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「国家軍政省緑花防衛大臣官房付防衛書記官緑花防衛政策局調査課事故調査委員会再発防止対策室のセイビと申します。よろしくお願いします」

 男のくせに背中まである黒髪は、まさに烏の濡れ羽色をしていた。首の後ろで一つに束ねられているが、その濡れたような艶は隠せない。動くたびに背中で揺れる毛束は、上質な絹糸のようでもあった。涼しげな目元も、薄い唇も、どれをとっても背広組に似合いの風貌だ。
 身長は平均的か、もしくは少し高い程度。さほど高身長という印象は受けない。見るからに頭のよさそうな顔立ちだが、呪文のような肩書きをすらすらと吐き出す口には嫌味を感じる。顔面偏差値はそう低くなかった。『こんな状況』でなければ、少しからかってやろうかと思うほどだ。
 ナグモはそんなことを考えながら、分厚いガラス越しに彼を見ていた。
 スピーカー越しに彼の声が届く。
 たくさんの監視カメラが、ナグモをじっと見つめていた。


胡蝶の夢


 アオニ州リユセ基地のすぐ前にあるアオニ緑湖は、テールベルト最大の湖だ。湖というよりも海のような広さで、焦土地帯に阻まれて海などなかなか拝めないテールベルトにとっては重要な水源でもある。湖面は時間によって色を変え、明け方は淡い紫に、昼はその名の通り鮮やかなエメラルドグリーンに、そして夜は深い藍に染まる。アオニ緑湖から伸びた大きな河川はやがて枝分かれを繰り返し、国境を跨いでカクタスとも通じていた。
 海路を重要視しなくなった欠片プレートの主要三国は、海軍を持たない。三国それぞれがその代わりとなる部隊を陸空軍に設けているが、ここテールベルト空軍リユセ基地に配備されている湖上艦隊がまさにそれだった。名目上は特殊部隊でないものの、その特殊性は極めて高い。
 小さな町のほどの機能を持つ母艦にたくさんの航空機を配備し、湖の安全を守る。密輸の防止や国境警備のため、パトロールを行うのが主に湖上艦隊の任務だ。リユセ基地から国境付近までは、最高速度で航行しても丸一日かかる。枝分かれした河川やその先の姉妹湖の警備や各施設の点検も行うため、一度出航すれば最低でも三日は基地に戻れないのが常だった。場合によっては、一年以上基地に戻らないこともある。
 船の上での集団生活。そのため女性隊員は自然と少なくなるが、それでも皆無ではない。
 艦載機パイロットであるナグモも、数少ない内の一人だった。

「ねえ隊長、また私のパンツ盗りました?」
「はあ!? おまっ、人聞きの悪いことほざいてんじゃねぇよ! またもなにも盗ったことねぇわ!」
「あれ、そうでしたっけ。――ちょっと、じゃあ誰? あれ高かったんだからね! 上下セットで1万8千ユドル! 盗るならしっかりお金置いてってよ!」
「ナグモ、お前それおかしい」

 げっそりした顔で項垂れた隊長を前に、艦内の食堂がどっと沸く。ナグモが所属する第一攻撃隊の隊長であるリュウセイ二尉は、大きな手でナグモの頭を叩いてより一層深い溜息を吐き出した。三年付き合ってきた彼女に振られたばかりとの話だったのでてっきり欲求不満になっているのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
 なくなった下着を求めて犯人捜しを続行しようとしていたナグモは、急に静まり返った空気に首を傾げた。「――あ、」もしかして。
 振り向いた先にいた予想通りの人物に、反射的に口元が緩む。

「艦長!」
「なんの騒ぎですか、これは。皆さんとても楽しそうですね」
「聞いてくださいよ、リュウセイ隊長がまた私のパンツ盗って、」
「だから違うつってんだろうがこのアマ!」

 ag-s2、通称「青磁(せいじ)」の艦長であるセイランが、柔和な顔立ちをさらに穏やかに和ませて笑った。つい先日34歳の誕生日を迎えたばかりの若き艦長は、言われなければ軍人とは思えない外見の持ち主だった。日焼けからは切っても切り離せないはずの船乗りでありながら、セイランの肌は驚くほど白い。柔らかそうな髪も、和やかな目元も、軍人ではなく保育士でもやっている方がよほど似合っている。
 確かに民間人に比べれば身体は鍛えられているが、それでも軍の男にしては線が細い方だ。それになにより、30代前半で艦長にまで登り詰めた異例の出世スピードはどこに行っても有名だった。
 とても軍人とは思えない、物腰柔らかな男性。それでいて艦長として隊員達を纏めきれるのは、彼が穏やかなだけの人間ではないことを現している。
 こんな品のない騒ぎなど、彼が本気になれば一瞬で沈めることができるだろう。

「――それなら、僕の部屋に忘れていましたよ」

 リュウセイの罵声と隊員達の喧騒に紛れて、小さな囁きが耳元に落とされる。触れた吐息の熱さにぞくりとしたものを感じて顔を上げれば、そこには変わらず慈愛の笑みを湛えるセイランの姿があった。
 誰からも見えないように、彼の指先がそっとナグモの背をなぞる。からかうように指先で腰を叩かれ、小さく心臓が跳ねた。

「皆さん、もうすぐ帰港だからといってあまりはしゃぎすぎないようにしてくださいね。戻ったら三日間の休暇が与えられますが、羽目を外しすぎないように。まだ任務は終わっていません。最後まで気を抜くことは許しませんよ」

 「はい!」誰もが姿勢を正して敬礼したのを見て、セイランは満足そうに食堂をあとにした。僅かに火照る頬の熱を逃がそうと大きく息を吐いたナグモに、じとりとした視線が絡みつく。なにかと思えば、呆れた眼差しを向けてくるリュウセイだった。
 艦内からは作業員の声が絶え間なく聞こえている。笑声も、罵声も、品のない会話も。

「なんですか?」
「いや、別に」

 ちらりと確認した時計は、課業時間終了五分前を告げていた。

「あ、もしかしてやっぱり私のパンツ、」
「盗ってねぇ!!」



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