秘密のジェラート・コン・カフェ


 気を失った東雲くんを背負いながら、歩を進める神谷くんの後を付いていき、結構色んな道をぐるぐると回った気がした。一度通った道を戻ったりしている中、暫くして「ここだよ」と声を掛けられて顔を上げると、そこは集合住宅の一室のドアの前だった。

「悪い、西篠。鍵探してくれないか?」
「えっ、勝手に東雲くんの鞄漁っていいのかな……」
「背に腹は代えられない。俺が責任取るよ」

 そう言って苦笑いを浮かべる神谷くんに、絶対にその言葉守ってよ、と内心毒づきつつ、私は遠慮がちに東雲くんの鞄を探り、内ポケットの中から鍵を見つけ出した。
 考えてみたら、そもそも学校に持っていく鞄の中に、人に見られたくないものはない筈だ。抜き打ちの持ち物検査だってあるし。気を遣う必要はなかったと一瞬思ったけれど、逆に私がそういう事をされたら、やっぱり疚しいものはなくても気分は良くない。
 ただ、今は東雲くんを介抱する事を一番に考えないと。そう言い聞かせて、東雲くんから拝借した鍵を鍵穴へさして、ゆっくりと部屋の扉を開けた。
 神谷くんが東雲くんごと室内に入って、とりあえず私は外で待つ事にした。というより、勝手に入っていいのか分からなくて立ち竦んでいたと言った方が正しい。

「西篠」

 ぼうっとしていた私の前に再び神谷くんが現れて、腰を屈めて視線を合わせれば、不思議そうに首を傾げた。

「どうした?」
「えっ、いや、私が入ったらまずいかな、って……」
「大丈夫だよ、東雲はそんな事で怒らないから」
「いや、怒る怒らないじゃなくて――」

 有無を言わさず、神谷くんは私の手首と掴んで軽々と室内へ引き込んだ。私の両足が玄関の床に着いた瞬間、部屋の扉もばたん、と音を立てて閉じた。
 別に何も変な事などしていないのに、もう引き返せない――そんな気持ちになってしまった。そう、別に疚しい事などしていない。クラスメイトが倒れて、偶々友人が駆け付けて、介抱するために一緒に家に来た。それだけだ。それなのに、なんだか言葉に出来ない妙な気分だ。

「遠慮せずくつろいでくれ――って、俺が言うのもおかしいか」
「そうだよ」
「ははっ、西篠って結構ハッキリ言うんだな」
「だって、東雲くんの許可を取らずに勝手に部屋に来ちゃったし……遠慮はするよ」

 そう言いつつ、私は室内を見渡した。明らかに誰かと一緒に暮らしているわけではない間取り。一人暮らしと考えるのが自然だと、両親と一緒に暮らす家から出た事のない私でも分かる。
 今回は、普通に友達の家に遊びに来たのとは全然違う。なんだか東雲くんのプライバシーに踏み込んでしまったみたいで、居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

「神谷くん、何か買ってくるものある? お水とか、お薬とか……」
「いや、大丈夫だ」
「……そうだよね」
「手持ち無沙汰だよな。とりあえず、東雲を看てやってくれ」

 神谷くんはキッチンで物音を立てながら、私に向かってそう告げた。御粥とか雑炊とか、身体に良いものでも作ろうとしているのだろうか。
 対する東雲くんは、ダイニングのソファの上で横たわっている。まだ目を覚ます気配はない。ひとまず神谷くんの言う通り、ソファの傍に座って、東雲くんの様子を見遣った。呼吸は……当然してる。止まってたら神谷くんもこんなに悠長にしているわけがない。制服の上からだと分かりにくいけれど、呼吸で胸が上下しているように見えなくもない。
 とりあえず念には念をと、東雲くんの手首を触って脈を確認した。脈はある。まあ当たり前か。
 というか、本当に病院に連れて行かなくて大丈夫なのか。もし熱でも出ていたら、今すぐ着替えさせてベッドへ連れて行って、布団を掛けて濡れたタオルでおでこを冷やすくらいの事はしないと。そう思って、東雲くんの前髪を指でよけて、額に手を当てた。……正直、よく分からない。もう片方の手で自分のおでこも触ってみたけれど、いまいち違いが分からない。という事は平熱か。

「熱はない……のかな」
「はい、お陰様で」
「そっか、良かっ――って、え!?」

 東雲くんは起きているのか寝ているのか分からない表情で、私のほうへ顔を向けていた。
 いや、その口から言葉が放たれている時点でどう考えても起きている。

「……おはよ、東雲くん」
「えっ、そんな時間ですか?」
「わかんない」
「いや、分からんわけないやろ」

 一瞬「は?」と声が出掛けてしまった。敬語で話していた男子の口から関西弁が何の脈略もなく飛び出て来たからだ。尤も「は?」と言いたいのは東雲くんのほうなのだけれど。時間を聞かれて「わからない」はないだろう。自分でも突っ込まれても仕方のない頭の悪い返答をしたという自覚はある。

「……はあ、なるほど。気を失って一時間といったところですか」

 東雲くんは制服のポケットから携帯電話を取り出し、時間を確認すれば溜息を吐いた。
 窓から見える外の景色はもう薄暗く、淡い紫の空は間もなく真っ暗になるだろう。
 ……帰ろう。家族に連絡もしてないし。

「じゃあ、私はこれで――」
「待ってくれ、西篠。お礼にお茶の一杯でも飲んでいかないか?」
「え?」
「いや、なんで神谷が我が物顔で言うんですか?」

 この時ばかりは私と東雲くんはシンクロしていたに違いない。
 神谷くんに引き留められてしまったので、私は仕方なく母親に「友達の家にいるから遅くなる、ごはんは残しておいて欲しい」と連絡して、一杯だけお茶を堪能する事にしたのだった。



「どうぞ」

 神谷くんは三人分の麦茶を用意して、私たちに振る舞った。病み上がりの東雲くんの為に身体に優しい食べ物を作っていたわけではないらしい。何の変哲もない麦茶のはずなのに、いつもより格別に美味しく感じたのは、今の私が相当疲れているという事だろう。きっと。
 東雲くんも無事目を覚ました事で安心したせいか、私の胃袋が空腹を訴えてきゅるると切ない音を鳴らして来た。瞬間、神谷くんと東雲くんは吹き出すように笑い出した。

「あのさあ、好きで鳴らしたわけじゃないんだけど!」
「悪い悪い、っていうか引き留めてごめん」
「本当ですよ神谷。大体何故西篠さんがここにいるんですか?」

 別に東雲くんは、私に対して怒っているわけじゃないと思う。けれど、やっぱり勝手に部屋に入られたくないに決まっている。「責任を取る」という言葉を信じて、私は神谷くんへ視線を向けた。

「うむ……とりあえず西篠、コンビニで買った『それ』を、東雲の見えないところで消化してくれないだろうか」
「へ?」
「勿論レンジは使っていいから」
「うん……」

 何が何だか分からないまま、私はとりあえず神谷くんに従って、コンビニの袋を持って電子レンジのあるキッチンへと向かい、お皿をひとつ拝借して、『それ』――冷え切ったあんまん二つを載せてレンジの中へ遣り、『あたため』のスイッチを押した。
 数十秒待って、強制的にスイッチを切って、まだ温いあんまんを取り出せばその場で頬張った。「東雲の見えないところで消化」とは、こういう事だろう。きっと恥ずかしげもなく間抜けな腹の音を鳴らした私を、神谷くんが気遣ってくれたのだろう。この時の私はそう思っていた。
 さすがに二個はちょっと苦しいし、飲み物が欲しい――まだ飲み干していない麦茶にありつこうと、先にお皿を簡単に洗って水切りかごに入れ、ダイニングに戻った。
 すると真っ先に神谷くんが私の傍に来て、至近距離で顔を覗き込んで来た。

「うむ、大丈夫だ」

 一体何が?と呆然とする私をよそに、東雲くんは呆れ顔で神谷くんの横に来れば、腕を小突いて溜息を吐いた。

「だから女子との距離が近すぎなんですよ、神谷は」
「いや、もし西篠の口にあんこが付いてたら大変な事になると思ってな」

 あんこ?
 思わず口許に手を当てて、食べかすは付いていない事を確認してしまった。念の為ポケットから手鏡を出して口の周りを見てみたけれど、何もついていない。そんなにだらしない女子に見えたのだろうか、と一瞬落ち込んだのだけれど。

「はあ……西篠さん、本当に申し訳ありません」

 突然東雲くんが神妙な面持ちで謝って来て、一体何が始まるのかと身構えてしまった。
 どうやら、事の経緯は私があんまんの消化ならぬ食事をしている間に、神谷くんから東雲くんへ説明したようだった。寧ろ謝るのは勝手に鍵を漁って部屋に入った私のほうだと思うのだけれど、東雲くんが気にしているのはそこではなかったらしい。

「私、あんこが本当に苦手で……見ただけで失神してしまうんです」
「…………へ?」

 思わず呆けた声を出してしまった。けれど、東雲くんは至って真剣だ。
 フリーズする事数秒。その間、私はどうして神谷くんがあまり大事に考えず、救急車を呼ばずにそのまま家へ連れ帰る事を選択したのかを理解した。
 神谷くんは東雲くんが倒れるに至った経緯を私の手荷物だけで瞬時に把握し、そして同じ理由で東雲くんが倒れる事は、何も今回に限った話ではないのだろう。

「……いや、私こそごめん。そもそも夏に買うものじゃなかったし……」
「いえ、西篠さんの優しさを無下にしてしまい、何とお詫びしたら良いのか……」

 お互いに謝罪の言葉が口をつき、このままループするんじゃないかと思いきや、神谷くんが間に入って、東雲くんと私の肩に手を置いて笑みを浮かべた。

「二人とも、今回は偶々運が悪かったが……東雲は見ての通り元気だし、西篠も事情が分かって一件落着だな」
「いや、だからなんで神谷が仕切ってんねん」

 すかさず神谷くんへツッコミを入れる東雲くんに、もしかしてこれが素というか、ツッコミを入れずにはいられないボケが発生すると、つい方言が出てしまうのだろうかと思った。それを知ったところで、私が得する事は何もないのだけれど。

「西篠さん」
「は、はい!」
「この事は他の皆さんには秘密にして貰えると助かります」
「うん、っていうか別に言う機会もないと思うけど」
「誰かが面白がって、故意に見せたり食べさせようとする可能性も無きにしも非ずなので……」

 なんて難儀な体質なのだろう、と同情せずにはいられなかった。私も嫌いな食べ物のひとつやふたつ、いやそれなりにあるけれど、失神するほど無理な食べ物には出会った事はない。少なくとも生まれ育ったこの国の食文化においては。勿論あんこも、大好物というほどではないけど普通に美味しいと思う。毎日口にするものではないけれど、そこそこポピュラーなものが受け付けないのは結構辛いのではないか。それこそ今東雲くんが言ったように、誰かの悪戯でいつ被弾するか分からないからだ。今回も、故意ではないとはいえ私自身がやらかしてしまったのだし。





「ごめんね、送って貰っちゃって……」
「これくらいはさせてください。女子をこんな時間まで付き合わせてしまいましたし……ね、神谷?」
「なんで俺に怒りを向けるんだ?」
「別に怒ってませんよ」

 神谷くんと途中まで一緒に帰る事になるかと思いきや、最寄り駅まで東雲くんも送ってくれる事になった。学校で人気のあるこの二人と一緒にいるところを誰かに見られたら、もう二度と登校出来ないのではないか。誰にも見られていない事を祈るしかない。

 というか、東雲くんが怒っているわけではないものの、神谷くんに何か言わずにはいられない様子なのは、私もひしひしと感じている。やっぱり私に勝手に部屋に上がられたのが嫌だったのだ。住所を知られる事自体が嫌だったかも知れない。ただ、私は方向音痴で道を覚えるのが苦手だから、東雲くんの住む部屋には二度と辿り着けないと断言出来る。

 もう辺りはすっかり暗く、空を見上げると、月が煌々と輝いていた。まさかこんな時間になるとは思っていなかった。友達と一緒ならともかく、さして交流のないはずの男子ふたりと一緒なのだから尚更だ。私の平穏な高校生活において、こんな事はもう二度とないだろう。というか、なくていい。

 駅前に到着したのはあっという間だった。東雲くんの住居に辿り着くまでの時間の半分以下かも知れない。まさか神谷くんは道に迷っていたのではないか、と思うよりも先に、やっと帰れると安堵した。一先ず、ふたりに向き直って片手を振った。

「じゃあ、また明日。学校で」
「ああ。そのうちまたこうして三人で話したいな」
「それは嫌! 誰かに見られたら、私二度と学校行けない」
「おいおい、西篠は大袈裟だな」

 神谷くんは苦笑いしたけれど、私は本気で言っている。クラスどころか学校全体レベルで人気のある二人と一緒にいるなんて、陰口を叩かれるどころの話では済まない。私は卒業までの約半年を平穏無事に過ごしつつ、進学出来れば良いだけなのだ。刺激は不要。そんな事に気持ちを乱されているうちに、合格ボーダーからかけ離れて行き、受験合格は夢と化してしまうのだから。今は勉強が第一だ。

「西篠さん、神谷を極力近寄らせないようにしますので、ご安心を」
「東雲、最近やたら俺に対して厳しくないか?」
「神谷は自分の影響力を自覚してください。必ずしもすべてが良い方向に働くわけではないんですからね」

 まあ、仲が良いからこそこういった軽口が叩けるのだろう。東雲くんが実家を離れて一人暮らししている事が今日改めて分かったし、神谷くんみたいな存在はきっと支えになっているはずだ。安心したところで、本当にもう帰ろう。その前に、しつこいかも知れないけれど、やっぱりちゃんと謝らないと。

「東雲くん、本当にごめんね。勝手に部屋に入って……」
「神谷に無理矢理連れて来られた事くらい分かりますよ。お気になさらず」
「それに、鍵を探すのに鞄の中も見ちゃって……」
「それも神谷に頼まれて、ですよね」

 そのあたりも私があんまん消化中に経緯が説明されたのか。なんだか神谷くんが悪い、みたいな流れになるのも申し訳なくて、つい差し出がましい事を言ってしまった。

「神谷くん、東雲くんを助ける為に動いてくれたから……怒らないでね」
「怒ってませんよ」
「それなら良かった」

 東雲くんの表情から怒っているか否かを察するのは難しいのだけれど、とりあえず今はその言葉を信じよう。私はもう一度片手を振って別れの挨拶を告げて、ふたりに背を向けて改札へ向かった。

「西篠さん、明日も勉強頑張りましょうね」

 それは単なる授業ではなく、東雲先生による個人授業の事なのか。出来れば前者であって欲しいと思いつつ、足早にその場を後にした。とりあえず、東雲くんが私に対して怒っていない事は事実で、それが分かっただけでも安心した。疲れているはずの私の足は不思議と軽やかなのは、今日という日が特別な一日だからに違いなかった。

2022/10/28

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