STORY | ナノ

▽ Earnestly troublesome.


 本の隙間からよく見知った姿が目に入った瞬間、思わず視界の外まで身を引いてしまった。
 街の片隅。休暇を利用して立ち寄った図書館は、平日に関わらず利用者が多く出入りしていた。様子を見るに学生が多いように思う。本を積み上げて勉強に勤しむ人。文学に読み耽る人。いろいろいる。本を広げたまま眠っている者もいるが、ともあれ本を読むのはいいことだ。勉強にもなるし、なにより心が豊かになる。
 だからこそ、何故、奴がいるのかが理解できなかった。錯視だろうか。男は人が多い場所を好まない傾向にあると記憶している。聖騎士団に所属していた頃、何度単独行動を起こしては注意したことか。それに図書館にだなんて。やはり気のせいとしか考えられない。
 一つ小さく深呼吸をして、そっと本の隙間から机が並べられているスペースを覗いた。いる。見間違いじゃない。気のせいなんかじゃなかった。無造作に結った茶色の髪。その隙間から覗く赤のヘッドギア。鍛えられた筋肉を惜しみ無く晒した服装。間違いなく、彼だ。
 男は一冊の分厚い本に集中しているようだった。机に広げて読んでいるものだからどんな内容なのかは窺い知れない。頬杖をついて一枚、一枚とページをめくっている。めくる速度が速い。かと思えば途端に手を止めて見入ったりして。様子からして文学ではないのは確かだ。なにか調べものだろうか。また、ページをめくり始めた。
 なんというか、意外、というのが正直な感想だった。彼に本という印象が限りなく無いに等しかったものだから、どうしても図書館と結びつけられなかったのだ。単独行動の件もあってじっとしているイメージも湧かず、せいぜい本なんて枕代わりか陰を作る程度の扱いなのだろうと薄々想像していた。それに話してみると男は案外博識で、本に頼る必要性もなかったようだから。
 そこまで考えて、そういえば男が本を読んでいる姿を見たことがなかったことを思い出した。だからこそ意外という感想に拍車を掛けたのだろう。せいぜい新聞、いや、新聞紙に目を通している姿さえ記憶にない。なのにやたらと情報通で。どこで情報を仕入れているのだろう。今や彼は賞金稼ぎなのだから、情報の仕入れ先などいくらでもあるか。友人に聞いたりして。友人。友人か。男にそこまで親しい知り合いがいるのかは分からない。彼はどこか、人との過度な接触を避けているふうに見えるから。なんて、彼の友好関係にそこまで気に掛ける必要もないのだが。
 すると、ふと男が顔を上げた。どきりとして慌てて奥の方に隠れる。彼の視界の外まで。移動したのはほんの数十センチなのに、もう呼吸が浅い。
 いつの間にかじっと男のことを観察していたらしい。本当に無意識だった。目は合ってない、と思う。見られただろうか。思考が頭の中でぐるぐると巡る。…何故、自分は隠れているのだろう。
 カイは小さくかぶりを振った。今日は家にない文献や資料を探しに図書館にまで足を運んだが、なんだか気が削がれてしまった。それに大抵古い文献は持ち出し禁止だ。ここで読もうとすれば男に気付かれてしまう。出直そう。そう思うや否や早々に図書館を後にした。
 別に、気付かれてしまっても構わないはずなのに。
 どうせ彼はカイに気付いたところで気に留めることもないのだろう。知らないふりをするわけでもなく、ただただ視線を本に戻してそのまま意識から外すだけだ。なにかあるとすれば、せいぜい溜め息を吐く程度。だから男に気を使う必要もないし、気付かれてもなんの問題もない、はずなのだが。
 思い返して、ふと足を止める。
 そういえば、あいつはなんの本を読んでいたんだろう。



 今日もいる。
 少し離れた本棚の隙間から、今日もカイは男の姿を確認した。
 あれから日を置いて何度か図書館に足を運んでいるが、驚くことに男はいつもそこにいた。机が並べられている広い空間。座っている場所は違えど必ずその空間に男がいて、今度は比較的厚さがない本と向き合っている。まさか毎日来ているのだろうか。彼が調べ物をしているのだとして、こんなに通ってもお目当ての情報が見つからなかったらすぐにでも切り上げそうなものなのに。男がここにいるのも、律儀に通い続けていることも、なにもかもがカイにとっては驚きの連続で。しかし男が座っている場所がいつも違うのが男の気ままさを表しているようで、小さいことなのに少し安心した。
 彼は読んでいた本を閉じると、事前に集めておいたのだろう積み上げられている本のすぐ隣に置いた。四、五冊ほど積まれた本は全て同じくらいの厚さだ。男は手を伸ばすと、手に取った本をまた広げてはぺらぺらとめくりだした。何度か男を見かけたが、こんなにも本を集めているところは見たことがない。そういえば、いつもは分厚い本ばかりを読んでいた気がする。大方すぐに目を通してしまうから何度も移動するのを面倒くさがってのこの積みようなのだろうが、これじゃあ独り占めだ。他にも読む人がいるかもしれないのに。なんて利己的な奴。ならば今から直接にでも注意しに行けば良いものを、やっぱり彼と対向する気持ちになれない自分がいる。理由はよく、言い表せられない。どうしようもなく居心地が悪いのだ。男を目の端に映すたび、呼吸が浅くなる。じゃあ離れればいいのに、それもなんだか気が引けて。まるで悪いことをしているみたいだ。こうやって遠くから彼を監視でもするように凝視して。だからこうも落ち着かないのだろうか。男の姿を認識すること。それが理由の分からない罪悪感となってこの心を蝕んでいるのだろうか。
 カイには、もう男に拘泥する必要はない。
 彼との決着はカイの中で解決した。気に入らないところは多々あるもの、もう彼を恨む必要もない。少し前までの自分ならば男を見るなりつっかかっていただろうが、そうしなくなったのも、もう理由がないからで。もちろん図書館の中では静かに、というのもあるのだが。だからといって全く男と関わらないと決めたつもりはないのだけど、何故だかこうやってカイの行動を鈍らせる。ああやっぱり、気に入らない。解せない。自分の不可解な行動に、半ば八つ当たり気味に心の中で男の愚痴を吐いた。
 しかし、なんだろう。この気持ちははじめてな気がしない。ああそうだ。彼も自分もまだ聖騎士団に所属していた頃のこと。彼が封炎剣を持ち出し、聖騎士団を脱退してしまってからはすっかりこの気持ちも消え失せてしまっていたけれど。
 あの頃もこんな風に彼を見かけるたび、一瞬だけ、息をするのを忘れることがあった。
 色々と思うところがあったのだと思う。今日こそ報告書を提出してもらおうだとか、また規則を破っているだとか。いつも思い浮かぶのは男に対する悪いところばかり。しかし男を見つけたその一瞬だけ、なにか別の感情が確かに浮かび上がっていて。その時の気持ちは決して悪いものではなかった。どちらかというとその逆を示していた。この昂りはきっとまた男に勝負を挑もうとしている武者震いなどではない。それを隠すために声を荒げて彼の名を呼んだのは一度や二度のことじゃない。
 カイは考え事を打ち消すように目をつぶって頭を振った。今日も駄目だ。出直そう。全く、いつまでこの葛藤に振り回されるのだろう。自分もいい加減学べばいいのに。男がいるからなんて当たり散らして、自身の浅はかさが恥ずかしい。どうも昔から、彼のこととなると自制が利かなくなる。
 行動に移そうとして、顔を上げてはっとした。先程まで視線の先にいた男がいない。別の本を探しに行ったのか。しかし机の上には男が読んでいた本がそのまま積まれている。読み終わったなら元の場所に戻すのが館内の規則だ。彼ならばそんな規則も気にせず次の本を探しにいっても不思議ではないけれど。今までの、カイの視点の中の先にいた彼ならば。

「そんなところでなにしてやがる」

 すぐ後ろで声がして、驚くくらいに胸が波打つのを感じた。
 勢いよく振り返る。無造作に結った茶色の髪。その隙間から覗く赤のヘッドギア──。
「そ、ソル」
 間違いなく、ここ最近図書館で見かけてはカイを悩ませる張本人、ソル=バッドガイが、そこに立っていた。
 ルビーの瞳がカイの姿を捉える。間の抜けた顔をして目の前に立つこの人間を、彼にはどう映っているのだろう。驚くほど頬が赤く見えるのはきっと彼の瞳が人間のものと性質が違うからに違いない。
 いつからそこにいたのだろう。確かに先程まではずっとカイの視界に収まる場所にいたはずだった。ソルが移動していたどころか背後に回っていたことさえ気が付かないほどに思考の海を泳いでいたというのか。この男に遅れを取るなんて。なんたる不覚。
「こそこそと偵察か? 公僕様はいい身分だな」
「…! 気付いていたのか」
 後ろめたさに目を伏せる。そんなカイの気持ちを知ってか知らずか、ソルは頭上で溜め息を吐くだけだ。
「テメェはもう少し自分が目立つことを自覚しろ。噂話が鬱陶しい」
「私はただプライベートで来ているだけだ。なにも目立つようなことはしていない」
「坊やはいつまで経っても坊や、か」
「それは関係ないだろう!」
「館内の規則は」
「…図書館ではお静かに」
 それは確かにそうだ。その通りではある、けども。執拗に言い続けても規則は破るものと言わんばかりに聞かなかったこの男がそれを言うのか。明らかに厄払いの意味を込めての発言である。目の前のことに意識を割きすぎるあまり熱くなってしまった自分が悪いけれども、これじゃあまるでソルの思い通りに動いてしまっているようで心底不愉快だった。今も、今までのこの気持ちもずっと。
 むっとなってソルを睨み付ける。しかしソルは興味を示す風でもなくカイを見下ろしていた。
「大体、お前はなにを調べてるんだ。正直お前が書物に頼るほど知識に飢えているとは思えない」
 その視線が気に入らなくて、回答の分かりきっている質問を出した。
「テメェには関係ねぇ」
 ほら、やっぱり。予想通り過ぎてもはや言い返す言葉もなかった。
 この男はいくら自分が協力を申し出ても関係ない、必要がない、の一点張りなのだろう。ここからどれだけ言葉を並べても無駄だ。ただ時間が過ぎていくだけである。だけなのに、そんな男に自分はずっと振り回されていたというのか。なんだか不公平だ。
 別に見返りがほしいわけではない。善意を振ってやったのにと傲慢な気持ちを持っているわけではない。ただ、なんとなく放っておけない。そう思った。それだけだ。
 いや、やっぱり放っておけないなんて気のせいだ。ソルの気だるげな目を見て正気に戻った。こんな顔をする男を気にする必要がない。なんだその目は。めんどくさそうにして、それなのにどこか遠くを見るような。気に入らない。
「そういうお前はなんの用だ。ここ最近うろちょろしやがって。うざってぇ」
「最近って、いつから気付いてたんだ…」
「最初からだ」
「なっ、最初から!?」
「お前が近くにいると空気がピリつく」
 知らなかったのか。そうソルは口角を上げて意地の悪い笑みを見せた。昔から、自分を馬鹿にする時に見せる笑みだ。心底腹が立つ。それと同時にかぁっと頬が熱くなるのを感じた。
 そうだったのか。知らなかったけども。完全に無意識だったけども。ただ、他の人からはそんな話を聞いたことがない。遠慮をしていただとか、ソルが法力に対して敏感なだけとは考えにくい。さすがに無意識の内に法力を使っていただなんてヘマはやらかしたりしない。しかし相手がソルならばどうだろう。ここ最近の、図書館でソルを見掛けた時の自分を思い返してみる。いつもソルの姿を捉えては戸惑いを抱えて、今日に関してはソルが接近していたことさえ気が付かなかった。あまりにも周りが見えていない。もう争う理由もないのに。今日だけではない。今までもずっとそうだった。ソルがいる。それだけですぐに目がそれ以外を映さなくなって。心当たりがあり過ぎる。なんて、それでは自分がまるでソルを特別意識しているみたいじゃないか! それだけは絶対にない。恐らく。多分。
 一人悶々としていると、目の前の男は踵を返した。ルビーの瞳がカイを映さなくなる。カイははっとするとソルを呼び止めた。
「待て。何処へ行く」
「ここをどこだと思ってやがる。テメェに用はねぇ。戻る」
「そう、か」
「ここに来るのも今日で仕舞いだ。俺が邪魔なら明日からにするんだな」
「…」
 ソルが行ってしまう。
 今日も自分はなにもできずこのまま帰るのか。明日以降ならば休日にここに来てもソルはいない。ようやく心穏やかに図書館を利用できる。やっとか。清々する。なのに、少なからず動揺してしまっているのは何故だろう。
 このままでいいのか。ここ最近、いや、ずっと前から胸の中で疼いていたこの気持ちを、このまま知らないままでいいのか。分からないままソルを行かせてしまっていいのか。分からない。分からない? どうして分からないと思う。何故こんなにも焦っている。ああまた目の前の男のせいで。いや、今は恨み辛みを述べている場合じゃない。
 恐らくだが。一つだけ、たった今確信したことがある。これはきっと拒絶しているからだ。理由はやはり分からない。でも、ソルと離れてしまうことを拒絶している。もう少し、ソルと話していたいと願ってしまっている。そんな自分が確かにいて。
「用ならある」
 歩み始めようとするソルの動きが止まった。振り向いてこちらを見た。またあのルビーに映り出す。
「あ?」
「今度、私の家に客人がやってくる。…大切な友人だ。その人に手作りのお菓子を振る舞いたいが、対外的な評価が知りたい。だから毒味しろ」
「はぁ?」
「住所は知っているだろう。余程多忙でない限りは入れてやる。有無は言わせないからな」
 矢継ぎ早にまくし立てると、返事も聞かずカイはその場を離れた。おい、と苛立ちを隠さない呼び声に、カイは振り返りもせずに立ち止まった。
「待ってるから」
 聞こえてくる溜め息が承諾の意味だと捉えるのは、期待を覗かせてしまっているからだろうか。


 決して嘘は言ってない。
 大切な人が家に訪れることも、その人には美味しいお菓子を食べてもらいたくて、自分以外の意見がほしいという気持ちも、嘘ではない。全て本心だ。本心だし、たまたま毒味を頼める相手が目の前にいただけだ。先程まで色々と考えてしまっていたけど、多分気の迷い。焦りは人の心を惑わせる。きっとそれだけだ。そもそもソルが甘いものを食べているところなんて、それこそ図書館にいる以上に想像ができない。これは奴への嫌がらせ。宣戦布告。そういうもので、別にソルに対するなにかがあるわけではない。しかし約束を一方的にとはいえ取り付けたのだから、ソルに絶対に美味しいと言わせられるものを作ってやる。形は違えど、これも一つの勝負なのだ。だからどこか心が晴れていることも、なんだか浮かれている感覚も、単なる気のせいである。



2020/03/29



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