STORY | ナノ

▽ ぬくもりを贈ろう


 寒いのは嫌いじゃない。

 とんとんとん、とまな板の上でりんごを切り分けていく。セットしていたケトルがこぽこぽと音を立てる。窓からはくもり空が見えていて、とっくに日の入りの時刻を過ぎているのに、外はうす暗い。今日はとことんひえそうだ。
 ディズィーが迎える、いつも通りの朝。窓ガラスに霜が降りるこの季節は、いくら暖房であたためても薄らさむさを感じてしまう。しかし、朝起きた時の、布団から出るのが名残惜しい気持ちも、朝の支度をはじめるこの時間も、ディズィーにとってはささやかな幸せのはじまりだった。さむいのは、嫌いじゃない。
 朝食にはよくくだものを出す。シンにとっては物足りないかもしれないが、栄養面を考えるとどうしても外せない。ジャムもパンやラスクのお供に必須だ。昨日プラムのジャムを買ってきたから、今日はそれにしよう。以前プラムのジャムを出した時、はじめて口にしたのであろうラムレザルとエルフェルトが目を見開いて、酸っぱい、と慌てていたことを思い出して思わず頬を緩めてしまう。今回は甘いと評判のものを買ってきたので、気に入ってくれるといいな、なんて。
 ふだん朝食にはディズィー愛用の庭で育てたものを出すのだが、ここ最近は市販を買うことが多かった。このりんごやプラムのジャムも全て市販だ。それも魔法災害の影響で庭が荒れてしまったからなのだが、しばらくは自分の育てたものを愛する家族に食べてもらえないのは少しかなしい。でもこれも世界の決まりごとだから仕方ない。そう思えば少しだけ気分は晴れた。魔法災害を経て、荒れ果てた庭を整えて現在はオレンジやキウイを育てている。育つのにはまだ時間がかかるけど、無事美味しい実が成ってくれるといいな。ディズィーはくすりとほほえんだ。
 そろそろみんなが起きてくる頃だ。今日もカイはミルクティーだろうか。ミルクをあたためなければ。今日は一段と冷えるから、シン達にもあたたかいミルクを用意しよう。さて、今日は誰が一番に起きてくるのかな。
 数年ぶりに再開したシンは最後に見た姿よりも大きくなっていて、ディズィーや、カイの身長さえ追い越して、とてもたくましく成長していた。しかし優しいところや、朝が弱いところは変わっていなくて、我が子の成長がうれしい反面どこかさびしさを覚えるものの、安心したのを覚えている。でもそんなシンにも少し変化が現れた。以前までは起こしに行くまで起きなかったが、最近はラムレザルとどちらが早起きできるか勝負をしているらしい。今のところラムレザルの方が勝率が高く、大体先に起きてディズィーに挨拶に来るのはラムレザルが多い。エルフェルトも一時期その勝負に参加しようと奮闘していたが、しばらくして諦めてしまったようだ。勝負の前にも、花嫁修行です! と宣言しては早起きをしてディズィーの手伝いをしようとしていたことがあるが、どうしても起きてくるのは一番最後だった。どうやら夜更かしには勝てないらしい。ふだんからエルフェルトやラムレザルには家事を手伝ってもらっているから、無理をする必要はないのだけど。
 やっぱり今日も一番に姿を見せてくれるのはラムレザルだろうか。でも冬に近づくにつれシンとの起床の差はほとんどなくなってきたから、カイが一番早いかもしれない。誰が一番に来てくれるかな。
 こうして家族のことで色々と思いを馳せるこの時間が好きだ。今日は冷えそうだと思えば暖房をいつもよりあたたかくして、今日の朝食の飲み物はなににするんだろうと考えて、誰が一番に起きてくるか予想して。そして気がつけば誰かが扉を開けて、おはよう、って声を聞かせてくれる。ありふれているようで、かけがえのない宝物。
 ミルクをあたためよう。そう思い、片手鍋に手をかけた時だった。ちらりとなにかが視界の端にうつる。ふとディズィーは顔をあげた。視界の先。窓の外は相変わらず曇り空で、しかしその景色にも一つの変化が現れていた。
 ──雪だ。
 ディズィーは目を見開いた。ちらり、ちらりとおおきな粒が空から落ちていく。まるで雨に命が宿ったみたいだ。一つ一つが認識できる。
 ディズィーは雪ははじめてではない。毎年毎年、場所は違えど何度もその景色を見てきた。でも雪を見るたび、懐かしくなるこの感覚はなんなのだろう。
 ぼーっと空を見上げて、ディズィーはちいさくほほえんだ。雪は、空からのおくりものだ。



 寒いのは好きじゃない。
 どちらかといえば嫌いな部類に入ると思う。冬はあまり好きになれない。雪なんて以ての外だ。雪は寒さの象徴だし、身も心も冷たくなる。なにもいいことなんてない。
 そんな八つ当たりにも近い感情を、ディズィーはスープをかき混ぜる手を止め、窓の外で降り続ける雪にぶつけるようにじっと見つめていた。せっかくあたたまるようにと晩ごはんにスープを作っていたのに。見ているだけで凍えてしまいそう。もう百貨店やショッピングセンターは閉店する頃だろうか。灯りがなければその先さえ見えないほどに真っ暗だ。今頃月が空で輝いているはずなのに、雲に覆われていてなにも見えない。だというのに雪のおおきな粒だけは闇に溶け込むことなく降り続けては存在を主張する。ディズィーはちいさくため息を吐いた。
 鍋に蓋をして火を止めると、ディズィーはカーテンを閉めて椅子に腰かけた。テーブルの上に飾られたラナンキュラスの花が目に入る。赤色、白色、ピンク色。可愛らしく生けられたこの花は、つい最近、仕事から帰ってきたカイがディズィーの為にとプレゼントしたものだ。
 心の底から嬉しくなったディズィーは、生けてからというもの花の手入れは毎日欠かさなかった。リビングや私室に飾っては、家事やプライベートの時間等のほんの隙間に、じっと見とれては頬を綻ばせたりもした。ディズィーの心を弾ませてくれるラナンキュラスも、今はなんだか寂しい気持ちになってくる。これもきっと寒さのせいだ。なんて、これも八つ当たり。今日もカイの帰りは遅いのだろう。十二月は忙しくなるのだとカイは話していた。それはディズィーも理解していたし、カイならば無事に帰ってきてくれると信じている分体調を崩さないか心配になりながらいつも帰りを待っているのだが、今日のディズィーは少し違った。寂しい気持ちになるのだ。寒くて、雪の降る日はこんなにも寂しい。

 はじめての冬は、とても残酷だった。
 育て親に手を引かれ、悪魔の棲む地にやって来たのは冬に差しかかった頃のことだ。ディズィーの手を優しく握ってくれる育て親の手はあたたかい反面、冬の冷気は容赦なくディズィーの体温を奪っていく。
 悪魔の子。
 世界に災いをもたらす、人間の敵。
 村の人々から投げられた罵詈雑言がディズィーの頭から離れない。
 自分は、ギアなのだという。人間とは違う、なにか別のいきもの。ディズィーに生えている羽根やしっぽがなによりの証拠だ。村の人々も、育て親にも生えていない。ディズィーだけが持っている、異種の証。
 はじめはよく理解ができなかった。老夫婦と同じく、捨て子のディズィーをあたたかく迎え入れてくれて、いつでも優しくしてくれたひとたち。野花を摘むディズィーの姿にほほえみさえくれた彼らがなぜ、畏れるように、憎むように自分を見ているのだろう。なぜディズィーの前に立つ老夫婦を責め立てているのだろう。分からない。なにも分からない。夜が更ける頃、老夫婦に起こされた意味も。手を引かれ、急ぎ足で村を出ていく理由も。なにも分からない。分かりたくない。
 一つだけ分かったのは、真夜中の外はこんなにも冷えることだった。日が差さない。あたたまるものがない。この時間は、いつもならばディズィーはあたたかい毛布にくるまって眠っている時間だ。まだ幼いディズィーは夜に冒険に出る勇気もなく、ただただ老夫婦のぬくもりに触れていた。ディズィーの大好きなひとときでもあった。
 空気の寒さだけじゃない。なぜだろう。心もとても冷たい。まるで心臓に氷を当てているかのようだ。凄く冷たくて苦しい。…寂しい。
 冬って、こういうものなのだろうか。ディズィーが抱いた、はじめての冬の感想がそれだった。

 こうしてディズィーの孤独な生活がはじまった。寒い寒い冬の季節。老夫婦が毛布やあたたかいものを色々持たせてくれたけど心の冷たさはあたたまらない。ほどなくしてテスタメントと出会って、森に棲む動物たちと仲良くなって、冬は過ぎ、季節は巡ってまた冬がやってきて。今度の冬はひとりじゃない。密業者が来ることはあるけれど、自分を責める者はいない。あの時とは違う。なのに、やっぱり冬になると寂しくなって、心は凍えていく。

 はっとなった。顔を上げた先で、ラナンキュラスは変わらずディズィーを見つめている。ディズィーはかぶりを振った。また、思い出してしまった。冷たいと感じるのは、いつも昔を思い出すからだ。だったら考えなければいいのに、雪を見るとどうしても思い出してしまう。あの時、老夫婦にあの森に連れていかれた時も、きっとこんな雪の日だった。雪がディズィーに寂しさを連れてくる。
 あぁ、なんて寒いんだろう。カイさん、早く帰ってこないかなぁ。ディズィーは心細さで膝を抱えた。
 今も頑張ってくれているカイに自分本意な願い事。なんて浅ましいんだろう。これも全部、雪のせい? ううん、違う。ただ自分が寂しいだけ。分かってるのだ。



「あーやっと終わった!」
 シンは体を放り投げるようにソファにどかりと座った。体のあちこちに疲れを感じる。ふかふかのソファにその身を沈ませると、だんだん疲れがとれていくような感覚がして気持ちいい。
「シン、お疲れ様。手伝ってくれてありがとう」
 向かいソファに腰かけるエルフェルトは、ラムレザルの両手をぎゅっと包み込みながらシンに笑顔を向けた。エルフェルトのお礼にラムレザルもこくりと頷くが、目は自身の手を包んでくれているエルフェルトの手をじっと見つめている。表情は乏しいものの、どこか嬉しそうだ。
 ラムレザルやエルフェルトに疲労の色はない。実際は疲れているのだろうが、そんなのあたりまえ、といった感じで彼女達のふだんの姿に溶け込んでいた。全身で休憩の形を取っているシンとは大違いだ。二人とも表情一つ変えずにいつもディズィーの手伝いに勤しんでいるからこれくらいならば楽勝だろうと考えていたが、案外家事も重労働だ。こんなことをずっと続けていた母さんは、もちろんラムやエルもだけど、凄いな。シンは改めて思った。
「エルの手はあたたかいね」
 ラムレザルは口を開いた。握られたままの両手はまだ離れる様子はない。
「ラムはずっと洗い物をしてたんだもの。あたたかくて当然よ。それに洗い物をするならお湯にすればいいのにどうして冷たいお水を使うの?」
「こうやってエルにあたためでもらうと心もあたかかくなるの。きっとこれも、私にとって "違う" なんだと思う」
「ラム…」
「迷惑だった…?」
「ううん、全然! 迷惑なんかじゃない。ラムさえよければ、いつでも私があたためてあげる」
 満面の笑みを浮かべてエルフェルトはぎゅうっと握る手を強めた。痛い、と小さな声が聞こえて、シンは思わず笑みをこぼした。
 こんななにげないやりとりも、はじめて会った時は交わすこともなかった。二人がやっと手に入れた、あたりまえのようでかけがえのない日常。これまでの彼女達ののことを思うと、ほほえましい光景に幸福を感じずにはいられない。
「でもラムはなにもしてなくても手が冷たい方だよね。寒くない?」
「考えたことはないけど、冷たいとなにか不都合なことがあるの?」
「不都合というか、本人がいいなら大丈夫だと思うけど…。まぁ手が冷たい人は心があったかいって言うもんね」
「じゃあエルの心はあたたかくないのか?」
「え?」
「エル、そうだったの?」
「えっ、こ、これは!」
 エルフェルトは両手をあたふたとさせて視線をさまよわせた。その拍子でラムレザルの手が離される。エルフェルトを見つめるラムレザルの表情が少し残念そうに見えるのは気のせいだろうか。
「これは乙女のハートが細胞の隅々まで活性化させてヒートアップさせちゃうから! それで指の先まであったまっちゃうの!」
「それはウイルスが体内に侵入して、体の異変を排除させる為に免疫力を活発化させている時に起こりうる人間でいう風邪の症状と一致している」
「風邪!?」
「違う、そういうことじゃなくて〜!」
 勢いよく首を横に振るエルフェルト。もはや首が取れてしまうのではないかと不安になるくらいの勢いだ。跳ねた髪も一緒に揺れていて、つい視線で追ってしまう。
 ディズィーさん、とすがるような声でエルフェルトは振り返る。が、どこを見渡してもディズィーの姿はなく、エルフェルトの呼び声に応えてくれるものは誰もいない。
 シンは首を傾げた。
「母さんならずっといないぜ?」
 ディズィーは朝食を終えてからというもの一度も見かけていない。キッチンでも、リビングでも。そもそも先程シンが家事の手伝いに名乗り出たのも、ディズィーがいない分忙しそうに見えたからで。雪が降り続けている中、あまり積もってない地面は滑りやすくて気軽に外で体を動かせない、というのもあるのだが。ずっといなかったのになぜエルフェルトはいると思い込んでいたのだろう。シンは不思議で仕方なかった。
「あ、そうだった。いけない。家事ならいくらでも任せてください、って言っても結局ディズィーさんもやってるんだもの。いつもいてくれるから、つい癖で名前を呼んじゃった」
 てへ、とエルフェルトは小さく笑った。
「珍しいね。家事を丸々私達にゆずってくれるなんて」
「そうだよね。なにかあったのかな。出かけたわけではないみたいだけど…」
 さして気にする風でもなく、ね、と二人は首を傾げた。シンは窓の外に目をやった。雪は今も降り続いていて、止む気配は一切ない。さっきまではあまり積もっていなかったが、このままいけば明日、雪が止めばゆきだるまを作れるくらいにまで積もっていそうだ。その時はラムやエルも誘おう。雪合戦もやりたい。ふだん早起きの勝負ではラムに負けているから、雪合戦では完全勝利を目指したい。シンはひっそりと気持ちを奮い立たせた。
 こんな雪の中ならば、エルフェルトの言うとおり出かけるということはないだろう。家のどこかにいるのだろうか。思えばディズィーは朝からどこか様子がおかしかったような気がする。落ち込んでいるわけではなく、いつものような相手を包み込んでくれるようなほほえみを向けてくれていたが、なんだか、ぼやけて見えたのだ。嘘ではないのだが、ディズィー自身がぼうっとしているような。上の空、と呼ぶのも語弊に感じられるような。本当に些細で、だからこそシンも、今思い返せば、と今更気付けたのだった。
 悲しそうな顔をしていたわけではない。隠していても、ディズィーが辛そうにしていればすぐに分かる。昔からよく見てきたから。だからそこまで気にする必要もない。でも妙に気になるのはどうしてだろう。さっきまでそんなことはなかったのに。それもこれも今朝のディズィーの様子に違和感を覚えてしまったからだ。
「シン?」
「オレ、母さんを探してくる」
 声をかけるラムレザルにそう伝えると、シンはソファから立ち上がった。もうだるさはない。だいぶ休憩もできたみたいだ。行ってらっしゃい、と手を振るエルフェルトに手を振り返してシンは部屋を出た。
 行く宛もなく廊下を歩く。廊下は暖房は効いているものの部屋の中ほどのあたたかさはなく、部屋の中と廊下との温度差が余計寒さを際立たせた。シンは大袈裟に腕をさする。ディズィーはどこに行ったのだろうか。
 私室? ダイニング? 今日はカイは仕事を家に持ち込んでやってるみたいだから、執務室の可能性も高い。庭園にいる可能性は、ないと思いたい。いくらディズィーの大切な庭園だとはいえ、こんな雪の中で花や果物の世話なんかしに行ったら体に悪い。
 歩きながら窓の外の雪景色を眺める。一つ一つ形が分かるくらいの大きな粒がしきりに降り続いている。雪は嫌いではないが、足場が悪くなるから狩りにおいては圧倒的不利を強いられるし、雪が降っている中でなんてとんでもない。視界が悪くなるだけだ。だから前までは言うほど好きではなかった。今は、どうだろう。ラムレザルやエルフェルトは雪がはじめてみたいで、二人の目をきらきらさせて雪を眺めている姿を見ていられるのなら、悪くない。
 一人小さく笑っていると、ふと目の端でなにかが映った。シンは立ち止まる。どこで見た? 廊下は前も後ろも誰もいない。外だ。雪で危うく見落とすところだったけれど、確かにシンの目には映ったのだ。
 シンは窓に駆け寄って外をぐるりと見渡した。勢い任せにたまに窓ガラスに頭を軽く打ち付けてしまうが、構っている暇はない。
 ──いた。
 シンは一人の人物の姿を捉えた。玄関から少し離れた場所で傘をさして立っているあの人は。傘のせいで顔は見えないものの、長い群青色の髪、背中からはえた小さな羽根。間違いない。シンが現在探している人物、ディズィーが雪の降る中で、傘をさしてぼうっと立っていた。



「カイーッ!」
 勢いよく扉を開けると、部屋の中には机に向かうカイと、ソファに座るソルの姿があった。
 顔をしかめたソルとばっちり目が合う。
「うわっ、いたのかよオヤジ!」
「テメェはもう少し落ち着いて行動できねぇのか」
「しょうがないだろ。今ヤバいんだって!」
「なにかあったのか?」
 シンのただならない様子に、カイは真剣な眼差しをシンに向けた。シンは大袈裟に首を縦に振る。
「母さんが変なんだ」
「ディズィーが?」
「こんな雪が降ってるのに大して着込みもせず外で傘をさしてボーッとしててさ、いくら話しかけてもあんまり反応ないっていうか、曖昧な返事ばっかりなんだ。とにかく変なんだよ」
 ディズィーを見つけたシンは急いで外に出ると、はやく中に入るよう促した。しかしディズィーは一歩もそこから動くことはなかった。部屋着のまま、上になにも羽織らず。シンが言えたことではないが、見ているこちらが寒くなってくるくらいだ。このままじゃ体調を崩してしまうかもしれない。頼むから、はやく入ろう。懇願に近い形で訴えたものの、結局ディズィーは聞き入れてくれなかった。ディズィーの瞳は、じっと空に向けられたままだ。無視をされているわけではない。曖昧ではあるが、返事はしてくれている。なのに、まるでディズィーはシンをシンであると認識していないかのようだった。そんなディズィーの様子に、シンはえも言われぬ焦燥感に駆られた。このままじゃ、駄目だ。
 シンはディズィーから離れると、間を置かずカイのいる執務室を目指した。カイならば解決に導いてくれると思った。正直ディズィーのことでカイに頼るのは癪だが、ディズィーと一緒にいた時間はカイの方が長いから。母さんの為だし。意地を張っていられない。そう思ったのだ。
 あれこれと思い出しているとまたシンの中で焦りの色が濃くなっていく。空を眺めるディズィーは、どこか儚げだった。放っておけばそのまま雪に溶け込んでいくのではないかというくらい。雪に連れていかれてしまうような気がしてしまうのだ。
 シン。
 優しい声色で名前を呼ばれた。シンははっとなって顔を上げる。考えている内に俯いてしまっていたようだ。
 表情を暗くするシンに対し、カイはにこりと笑っていた。さっきまで鋭い目付きでシンに問うていたのに、あまりの落差にシンはむっとしてしまう。
「なんだよ、こっちはこんなに真剣なのに。母さんのことなのになんで笑っていられるんだよ」
「ああ、すまない。そうか…。今日は雪降の日でしたね」
 誰に語りかけているのか。カイはどこか遠くを見るように窓の外に視線をやった。雪は依然として降り続いていて止む気配はない。
「よくないな。身体を冷やしては。シン、母さんをあたためてあげてくれないか?」
「あたためるって。それより母さんを連れ戻すのが先だろ」
「あたためてあげればきっと母さんは戻ってくるよ」
 だから、あたためてあげて。
 目を細めるカイにシンはたじろいだ。全てを見透かしているような目だ。ディズィーがおかしい理由も、シンの焦りも。全て見透かした上で、それらを尊ぶような、そんな表情だ。
「…分かったよ。母さんのこと、あたためてくる」
 はやくその瞳から逃れたい気持ちになって、シンはぷいと振り返った。ああ、頑張って、と背後から聞こえてくる。シンの素っ気ない態度に大して気にしていないようだった。いっそのこと小言でも言ってくれればこんなに調子も狂わずに済むのに。心の中でそんな八つ当たりをして、シンは部屋を出ていった。


「…ガキ扱いが過ぎるんじゃないのか」
「うん? なんのことだ?」
「飽くまでしらを切るつもりか」
「いいや。本心だ。確かにシンは大きくなった。もうこの両手では抱えてあげられないほどに。しかしいくら大きくなっても、親にとって子はいつまでも愛しい子のままなんだよ」



 あたためてあげてと言われて、言う通りにしてみたけれど。
 ブランケットをかけてあげたけれど、それでもディズィーは空を見上げるばかりで、こちらに戻ってきてくれる様子はなかった。
 なんだよカイ。母さん、戻ってこないじゃん。そうやって心の中で一人ごちる。
 とはいえこんな寒さだ。到底ブランケット一枚で足りるとは思えない。何枚か持ってきた方がよかっただろうか。やっぱり早く中に入れた方がすぐにあたたまるんじゃないか。シンはあれこれ考える。法力を使えばすぐにでもあたたまるが、ちょうどよいあたたかさにできるくらいの微調整ができる気がしない。下手をすれば大火事になる。オヤジやカイなら、と考えたところでシンはかぶりを振った。なんでもかんでも頼りっぱなしにするのは駄目だ。自分にだって母親を救えるのだ。
 何故なにも反応してくれないのだろう。曖昧に返事をすることはあるけれど、ひとに対するそれではない。ふだん、自身が育てている花や野菜にさえも愛する子どもを見るように笑いかけているディズィーが、これじゃあまるで脱け殻だ。体だけを置き去りに、心が遠くにいってしまった脱け殻。置いていかれたように感じて、シンは少し寂しくなった。
 自分だけじゃない。ディズィーもだ。雪の世界にぽつんと心を置いてきぼりにしているディズィーもきっとひとりぼっちで、寂しいと思う。ディズィーが寂しい思いをするのは嫌だ。だからこそ自分が探してあげたい。ディズィーのことを。手を握って。もう寂しくないよって。

 ──こうやってエルにあたためでもらうと心もあたかかくなるの。

 はっとする。
 先ほどまでの、ラムレザルの言葉だ。彼女はエルフェルトに冷たくなった手を握ってもらうのが好きらしい。それが彼女にとっての "違う" だから。
 もしかして、迷惑だったかと不安そうにするラムレザルに、エルフェルトは嬉しそうに言っていた。

 ──迷惑なんかじゃない。ラムさえよければ、いつでも私があたためてあげる。

 次の瞬間、シンはディズィーを抱き締めていた。ぎゅうっと。大切に、力強く。
 ブランケット越しに感じるディズィーのぬくもりは、シンの心を安心させてくれるようだった。昔から変わらない。大好きな母親のぬくもり。小さな頃はあんなに抱き締めてもらっていたのに、今じゃあ自分が包み込めるくらいディズィーの体は小さく感じた。なんだか不思議。
 不安だった時。寂しかった時。寒かった時も、嬉しい時だって、いつもディズィーは撫でて抱き締めてくれた。幼いシンはディズィーに抱き締めてもらうのが好きだったし、そのたびにディズィーの腕の中にいるシンもぎゅうっとし返していた。するとディズィーはほほえんでくれるのだ。今はすっかり大きくなってそんなことはしなくなったけれど、今もずっと記憶に残っている。過ごした時間はあっという間でも、一緒に生活していた大切な思い出だから。
 もうあの頃のような弱くて母からの愛を待っているだけの自分じゃない。今度は自分が、オレが、母さんをあたためる番だ。

「…シン?」
 小鳥のさえずりのような声がぽつり。
 腕の中でディズィーは振り向いた。ルビーの瞳とエメラルドグリーンの瞳が交差する。不思議そうに見上げていたディズィーだが、シンを見るなりふっとほほえんだ。
「聞こえてたよ、シンの声。心配かけてごめんね」
「母さん」
「ありがとう。魔法がとけたみたい」
 色とりどりの花が咲かんばかりの笑顔を見せるディズィーに、シンも小さく笑った。戻ってきたら、色々と聞くつもりだった。なんでなにも言ってくれなかったんだよとか、なのがあったんだとか。でもディズィーの笑顔を見てそんな疑問は全てどこかへ行ってしまった。もういいや、なんて気持ちになってしまうのだ。その笑顔が見られるのなら、なんだっていい。
 ディズィーから離れた時だった。後ろから扉が開く音がする。
「二人とも、こんなところでいると身体を冷やしますよ。お茶をいれますから、中に入りましょう」
 二人して声のする方へ顔を向けた。カイだ。絹糸のような髪を揺らして、カイは二人に近付いた。先ほどシンが慌ててきたことなどなかったかのように余裕綽々としている。こうなることも全て予測していたのではないかと思うくらいのタイミング。なんだか釈然としない。
「あっ、お茶なら私が」
 カイの姿を見るや否や、ディズィーは慌てて駆け寄る。しかしカイは小さくかぶりを振った。
「いえ、今日は私にさせてください。ちょうど仕事も一段落ついたところですし、気分転換がしたいんです」
「ふふ。分かりました。じゃあカイさん、お願いします」
「じゃあラムとエルも呼んでくる! オヤジは? もう帰っちまったか?」
「ソルならまだ執務室にいると思うぞ」
「よし! じゃあ今日はオヤジも一緒だ。オヤジィー!」



「…行ってしまいましたね」
 全速力で中へと入っていったシンの姿を、カイとディズィーは見守っていた。半開きだったところを思い切り開けられて、扉が揺れている。こんな気温の中だ。早く閉じなければ一気に室温は下がっていくだろう。
 ディズィーはカイに招かれるまま家の中へと入った。
「譲ってくれたんですね。あの子に」
 扉を閉めるカイに、ディズィーはくすりと笑いかける。
 ディズィーがこうなるのは今回がはじめてではない。
 雪の日になるとどうしても昔のことを思い出してしまって、ついぼうっとしてしまうのだ。冬の季節になると考え事にふけってしまうのはもはや昔からの癖といっても過言ではないのだが、雪の世界に旅立ってしまうのは、カイと一緒になってからだったと思う。カイと結ばれてはじめての冬。そう、あの日から。あの日からずっと、雪の日になるとぼうっとなって、気を付けなければそのまま引きずり込まれてしまう。あの日のことをずっと思い出してしまうのだ。
「色々な事情があったとはいえ、あの子は家族の、あなたとの時間をあまり過ごせませんでしたから。私ばかりではずるいでしょう?」
「ふふ、優しい。でもまた、カイさんもあたためてくれますか?」
「…ええ、いつでも」
 小首を傾げるディズィーに、カイは目を細くした。慈しみに溢れた表情だった。
 二人で並んで廊下を歩いていく。カイのいれる紅茶は好きだ。優しい味がする。それに、なによりカイと同じ時間を過ごせるのが嬉しいから。いつもティータイムは楽しみで仕方ない。
 きっと今頃シンがソルやラムレザル達を連れ回している頃だろう。エルフェルトと一緒に楽しそうにはしゃぎ回って、その側でラムレザルも表情にはあまり出さないものの、興味深そうに二人についていく。ソルは面倒だと言わんばかりに顔をしかめそうだけど、結局はシンに付き合ってくれる。これらは全て想像でしかないけど、そんな光景がありありと目に浮かぶ。ああ、本当に楽しみだなぁ。高鳴りが抑えきれず、ディズィーは胸に手を当てた。
 こんな楽しみも、このあたたかさも、教えてくれたのは全て隣を歩くこの人のお陰。ずっと冷たさに怯えていた自分をあたためてくれた。あの日から、ずっと。
 あんなに寒さが嫌いだったのに、この人が幸せを教えてくれたお陰で、今日も自分は一層雪の日が好きになってしまうのだった。



 ディズィー?
 声をかけられた気がして、はっと顔を上げる。見上げてみるとそこには心底驚いたと言わんばかりに目をぱちぱちとさせているカイの姿があった。
 カイが帰ってきている。おかしいな。もうそんな時間だっただろうか。それとも今日はそこまで忙しくなかったのか。ぼんやりとした頭でふと時計に目をやる。時計の針はとっくに十二の数字から過ぎていて、既に深夜を回っていることを指していた。ディズィーはあっと手で口を覆う。どうやら眠ってしまっていたらしい。しかも椅子の上で足を抱えたまま。
 どうしよう。はしたなかったかも。そもそも自分はどうしてこんなところで眠っていたのだろうか。たしか、晩ごはんの準備をしていたはずなのに。今日もきっとカイは帰りが遅くなるだろうから、冷えた体に、それでいてお腹に優しいのがいいと思ってスープを作って。いつも先に食べていてと言われるのだが、やっぱり一緒に食べたいから。そう、彼のことを考えて、スープをかき混ぜていたのは覚えている。それから? それから、ふと鍋から視線を外すと、外の景色に目が留まって。雪が、降っていたのだ。
「大丈夫、ですか? どこか具合でも…」
「カイさん…!」
 唇を震わせて、ディズィーはカイの裾にしがみついた。布越しに感じるカイの感触が恋しくて、ぐっと頭を押し付ける。
 耐えられなかった。心が冷たい。寒い。このままじゃ駄目だ。押し潰されてしまいそう。まるで停電に見舞われた部屋の中に一人ぽつんと取り残されてしまったかのようだ。急に真っ暗になって、不安で仕方なくなって、心が恐怖に囚われてしまう。
「どうしようカイさん。寒いんです」
 裾を握る手が強くなる。
「寒くて、冷たくて、すごく怖い。息ができなくなるんです。どうしよう、カイさん。私…」
 声が震える。何故こんなにも恐れているのだろう。カイに縋りながらも、ディズィーは頭の片隅で考えた。今まで、こんな風にはならなかった。寒いのだってどこか他人事で、確かに寂しかったけど、いくらだって我慢できたのに。自分の弱さが嫌になる。
 すると、するりとカイの感触が離れていくのを感じた。離れるのが嫌で手を伸ばすが、それはカイに握られる形で遮られてしまう。狼狽えるディズィーにカイは同じ目線になるくらいにしゃがみ込むと、ディズィーの瞳を見てにっこりと笑って、そして優しく抱き寄せた。
「──!」
 突然のことに驚いて、ディズィーは身を固くさせた。しかしそれもほんの僅かのできごとで、次第に落ち着いていくのが分かる。
 …あたたかい。
 さっきまではあんなに寒くて凍えていたのに、何故だろう。もう心は孤独に怯えていない。あたたかさが広がっていく。胸の奥から爪の先まで。ぬくもりでいっぱいだった。
「不思議ですよね。どんな寒さも、人に寄りかかればあたたかくなる。深雪でさえもたちまち溶けてしまうんです。凍てついた深層の先にぬくもりがあるのなら、もう寒さに怯えなくてもいいんですよ。私はずっと、貴方の傍にいます」
 ルビーの瞳から一滴、零れ落ちた。
 昔。まだひとりぼっちだったあの頃。あの時冷たく感じた涙さえも今はあたたかい。このぬくもりも、胸の中に広がる幸福感も、どれも全てがいとおしい。
 あたたかいって、こういうことなのね。
 今も雪は振り続いているのだろうか。閉め切ってしまったカーテンからではそれを確認することはできないけれど、開いても大丈夫。もう怖くない。あれだけ嫌いだった雪も、今は少し、好きになれそうだった。
 それから冬を迎え、雪が降るたび。寒さを思い出すたびに、この日を思い出してはぎゅうっとしてもらうのが楽しみになるのは、また別の話。



2020/02/16



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