しきたりで名前を持てなかった男を、思い出していただけさ」
あの、黒い目を。
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