プチ・フルールの芽生え


 遅い時間に帰って来ても、前もって連絡を入れていたから親には怒られなかったけれど、さすがに今日はもう教科書とノートを開く気力はなかった。あんまん二人分を平らげた割には、疲れ果てたお陰か晩御飯も残さず食べ切る事が出来た。ゆっくりとお風呂に浸かり、髪を乾かして歯磨きを済ませた後は、まっすぐ自室のベッドに潜り込んだ。最早今日の慌ただしい出来事を振り返る事もないまま眠りに落ちて、何事もなかったかのように翌朝起き、いつも通り学校へと向かった。



「西篠さん。昨日はみっともない所を見せてしまい、大変申し訳ありませんでした。ご迷惑もお掛けして……」

 自覚しているよりも疲れていたのかも知れない。教室で東雲くんに声を掛けられるまで、正直昨日の出来事は夢だったんじゃないかと思っていた。そんなわけがないのに。

「別にみっともなくないよ。それより怪我がなくてよかった。体調は大丈夫?」
「ええ、お陰様で」

 見る限り、東雲くんは特に顔色が悪いわけでもなく、いつも通りだ。本当にあんこが駄目なのだろう。今後は気を付けないと。差し入れの選択肢には注意を払って――といっても、他にあんこと言ったらせいぜい和菓子かあんぱんぐらいしか思いつかない。そこを避ければ大丈夫だ。
 というか、昨日みたいな事があっても、やっぱり放課後の勉強会は続けるのだろうか。

「あのさ、東雲くん――」

 言いかけた瞬間、ふと視線に気付いて言葉を止めた。周りを見回すと、教室にいる何人かが私たちを見ているような気がした。気のせいかもしれない、けど、変な噂は立って欲しくない。

「なんでもない」

 そう言って、ここで会話を切り上げようとしたのだけれど、東雲くんは私ではない他の人達に向かって声を掛けた。

「西篠さんに何か用でしょうか?」
「へ!?」

 素っ頓狂な声を出したのは訊ねられた皆ではなく、私だ。
 すると、一部のクラスメイトが「珍しい組み合わせだな」と東雲くんに返した。それはその通りだ。注目を浴びるのは、無理もない。

「確かにそうですね。簡潔に言いますと、神谷のアホが西篠さんが赤点を取ったと皆さんにバラしてしまったお詫びに、私が西篠さんに勉強を教える事にしました」
「…………」

 一体この男は何を言っているのか?と、全く頭が働かず呆然としている私をよそに、クラスメイトたちは「そういえばそんな事もあったな」「神谷のフォローも大変だな」なんて笑っていた。つまり、今この場で東雲くんが馬鹿正直に事情を説明しなければ、皆私が赤点を取った事なんて忘れていたという事だ。

「そういう訳で、私と西篠さんが話していても、特におかしな事はありませんのでお気になさらず――」
「……東雲……」
「はい、なんでしょう、西篠さん」
「東雲!!!」

 自分でもびっくりするほど大きな声が出た。もういい子ぶっている余裕もないほど、今の私は怒っていた。
 対する東雲くんは、一瞬肩を震わせたけれど、単に突然大声を出されてびっくりしたというだけで、平然としている。

「あのさあ、なんでバラすワケ!?」
「下手に隠して変な噂が立つより良いでしょう。逆にあれこれ詮索される方が良かったですか?」
「うう……どっちも嫌!!」
「それは我儘というものです」
「でも……でもさあ……今言わなくていいじゃん……」

 東雲くん、否、東雲の言っている事は正論だ。そもそも大前提として私が赤点を取りさえしなければ、こんな事態は起こっていない。東雲に勉強を教わる事もなければ、神谷くんに赤点のテスト用紙を見られる事もなかったのだから。
 怒りで泣きそうになっている私の傍に友達が駆け寄ってきて、頭を撫でて「とりあえず、落ち着いて」と耳元で言って来た。そう、傍から見れば私がひとりでキレているだけで、東雲は怒鳴られている被害者という立ち位置だろう。

「西篠さんが次の試験でボーダーラインを超えれば、晴れて私から解放されます。暫しの辛抱ですが、頑張ってくださいね」
「うう……なんでこんな目に……」

 まさかとは思うけど、東雲はどこか楽しそうに見えた。こんな理不尽な怒られ方をして、普通なら「お前の面倒なんか見ない」となりそうなところなのだけれど、まさか、東雲は本当にこの状況を楽しんでいるんだろうか。





 放課後。昨日とは少しだけ変わった事がある。
 複数のクラスメイトから、「勉強頑張って!」「東雲から逃れられるよう頑張れ」と声を掛けられるようになったのだ。半分以上は面白がっているのだろうけど、普通に気遣ってくれている……と思う子もいた。考えてみたら、私が第三者の立場なら、確かに頑張れ位は言うかも知れない。

「作戦大成功ですね」
「は?」

 誰もいない空き教室で、適当に席に座ってノートを広げる私の横で、東雲はそんな事を言いながら私の横の席に座った。というか、作戦って何。

「敢えてすべてを公表して西篠さんが私に対して怒る事で、この状況を皆さんに理解していただき、かつ誤解される事もなくなりました。恋愛感情があるような仲ではないとアピールも出来ました」
「…………」

 確かに、それはそうだ。でも、数時間経って改めて思ったけど、どう考えても感情的になった私の方が馬鹿みたいだ。みたいというか、完全に一人でキレ散らかしている女になってしまった。

「……そのお陰で、私は皆に『お触り厳禁』って思われたけど!」
「そんな事、誰が言ったんです?」
「誰も言ってない。私がそう思ってるだけ」
「誰も思ってないですよ」
「わかんないじゃん、そんなの」

 駄目だ、また不貞腐れてしまった。これから勉強を教えてもらう側の態度じゃない。とにかく落ち着かないと――東雲から目を逸らして、テキストの昨日の続きのページを開いて眺めていると、すぐ横で何かが置かれた気配を感じて、顔を向けた。
 拳くらいの大きさのそれは、包装紙に包まれていて何なのか分からない。
 ただ、このシチュエーションで置かれるという事は、差し入れだろう。

「あの……なんかごめん、気遣わせて」
「いえ、大したものではありませんが。昨日のお詫びと、先程は私もやりすぎだったと反省しているので」

 まさか、私を怒らせた後に購買で買ってきたのだろうか。だとしたら、ますます自分が情けない。寧ろ私が勉強を教えてくれるお礼に何かをあげる立場だと思うのに。

「……東雲くん、ごめんね」
「どうして謝るんです? 西篠さんを怒らせたのは私ですよ」
「でも、普通は怒んないんじゃないかな……」
「どうでしょう。皆さん西篠さんに同情しているように見えましたが。あの二人組に関わったばっかりに……と」

 机に置かれた差し入れを手に取って、東雲――東雲くんへ顔を向けると、穏やかな笑みを浮かべていた。
 寧ろここで私が不貞腐れたり落ち込んだりするほうが、勉強も進まないしお互いにとって良くない。まずは勉強を頑張らないと。そう思った矢先、

「開けてみていいですよ」
「いいの?」
「はい、それを食べて頑張りましょう」

 包装紙の中身は食べ物らしい。多分お菓子だろうと思って、私は東雲くんの言葉に甘えて包み紙を開けた。
 目の前に飛び込んで来たのは、カップケーキだった。購買では見た事がない。

「……東雲くん」
「どうぞ、遠慮せず食べてください」
「いや、これ、どこで買ってきたの?」

 購買にこんなカップケーキが売っていたら、間違いなく毎日、まではいかなくても週に一回は買っている。校内でお目に掛かった事のない『これ』は、間違いなく学校の外のお店で買ってきたものだ――そう思い込んでいた。

「私が作りました」
「そうなんだ……って、ええ!?」
「一昨日作ったので、今日ならまだお腹は壊さないはずです」
「え、待って? 東雲くんが自分で?」

 私の手の中にある、明らかに店頭に並んでいるようなカップケーキと、製作者の東雲くんを交互に見遣りながら、私はただただ驚いていた。趣味で洋菓子を作っているのだろう、と思ってはいたけれど、ここまで本格的だなんて。

「お店のかと思った……! 東雲くんすごい! お菓子屋さんになれるよ」
「お菓子屋さん……ふふっ」
「なんかおかしな事言った?」
「それを言うなら『パティシエ』だと思いまして」
「……子どもだって思ったでしょ」

 また恥ずかしい思いをしてしまった。とりあえず、将来パティシエを目指しているんだろうな、と短絡的な事を考えていたら、東雲くんがどこか嬉しそうに頬を綻ばせつつ訊ねて来た。

「試食してみてください。お世辞ではなく正直な感想をお願いしますね」
「……分かった」

 もしパティシエを目指しているのなら、お世辞を言ったらかえって失礼だ。まあ、今日は散々恥をかかされた事だし、東雲くんに多少キツく言っても罰は当たらないだろう。そう言い聞かせながら、カップケーキをひとくち頬張った瞬間。

「……どうですか?」

 お店のカップケーキとは少し違う。手作業で丁寧に作ったのだろうと分かるような食感、そして一気に広がる甘い味。今日起こった嫌な事がすべて帳消しになってしまうほど、文句なしで美味しかった。

「その表情を見て安心しました」
「む!? んんっ」
「焦らなくて大丈夫ですよ。食べ終わったら勉強に入りましょう」

 まだ何も言っていないのに、東雲くんは私のアホ面(だと思う)を見て私の脳内を把握したらしい。とりあえず引き続きお言葉に甘えて、暫しの間幸せに浸り、そして単純な事にその幸せな気分のまま勉強に取り掛かり、東雲くんのアドバイスにも素直に従う事が出来たのだった。



「西篠さんは覚えが早くて助かります。これは次の試験で勉強会も終わりでしょう」
「いや、駄目駄目! そうやって油断するのが一番良くない」
「慎重ですね。ですが、きっと前の試験では単に歯車がかみ合っていなかっただけに思えます。順調ですので安心してくださいね」

 まだ夕暮れになる前の帰り道を、ふたり並んで歩を進める。昨日の事があったし、コンビニには寄らず、お礼の品はとりあえず次の試験が終わった後にちゃんとしたものをあげる事にしよう。そう決めてまっすぐ帰る事にした。

「私、昨日ここで倒れたんでしたっけ」
「う……ごめんね、本当に」
「いえ、西篠さんが謝る事はありません。私のこの難儀な体質のせいですから……」

 東雲くんは珍しく肩を落として、軽く溜息を吐いた。確かに毎日口にするものではないけれど、一生口にする機会のないものとも言い切れないから、何かと大変だろう。ただ、パティシエを目指すなら和菓子じゃなくて洋菓子だ。それならあんこにエンカウントする事はない筈だ。

「でもさ、洋菓子ならあんこは使わないから、安心してパティシエの修行に励めるね」
「修行?」
「パティシエ目指してるんじゃないの?」

 ごく当たり前のように聞いてしまったけれど、私の質問に東雲くんは困ったように眉を顰めて、はじめて自分が勘違いしていた事に気が付いた。

「違ったんだ、ごめん! 勘違いして」
「いえ……単なる趣味で洋菓子作りをしているんですが、そう思って頂けたのは素直に嬉しいです」
「そっか、良かった……いや、勝手に将来の夢決められたら嫌だよね。東雲くんならどんな職業にも就けそうだし、進学してから決めてもいいかもね」
「進学……」

 東雲くんは返答に困っているようだった。……また余計な事を喋ってしまった。県外の実家からここに来て一人暮らしをしているという話だし、もしかしたら家庭の事情で進学は出来ないのかも知れない。駄目だ、これ以上喋ったら東雲くんを傷付けてしまう。

「変な事言ってごめん! 忘れて」
「いえ。西篠さんはきちんと将来の事を考えていて、しっかりされていると思っただけです」
「いや、全然。私は将来何したいか分からないから、とりあえず進学って考えてるだけで……」
「私も似たようなものですよ。世界旅行したいと言っている神谷が羨ましい位です」

 そう言って苦笑する東雲くんに、私は首を横に振った。少なくとも東雲くんは学業は優秀で、進学、就職どちらにしても第一線でやっていけるように思えた。他人だから簡単にそう言えるのかもしれないけれど、そもそも高校生で一人暮らししている時点で本当にしっかりしている。私とは正反対だ。
 そんな完璧な東雲くんでも、神谷くんの事を『羨ましい』と思っているのは少し意外だった。それこそまるで正反対のふたりだからこそ、お互いの良いところをより意識してしまうのかも知れない。

「神谷くんは特殊だよ。あんな人そうそう居ないから。あ、勿論良い意味でね」
「私もそう思います。一緒につるんでいるのが我ながら不思議ですが……」
「正反対だからいいんじゃない? しっかり者の東雲くんが付いてないと、神谷くん、学校休んで突然世界旅行に行っちゃいそうなところあるし」
「ふふっ、冗談と分かってはいても、本当に有り得そうで怖いです」

 怖いとは言うものの、東雲くんは漸く柔らかな笑みを浮かべた。やっぱり、東雲くんの個人的な事を聞くのは、悪気がなくても駄目だ。心の中で反省しつつ、分かれ道に着いたところで私は東雲くんに手を振った。

「今日もありがとう! カップケーキのお陰で頑張れたよ」
「こちらこそ、試食ありがとうございます。これから毎日作っていきましょうか?」
「そ、それは駄目! これ以上東雲くんの負担になるわけには……」

 わざわざ放課後に勉強を教えて貰っているだけでも申し訳ないのに、これ以上私の為に時間を割かせてしまうのはさすがに心苦しい。両手を横に振って拒否する私を見て、東雲くんは苦笑いした。そして、思いも寄らない事を言って来た。

「西篠さん、私の事は『東雲』で良いですよ」
「え? でも……」
「そっちが『素』ですよね?」
「…………カップケーキのお陰で機嫌直ったけど、またぶり返しそう……」

 ひとりでキレ散らかした恥ずかしい出来事が思い返されて、つい不貞腐れてしまったけれど、東雲くん――東雲は不快になるでもなく、寧ろどこか面白がるように私を見つめていた。

「では、長持ちするものを作り置きして毎日持っていきましょう。洋菓子で機嫌が直って勉強が捗るならなによりです」
「……なんか私、食い意地張ってるみたい……」
「そう仰らず。科学的根拠はありませんが、甘い物を食べると集中出来ると言いますしね」
「そう……そうだね。何から何までありがとう……」

 何か腑に落ちない……と思いつつも、時間を割いて貰っている事に変わりはないのだから、ここは素直にお礼を言うべきだ。まあ、顔には出ているだろうけど。

「じゃあ、また明日ね、東雲」
「ええ、また明日」

 ひらひらと片手を振って別れを告げて、背を向けて歩を進める。長くのびる影が、もうすぐ陽が落ちる事を教えてくれる。空を見上げると、青空が橙色に染まりはじめて、綺麗なグラデーションを作っていた。東雲も今、この空を見て同じ事を思っているかな。それとも気に留めないでまっすぐ歩いているか。なんて思いながら振り返ってみると、ちょうど東雲も振り返った。すごい偶然と思いつつ、気付いていないかもしれないけど、ものは試しと両手を横に振ってジャンプしてみたら、東雲も片手を振ってくれた。……傍から見たら私、なんて子どもなんだろう。恥ずかしくなってまた背を向けて、急いでもいないのに走り出してしまった。

 今の私は、もう面倒事に巻き込まれたとは思っていなかった。試験が終わるまでの間、頑張ろう――素直にそう思えるようになっていた。

2022/11/26

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