フィナンシェは混乱する


「では、やりますか、西篠さん」
「…………」

 東雲くんは私のように記憶力の悪い人間ではない。私に勉強を教えると申し出た事も、私が効率の良い勉強法を編み出す事が出来ればナシにするという事も、全部覚えていた。というか昨日の今日で忘れるなんて有り得ない。その筈なのに、昨日の私は『有り得る』と思ってしまい、勉強もせずに就寝したのだった。
 その結果が、これだ。

 放課後、突然私の席にやって来た東雲くんが「昨日の話ですが、どうしますか?」と愛想の良い笑みで訊ねてきて、完全に頭が真っ白になって黙り込んでしまった。それを東雲くんは『肯定』と見なし、私を空き教室へ連行したのが事の顛末だ。
 しかもご丁寧に、教室に残るクラスメイトたちに聞こえるように「勉強会をする」と口にして。

「最悪……」
「何か言いましたか?」
「ううん」

 別に東雲くんが最悪という意味ではなく、クラスメイトにあらぬ誤解を受けて変な噂が飛び交ったらどうしよう、という意味の『最悪』だ。まあ聞こえていたとしても、東雲くんなら意図を理解してくれるだろう。察してなければ、最悪などと宣う女子にはもう構わないで貰いたい。

「では、始めましょうか。まずは、西篠さんが昨日ミスした場所を基礎から見直しましょう」
「ううっ……」

 塾や家庭教師なら話も分かるけれど、同学年の、それも同じクラスの男子に基礎から教えを乞う事になるなんて。それこそ恋人同士なら可愛らしい姿だけれど、何の感情もない男女なんて完全に罰ゲームだ。
 ……もしかして、東雲くんは罰ゲームでやらされているのかも知れない。いくら神谷くんが私に迷惑を掛けたから(別に掛けられてないけれど)といって、そんな理由で自分の時間を犠牲にして、赤の他人に勉強を教えるなんて有り得ない。
 そう、有り得ないのなら、誰かにやらされていると考えれば辻褄が合う。男子の悪乗りで、じゃんけんに負けて決まってしまったとか。神谷くんがそんな事をさせるとは思わないから、他の誰かだろう。誰か知らないけど。

「西篠さん、どうしました?」
「あ、ごめん。……あのさ」
「はい」
「……この勉強会って、具体的にいつまで続けるの?」

 この時の私は、完全に東雲くんが『嫌々やらされている』と思ってしまっていて、申し訳ない気持ちになっていた。ちなみに、それが完全なる勘違いだと気付くのはまだまだ先の話だ。

「そうですね……西篠さんの最終目標は志望校に合格する事ですよね?」

 東雲くんの質問返しに、とりあえず頷いたけれど、まさか合格するまで付き合う――なんて事はさすがにない筈だ。東雲くんだってそんなに暇なわけがない。そう、東雲くんだって自分の生活があり、冷静に考えれば私に付き合うのはほんの短期間で済むはずだ。

「では、ひとまず次の模試まで、という事にしましょう。確か、二週間後でしたよね」
「……本当にごめんね、二週間も……」
「え? なんで謝るんですか?」

 小首を傾げる東雲くんに、だってそれは、東雲くんが罰ゲームでやらされてるから……と言いたくなったけれど我慢した。ここで追及したり捻くれた態度を取れば、ますます東雲くんの心労は増えてしまうに違いない。二週間と期限が決まっているなら、その間淡々と日々を過ごすまでだ。

「つまり、模試の結果は関係なく、二週間だけって事だよね?」
「いえ、西篠さんがあまりに散々な点数を取ろうものなら、私の教え方が悪いという事になります。合格ボーダーを超えられなければ延長です」
「は!?」

 さすがに大声を出してしまった。延長って。そんな、東雲くんだって自分の人生があるのに……大袈裟かも知れないけれど、私たちは最終学年なのだから、各々の卒業後の進路だってある。東雲くんが進学するか否かは分からないけれど、私なんかに付き合う理由はない。理不尽だ。私ではなく東雲くんが。
 再度の話になるけれど、この時の私は東雲くんが罰ゲームでこの『勉強会』を開催したと思い込んでいた。本人が好きでやっているなど、夢にも思っていなかったのだ。

「……分かった。私、頑張る! 東雲先生、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します!」

 ふたりきりの教室で、深々と頭を下げる女子生徒と、呆気に取られる男子生徒。誰が見ても恋愛に発展するなど思わないだろう。
 教室の外からクラスメイトたちがこっそり様子を窺っている事など気付きもしない私に、東雲くんは不敵な笑みを浮かべた。

「よろしい。では、特別授業を行います。……なんて、ちょっと偉そうでしょうか?」
「ハマってる。東雲くん教師になれば?」
「その予定はないですね……」

 東雲くんは苦笑していたけれど、勉強が出来れば将来の職業の選択肢も広がるし、それこそ彼は何にでもなれるだろう。とにかく今は余計な事を考えないで、素直に教えを乞おう。そうする事が自分の為にもなるし、東雲くんをこの罰ゲームから早く解放させる唯一の近道なのだから。





「今日はもう切り上げましょうか」

 東雲くんの一声で、私は教室の窓から見える空がオレンジ色に染まっている事に気が付いた。時間の感覚も分からないくらい集中していたのかと、自分でも驚いてしまった。

「東雲くん、さすがだね。教え方も上手いし……本当に教師になっちゃえば?」
「いえ、そんなに簡単なものではないと思いますが……」
「東雲くんならなれるよ、何にでも」

 何気なく言った私の言葉に、東雲くんが一瞬ぴくりと肩を震わせたように見えたけれど、それ以上何も言わなかったから、特に気に留めなかった。
 東雲くんは私にとってあまりにも完璧に見えたから、彼にも悩みがあるなんて思いもしなかった。『何にでもなれる』――本来彼がなるべきだったものになれないと分かったからこそ、関西の実家からわざわざこちらの高校に進学したのだと、もし今知っていたら、こんな無神経な事は言わなかったと思う。



 部活に勤しむ生徒たちを横目に、私は東雲くんと一緒に玄関を出て帰路に着こうとした。

「東雲くんって、家どこ方面? 途中まで一緒に帰ろう」
「ええ、是非。家は――」

 とりあえず分岐点となるところまでと、ふたり並んで歩を進める。れっきとした『勉強会』をしたお陰か、今の私は充実感に満ちていた。誰かに下世話な事を言われても、勉強しかしていないと堂々と反論できる程度には、自信と自己肯定感が生まれている。と思う。

 別れる前に、ちょうどコンビニが目に入って、迷惑かなと思いつつも私は東雲くんに声を掛けた。

「東雲くん、ちょっと待って貰っていい?」
「はい、構いませんが……」
「二、三分で終わるから」
「ゆっくりでいいですよ」

 私は急いでコンビニへと走った。この遣り取り、完全にお手洗いだと思われている。逆の立場だったら私もゆっくりでいいって言うと思う。ただ、お手洗いじゃないからなんとも微妙な気持ちになってしまった。

 さすがにこんな時間まで付き合わせてしまって、お礼をしないわけにはいかない。寧ろこんな事しか思い付かないのが申し訳ないくらいだ。
 コンビニのレジで、ガラス越しに目当てのものを指差しして、ふたり分を購入した。――いや、東雲くんは家に帰ったらすぐ夕飯を食べるんじゃないか、とお金を払った後に気付いて、早くも失敗したと思ってしまったけれど、少しでも嫌そうな顔をされたら私がふたり分の『これ』を食べれば良い。東雲くんが遠慮して、無理して受け取る事がなければ良いのだけれど。
 そんな事をぐるぐると考えつつ、店員さんからほかほかの『それ』を受け取って、私は駆け足で東雲くんの元へと戻った。

「ごめん! お待たせ!」
「急がなくて良いですよ――ん?」

 東雲くんは私が小さなコンビニ袋を片手に持っている事に気付いて、少しだけ驚いてみせた。恐らく、お手洗いではなかったと気付いてくれたに違いない。

「こんな時間まで付き合ってくれたし、お礼を……と思ったんだけど」
「お気遣い、痛み入ります。私が好きでやってる事なので、気を遣わせてしまってかえって申し訳ないです」
「いや、本当大したものじゃないというか……夕飯前にどうなのって感じなんだけど……」

 そう言って、私は神妙な面持ちで袋からあんまんを取り出した。

「そ、それは……まさか……」
「え? ああ、こしあんとつぶあんどっちだったかな」

 そもそも東雲くんは受け取るとはまだ言っていないし、今私が手に持っているのは私の分という事にしよう。自分の分なら好きにして良いし、と私は徐にほかほかのあんまんを半分に割った。

「こしあんだ。っていうか、コンビニのは大体こしあんだよね……」
「…………」

 無言だ。やばい、馬鹿だと思われた。というか、夕方とはいえこの季節に中華まんは空気が読めてなかったかも。でもアイスだとすぐ溶けちゃうし、中華まんなら冷えても食べられない事はないし……いや、これは二人分私が引き取ろう。

「……引いたよね。いや、忘れて。代わりに何かジュースでも奢らせて――」
「…………」
「東雲くん?」

 そんなにドン引きするほど駄目な行為だったのか、と私は恥ずかしいやら気まずいやらで、半分に割ったあんまんをくっつけて(当然元に戻るわけはないのだけれど)袋に戻して、恐る恐る東雲君の顔を見た。
 完全に青褪めている。
 まさか、体調が悪いのか。もしかして、そんな中無理に付き合わせてしまったのか。混乱しかけたのも束の間、東雲くんの身体が私のほうに向かって倒れて来た。

「え!?」

 あまりにも一瞬の事で、何が起こったのか理解出来なかった。
 東雲くんの身体が突然私の方に倒れてきて、というか私に覆い被さってきて、当然同い年の男子の体重を瞬時に受け止めるなんて出来ず、私は東雲くんの身体ごと後ろに倒れて尻餅を付いてしまった。
 こんなわけのわからない状態でも、危機回避能力が働いたのか、幸い頭は打たなかった。じわじわと尾てい骨が痛む。ただ、今はそれよりも東雲くんだ。さすがにこれだけは分かる。
 東雲くんは気を失ってしまっている。

「東雲くん!? 起きて! ねえ、しっかりして!」

 東雲くんは、私の胸元に顔を埋めたまま反応しない。大声で声を掛けても揺さぶっても駄目だ。どうすれば良いんだろう。学校に戻って保健室に連れて行くのは、もう遅い時間だから無理だ。じゃあ、救急車? どうしよう、私のせいでこんな事になったんだ。体調が悪いなか、無理をして放課後付き合ってくれたのだとしたら――救急車を呼ぼうとスマートフォンを取り出したけれど、手が震える。駄目だ、頑張って押さないと。1、1、そして最後の数字を押そうとした瞬間。

「東雲! 西篠! 大丈夫か!?」

 足音とともに聞こえた声に、思わず気が抜けてしまった。
 この人がいれば大丈夫、自然とそう思わせるような存在。

「神谷くん……どうしよう、私のせいで……」

 駆け付けてくれた神谷くんに、私は自然と涙声で助けを求めていた。
 人が来てくれた事で私は少しだけ安心して、改めて自分が今置かれている状況を把握した。
 私に覆い被さる状態で倒れている東雲くん。そして、尻餅をついている私の傍にはコンビニの袋が落ちていた。中身は転がっておらず無事――ってそんな事はどうでもいい。今は東雲くんをどうすれば良いのか考えないと。

「きゅ、救急車……」
「ごめん、ちょっといいか?」

 神谷くんは私の傍に落ちるコンビニ袋を拾って、中身を確認した。
 そして、苦笑いを浮かべた。
 いや、今は私の馬鹿な行動はどうでも良くて、東雲くんをなんとかしないといけないのに、どうしてそんなに悠長にしているのか。
 疑心暗鬼になる私をよそに、神谷くんは東雲くんの腰に手を回して私から引き剥がせば、あっさりと背負ってしまった。まるで、以前も同じ事があったかのような慣れた動作に見える。

「悪い。西篠、このまま付き合って貰っても良いだろうか?」
「え? うん、それは勿論……」
「東雲の鞄を持って、付いて来てくれ」
「は、はい!」

 私は言われるがまま、地面に落ちる東雲くんの鞄を持って、自分の鞄ともう冷めているであろうふたり分のあんまんが入ったコンビニ袋を携えて、東雲くんを背負う神谷くんの後に付いていった。

「あの、神谷くん……救急車、呼んだほうが……」
「いや、じきに目が覚めるさ」
「なんで分かるの?」
「後で話すよ」

 神谷くんは絶対に大丈夫だと言わんばかりに余裕綽々なのだけれど、私のせいで東雲くんがこんな事になった可能性が非常に高いだけに、自己判断で救急車を呼ぶなど勝手な行動を取るわけにもいかず、大人しくこのまま付いていく事にした。
 私のせい――結果的にその通りなのだけれど、その理由は私が危惧していた事ではなく、この後私は東雲くんの秘密を知る事になるのだった。

2022/09/24

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