2 [ 152/193 ]


「なんで、ちがうの、こんな……」

 すぐに治るからと笑おうとしたナグモの視界に、闇が訪れた。
 ついに目までおかしくなったのかと思ったのは一瞬だ。目元に、肩に、背中に、優しい熱が触れている。

「すみません、驚かせてしまいましたね。――この子、返してもらいますね」
「あ、はい、どうぞ」

 唖然とした友人の声が闇の向こうから聞こえる。すぐ耳元で聞こえた優しい声は、ここでは聞こえないはずのものだというのに、どうして聞こえるのだろう。もしかしてこれは夢なのだろうか。そんなことを考えていたら、「立てますか」と疑問形ながらも問答無用で立たされ、肩を支えられてどこかへ連れて行かれた。
 立ち上がるなり闇はすぐに晴れたけれど、またしても世界は暗くなる。どこか甘い香りの漂う上着がナグモの頭に降ってきたせいだ。もう間違えようがない。ナグモの肩を抱いてひと気のない場所を目指すこの人を、ナグモが間違えられるはずがなかった。

「せ、ら、どうして……?」
「今日は定例会のため、午後からヴェルデ基地にいたんです。――昨日、そう連絡しましたよ」
「そう、だっけ……?」

 そんなことすら忘れるほど、今の自分は頭が馬鹿になっているらしい。
 ロック解除の電子音が響く。連れ込まれたのは埃っぽい倉庫だった。セイランには到底似つかわしくない場所だが、休憩室から最も近くのひと気のない場所と言えばここが最適だったのだろう。
 頭から被った上着がずり落ちる。泣き濡れる瞳を正面から覗き込まれ、喉の奥がきゅうと締まった。先ほど目元を覆ってくれていた大きな手のひらが、包み込むようにナグモの頬に添えられる。

「どうしました」
「あの子、わるくないから」
「分かっています。彼の悪意で泣かされたとは思っていません。――ナグモ、なにがあったんですか」

 アオニ州リユセ基地に所属する湖上艦隊の艦長セイランは、穏やかな風貌のわりに有無を言わせぬ迫力を醸し出すときがある。そうでなければ艦長などは務まらないのだろうが、こういうときはその迫力が少し怖い。
 セイランもあの一件を知る一人だ。あのときの地獄を味わった張本人でもある。
 だが、それでも彼は知らない。ナグモが友人であり上官のリュウセイとどんな約束を交わしていたのか、セイランは知らないのだ。
 言う必要はなかったし、言いたくもなかった。リストランテ・セラドン。その単語がナグモの心を軋ませることなど、誰にも、――たとえセイランにも、告げる気はなかった。
 だから「なんでもない」と首を振ったのに、セイランは少し怒ったような顔をして顔を近づけてくる。

「ナグモ。どうして泣いているんですか」
「なんでもない、ってば……」
「僕にも言いたくないことですか」
「ほんと、大丈夫だから」

 止まって、お願い、もう平気だから。
 傷ついてなんかないから。苦しくなんてないから。悪夢なんて、もう、見てないから。
 こんなことくらいで立ち止まる自分を見られたくない。いつまでも終わったことを引きずって、そのたびに傷ついている弱い女だと思われたくない。
 そう思うのに、涙は止まらない。大丈夫だと言えば言うほど流れは激しさを増し、ついには大きく身体を震わせてしゃくりあげるはめになった。突き刺さるセイランの視線が痛い。目を合わせることができず、セイランのネクタイの辺りに視線を彷徨わせていた。
 もうすべては終わったことだ。地獄のような三ヵ月間も、それによって失った人やものも、もうすべて過去の話だ。今の自分はしっかりと立っている。新しい部隊にも慣れ、友人もたくさんできた。遠距離ながらも優しい恋人もいて、充実した日々を送っている。
 だからもう、なにも憂うことはないはずなのに。


[*prev] [next#]
しおりを挟む

back
top

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -