夏の約束
*時間軸:「胡蝶の夢」後しばらく
「……もしもし。セ、――艦長ですか? 私です」
端末を握る手が震えたなんて言ったら、貴方は笑うかな。それとも、呆れる? 今、どんな顔してる? ねえ、このコール、どんな気持ちで出てくれた?
聞きたいことはたくさんあるのに、そのどれもが言葉にならない。不思議だね。顔を合わせれば、あれほど話が弾んだのに。
かけてみようと思ったのは、別に今日が最初じゃない。端末を手にしてはなにか理由をつけてやめて、何度も何度もそれを繰り返して、やっと今日その理由がなくなって発信ボタンを押した。
『お久しぶりです。お元気ですか?』
「はい、もちろん。元気すぎて困っちゃうくらい。そちらは?」
『元気ですよ。僕も、他の皆さんも。アオニ緑湖の色も濃くなってきました。確か、君の好きな色でしたね』
ああ、そんなこと言うんだ? 相変わらず意地の悪い人。優しくて穏やかで、けれど甘いだけじゃない。
聞こえてくる声には動揺の欠片もなく、安堵と落胆が同時に胸を揺する。この声に少しでも変化が見られたら――だとしても、だからどうしたって話なんだけど。
「あー、そっちはそろそろいい時期ですよね。夏場は絶対、ヴェルデよりアオニの方が過ごしやすいですもん」
『本当に。休憩時間に湖に飛び込む子達を叱らなければならない季節が、またやってきてしまいました』
「あはっ、そうそう、私も怒られましたもんね」
『そうですよ。君が率先して飛び込むから、他の隊員も真似をするんです』
「艦長だって、気持ちよさそうって言ってたくせに」
透き通った冷たい湖に飛び込んで、火照る身体を冷やして。エメラルドグリーンの湖の中は、どんな世界よりも美しく感じた。貴方は驚いたように私を見て、それから眉を寄せて叱ってくれたんだっけ。
他のみんなの前では、お遊びが過ぎる隊員を叱る艦長として。二人きりのときには、透ける服を無防備に晒す彼女を叱る恋人として。
あそこには、たくさんの思い出がある。
いつか休日に、一緒に泳ごうと話したことがあったよね。覚えてる? みんながいる前でそんなことできるはずもないのに、あれもこれもといろんな計画を立てて。新しい水着を買うって言ったけど、結局まだ買えてない。
『ヴェルデ基地での生活には慣れましたか?』
「はい。まあ、もともとヴェルデ勤務でしたし。それに元彼とも再会できたし、楽しくやってますよ」
なに言ってるんだろう、私。口を突いて出た台詞に、自分自身で呆れちゃう。自覚していない部分で期待していた反応なんて、返ってくるはずがないのに。
端末の向こうで、小さな笑い声が聞こえる。
『おやまあ。あまり羽目を外しすぎないように』
――ほら。馬鹿な期待をするから、傷つくはめになる。
甘ったるい言葉を紡ぐのは大得意のくせに、この人はそれでいて甘くないから困る。溺れそうなほどの蜜香で引き寄せておいて、実際に持っているのは毒に近い。囚われて、毒に痺れて、身動きが取れない。
そんな私をあっさり解き放っただなんて、ひどいよね。
ねえ、最後の言葉、覚えてる? ねえ、あれ、まだ有効?
聞きたくても聞けない。聞いて答えが出るのが、ひどく怖い。
「あ、ねえ、艦長、」
『ナグモ曹長、僕はもう君の艦長ではありませんよ』
見えるはずもないのに無理やり笑顔を作ったまま、そのままの状態で石のように固まった。
ちょっとなにそれ、あんまりじゃない? 最後の繋がりまで切ろうって言うの? どこまで意地悪なの、ねえ。
……ねえ、もう、部下としてもコールしちゃいけないの? 私がどんな思いでかけたと思ってるの。せめて、せめて元部下としてはって、そんな風に必死で考えて、悩みに悩んでかけたのよ。
それとも貴方にとって、私はその程度だった?
『――そんな顔をするくらいなら、最初から部下としてかけてこなければいいでしょう』
「え……?」
『最初に“部下として”振る舞ったのは君の方です。僕はそれに合わせただけですよ』
なにそれ、意味分かんない。
顔なんて見えるはずもないくせに。そう思ったのがばれたのか、彼は「見なくても分かりますよ」と言ってきた。
『君はもう、僕の部下でもなければ湖上艦隊の人間でもない。リユセの外の人間です』
「あー……、たしかに、そうですね」
ちゃんと笑えてる? みっともない声、出てない?
ねえ、私、大丈夫?
『ナグモ曹長。君は聡明な子ですが、昔から少し詰めが甘い』
「……すみません」
『理由も分からず謝るなんて君らしくない。馬鹿な子ですね。――君は、もう“湖上艦隊の人間ではない”んですよ、ナグモ』
その声の柔らかさに、蜜のような甘い響きに、目を見開く。心臓が跳ねた。なにこれ、え、全然意味が分かんない。だってそんな、だって。
「え、あの、」
『いつまでも艦長と呼ばれては、僕も意地悪の一つや二つ、したくなりますよ。せっかく枷が外れたというのに』
「ちょっ、ちょっと待って! それってどういう、」
『君が決めなさい。僕の本心は、あのときすでに告げたはずでしょう?』
失いたくない。彼は確かにそう言った。この身体を強く抱き締めて、熱く、甘く、――それでいてひどく苦く、囁いた。
捕らえられていた蜘蛛の巣から解放されて、大空に放たれて。もう振り返るなと言われたようで、怖かった。
深い暗闇の中にたった一人、取り残されたような気がして。
「――せい、らん」
『はい?』
「ねえ、セイラン」
『なんですか』
「……私、遠恋って苦手なんだよね」
『でしょうね。君は寂しがりやですから』
「……それでも、頑張っていい?」
『どうぞ。むしろ頑張りなさい。言ったでしょう? 僕は、君を失いたくない』
ああ、そう。そうだ。
確かに、聞いた。
「なら、ちゃんと捕まえといてよ」
『努力します。どこかの誰かのように、電話一本で振られないように』
「……ソウヤのこと、気にしてるの?」
『まあ、それなりに嫉妬深い方なので』
笑い声が近くで聞こえる。端末を通した、声。記憶にあるものとは少し違うけれど、それでもやっぱり甘くて優しくて、――意地が悪い。
ねえ、セイラン。
もしかして貴方、最初から私のこと手放すつもりなんてなかった?
そう訊いてみたら、どんな返事をするんだろうね。――怖くて、聞けやしないけど。
「あのね、」
『なんですか、ナグモ』
「水着、何色が似合うと思う?」
夏の色が濃くなれば、アオニ州に遊びに行こう。
そしてあの湖で、彼と一緒に泳ぐのだ。
いつかの約束を、果たすために。
(ソウヤとセイランの会話とかめっちゃ興味あります)
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