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*「胡蝶の夢(短編)」→「夏の約束(SSS)」後の話


*蜘蛛の巣


 なにが起きているのか、自分でも分からなかった。
 滅多に会わない友人と会って、話が弾んだ。今度どこかへ食事に行こうと盛り上がった。特に珍しくもなんともない、ありふれた会話だった。
 相手はナグモがリユセ基地勤務だったことを知って、笑って言ったのだ。「リストランテ・セラドンのランチが食べたい」と。
 それくらいならなんともなかった。セラドンはテールベルトの有名店だ。最近はヴェルデ店もオープンし、雑誌や紹介番組でもしょっちゅう取り上げられていて、今更セラドンの名前だけで思考が止まるようなことはない。

「セラドンかー、有名だよね。私も一回行ってみたかったな〜」
「リユセにいたときに行かなかったんですか? ナグモさんならいろんな人に誘われてそうなのに」
「残念ながら機会がなかったんだよね。あ、そうだ、セラドンもいいけどさぁ、他のお店とかどう? この辺りで安くて美味しいお店知ってるよ」

 セラドンには先約がある。大切な友人と約束しているから、それが果たされるまでは行けない。似たような会話をしたとき、ソウヤにはそう言った。
 思い出は深く胸に突き刺さり、塞がったと思った傷をまた抉る。それでも、気づかれない程度には笑えていたはずだった。――そのはずだったのに。

「そうですね、他のお店にしましょうか。せっかくいい店を予約して、なにかあって予定が流れちゃったら寂しいですし」

 そう言った友人もナグモと同じ軍人だ。なにがあるか分からない職に就いている以上、直前で予定通りにいかなくなることなど山ほどある。それは別に、自身の命の危機を想定するような大層なものではなく、軍人ならばあって当然の感覚だった。だからこそ、一般の友人と先の予定を立てることは難しい。
 お互い軍人で、予定通りにいかないことも慣れている。そこになんの含みもない。天気予報を見て、「明日は雨らしいから傘を持って行きましょうか」と言うのと同じくらいの感覚だ。
 だから、ナグモは「そうだね」と笑ってオススメの店を紹介すればよかった。あくまでも普通を貫き通すつもりなら、そうすべきだった。ナグモ自身は間違いなくそうするつもりだったのだが、目の前の友人の表情が驚きに染まっていく。

「ナグモさん?」
「え? あれ、え、なにこれ……」

 ぽた、と雫が落ちた。手の甲に落ちてきたそれは熱くて、休憩室内の水漏れやなにかではないことは明白だ。
 瞬きをすれば曇っていた視界が晴れ、そしてまたすぐに滲んでいく。とめどなく溢れる雫は、ナグモの瞳から落ちていた。
 自分が泣いているのだと気づいた瞬間、脳裏に思い出したくもない映像が流れた。船内を染め変えた赤黒い色。連日訪れるカラスの尋問。淡々と告げられた友人の死。
 ――セラドンのランチを食べたいとはしゃぐ、自分の姿。

「あ、ごめ、ちがっ、なんでもない、」

 違う、泣きたいわけじゃない。
 思い出したくない。困らせたくない。相手はなにも知らない。知らせることすらできない。あの日々は封じなければならないのだから。
 必死で笑おうとしているのに、長年連れ添ってきた表情筋は容易くナグモを裏切った。口角を上げようとすれば情けない声が上がりそうになり、壊れた涙腺はとめどなく涙を流し続ける。震える身体を片手で抱き締め、口元を覆って吐き気に耐えることで精一杯だ。


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