マドレーヌの約束
人の噂も七十五日。つまり二ヶ月半も経てば皆、私の赤点の事など忘れてしまうという事だ。正直そこまで待たずとも、皆そこまで暇ではないし、二、三日でなかった事になる可能性だって有り得る。ゆえにそこまで悲観する必要はなく、私はただ淡々と今後の模試や定期試験で挽回していけば良い。単純明快な話で、あとはそれを実現出来るかどうかだ。
他人の目を気にする暇が合ったら、一分でも多く勉強すべきだ。そう決めた私は、早速放課後勉強の為、図書室に向かったのだけれど――。
「西篠さん、奇遇ですね」
「へ?」
適当に座った席の向かいに先客がいて、まさか知り合いとは思わなかったから、普通に苗字を呼ばれてつい呆けた声を出してしまった。
そして相手の顔を見た瞬間、この席を選んでしまった事を後悔した。
別に相手は何も悪くない。けれど、どうしても先日の神谷くん絡みの遣り取りが思い起こされてしまい、やる気が早くも失せてしまいそうなのだ。
「し、東雲くんもこういう所で勉強するんだ……」
ごく当たり前のようにそこにいる東雲荘一郎くんを前にして、気が動転してしまった私は、完全に相手が返答に困る言葉を口にしていた。別に図書室で勉強するのは何も変わった事ではなく、特に東雲くんのような頭の良い生徒なら尚更だ。勉強しなくても良い点取れそうなのに、と言いたいのだと解釈出来なくもないけれど、それは私のような赤の他人が言う事ではない。
「いえ、私は……」
東雲くんは別に気にする様子もなく、というか何を考えているのかいまいちよく分からない無表情で、手元の本を傾けて表紙を私に見せて来た。
レシピ本――それも洋菓子だ。
「えっ、東雲くん、作るの?」
「ええ。趣味の範囲ですが」
「すごいね」
東雲くんは何がすごいのか、と小首を傾げたけれど、私にしてみれば充分凄い。確実に生活に役立つような趣味なんて、考えてみたら私は何ひとつ持っていないからだ。
好きなものは勿論ある。好きな音楽、好きな映画、可愛い洋服、コスメ、アクセサリー、その他諸々……とそこまで考えて、私はあくまで好きなものを受動的に摂取するだけで、自ら好きなものを創り出すなど、何もした事がないと気付いた。
だから、何も分かってなさそうな東雲くんに、ついぽつりとぼやいてしまった。
「私はさ、そういうの、何もないから」
言った後、我ながらうざいなと思ってしまったけれど、東雲くんはさして気にも留めないに違いない。私が心の中で泣きながら赤点挽回の為の勉強をしている間、東雲くんは優雅に趣味の勉強をするのだ。
いや、趣味なのに勉強するなんて、それ自体が凄い事なのではないか。優雅に感じるのは私の思い込みであって、本当は試行錯誤で大変なのかも知れない。プロのパティシエを目指すなら当然苦労もあり、例え趣味でも楽しい『だけ』の作業ではないだろう。
やっぱり凄いなと改めて思いつつ、ちらりと東雲くんを見遣ったら、ちょうど目が合った。微妙に気まずくて何も言わず俯いてしまったけれど、相変わらず東雲くんは何を考えているのか分からない無表情だったと思う。
「あ」
図書室なので当然余計な私語は極力慎み、黙々と問題を解いていたのだけれど、私の耳に突然東雲くんの声が飛び込んで来た。
用事でも思い出したのかも。神谷くんと遊びに行く約束をしていたとか――そう思ってふと顔を上げたら、どういうわけか東雲くんは私の手元のノートに視線を送っていた。
よくよく考えれば、東雲くんが友達との約束を忘れるような人ではないと、交流がなくとも分かる筈なのだ。
「そこ、違います」
「えっ?」
真下のノートに視線を落としたけれど、何も間違っているようには思えなかった。
「なんで?」
「えっ?」
今度は東雲くんが素っ頓狂な声を出した。その反応から、彼が何を言いたいのかわざわざ聞く必要などない。
私が自信満々に回答した問題は、盛大に間違えているという事だ。
「嘘……」
嘘も何も事実なのだけれど、そう言わずにはいられなかった私に、東雲くんは何故か周囲をきょろきょろと見回して、そしてぽつりと呟いた。
「あの、もし良ければ教えましょうか?」
「えっ!? いや、それは、さすがにまずいっていうか……」
ただでさえ神谷くんとの一件で一部の女子から白い目で見られたのに、更に東雲くんと一緒にいたら何を言われるか分からない。人の噂も七十五日どころの話ではなくなってしまう。いや、話題が風化するまで二ヶ月半もかかるとは思えないけれど、それこそ数日では済まないだろう。
というか、『さすがにまずい』のはそれよりも、今の私の声の大きさのほうだった。
少し離れた場所から、図書委員のわざとらしい咳払いがした。
……もう今日は勉強はやめよう。そう決めて、ノートや問題集を閉じて後片付けを始めると、東雲くんは少し困ったように眉を下げて小首を傾げた。
「すみません、余計な事を言ってしまいましたね」
「いや、違うの。このまま突っ走っても結局間違いだらけになると思うし、ちょっと考え直してみる」
「そうですか……」
しゅんと項垂れているように見えなくもない東雲くんに、なんだか私が不用意な言動をして傷付けてしまったような気がして、今日も厄日かもしれないと思い始めて来た。
いや、東雲くんは何も悪くない。強いて言うなら同じ間違いを繰り返す私が悪い。東雲くんは良かれと思って指摘してくれたのだから、寧ろ有り難いくらいだ。このまま間違いに気付かず突き進んで、結果間違えて完全に時間を無駄にするよりは遥かに良い。
そう、東雲くんは何も悪くないのだから、気にする必要もないし、私に「すみません」なんて言う必要なんて全くない。ただ、本人はそう思っていないらしい。私がそそくさと図書室を退室して間もなく、東雲くんも私の後に続いて廊下に出ていた。
「いいの?」
「はい、ちょうど読み終わりましたので。参考になる箇所はメモも取りましたし」
「さすが」
「? 褒められるような事はしていませんが」
東雲くんは褒められ慣れていないのだろうか。というか、私が『さすが』と思う事は彼にとっては自然に身についている当たり前の事で、なんなら私以外の大半の人は普通にやっている事なのかも知れない。自分自身、今日は実りのある一日ではなかっただけに、劣等感もひとしおだ。
「西篠さんこそ『さすが』です。すぐに気持ちを切り替えて勉強法を変えるのは、出来そうでなかなか出来ない事ですから」
「う」
ついくぐもった声が出てしまった。
考え直してみるとは言ったけれど、肝心の新しい勉強法など何も思い付いていない。果たして今日このまま家に帰って、自分に合った勉強法を見つける事が出来るのか。それこそ徒労に終わる可能性大だ。
私のリアクションに、東雲くんは色々と察してしまったのか、一歩前に出て遠慮がちに口を開いた。
「あのう……差し出がましいのは重々承知していますが、」
「いや、昨日の今日でそれは、さすがに……!」
失礼とは思いつつ、東雲くんが何を言いたいのか分かってしまい、私は両掌を手前に差し出して拒否の意を示した。
『昨日の今日』。その『昨日』が何の事を言っているのか、東雲くんも説明するまでもなく理解したらしい。というか、東雲くんも当事者ではなかった筈が自ら首を突っ込んでいるのだから、分かるのも当然という話だけれど。
「大丈夫ですよ。私は神谷のように馴れ馴れしい事はしませんので」
「全然大丈夫じゃない」
結局何も分かっていなかった。
私が危惧しているのはそこではなくて、『神谷くんと仲の良い東雲くん』と一緒に行動する事自体がまずいのだ。何なら今この瞬間だってまずい。
「西篠さん、もしかして私の事、苦手……ですか?」
「違う違う、そうじゃなくて!」
「気を遣わなくていいですよ。配慮が足りず、申し訳ありません……」
眉を下げ、明らかに落ち込んでいる東雲くんは、私に背を向けてそのまま歩き去ろうとした。
さすがにこのまま別れたら私が嫌だ。別に東雲ことの事が苦手だとか嫌いだなんて一言も言っていないのに、私が突き放したみたいじゃないか。
「待って!」
つい数秒前まで『まずい』と思っていた筈なのだけれど、この時ばかりはそうも言ってられないと、東雲くんの制服の裾を掴んで引き留めた。
「苦手とかそういうんじゃなくて! 昨日は神谷くん、今日は東雲くんって、傍から見たら……」
「傍から見たら?」
「……男好きって思われそうじゃん……」
なにも相手が目立つ異性でなければ、こんな事は思わない。別に潔癖でもなければ、男子に対して苦手意識があるわけでもない。勉強を教えてくれる、変な事はしないと言っているのだから、素直に甘えたいのが本音だ。
けれど、東雲くんは駄目だ。『あの』神谷くんの親友というだけで、周りの注目度がまるで違うのだ。
ただ、当然東雲くんは自分がどう思われているかなんて知らないだろう。
だから、私の発言を聞くや否や、東雲くんは振り向いて暫し硬直したのち、声を上げて笑い出した。
「あの、私真面目に言ってるんですけど……」
「いや、堪忍な。そんなんで男好き言われたら、一生男子と話せへんやん」
「そうだよ」
私の何がツボにはまったのか知らないけれど、東雲くんは完全に面白がっている。つい反射的にそうだよと返したものの、一体何が『そう』なのか。一生男子と話せないなんて馬鹿な話があって堪るか。
まさかここで彼の素らしい関西弁が飛び出すとは、そんなに面白かったのか。私は全く面白くないけれど、と東雲くんを睨み付けていると、当の本人は私の視線を跳ね除けるかの如く余裕綽々な笑みを浮かべた。
「はは……まあ、受験シーズンで皆ピリピリしてるんでしょうね。言う側も、言われる側も」
「言われる側は堪ったものじゃないよ」
「疚しい事なんて何もないんですから、堂々としていて良いと思いますが」
「東雲くんは良くても私が嫌なの」
いまいち私が危惧している事を分かっていなさそうだから、きっぱり言ったのだけれど、東雲くんはまた落ち込むような素振りを見せた。
なんとなく分かって来た。これは多分、本気で落ち込んでいるわけではない。『わざと』だ。
「西篠さん、私の事が嫌いなんですか?」
「そんな事一言も言ってないじゃん!」
「それなら良かったです。じゃあ決まりですね」
「いや、勝手に決めないで! というか何を決めたの!?」
聞かないで拒否だけしてとっとと帰れば良かったんだ。そんな後悔は完全に後の祭りで、東雲くんは先程の表情は一体何だったのかと思うほど、上機嫌に口角を上げた。
「西篠さんが明日までに新しい勉強法を編み出せなかったら、私が勉強を教える、というのはどうでしょう」
「もうそれ確定じゃん」
「確定? もう勉強法を見つけたんですか?」
「逆だよ逆」
今、鏡を見る事は出来ないけれど、多分私は苦虫を噛み潰したような顔をしているに違いない。完全に東雲くんのペースに乗せられてしまっている。
「……という事は、明日から私が西篠さんの面倒を見る、という事で良いでしょうか」
「いや、言い方! 勉強教えるだけでしょ!?」
「そうですが、何か?」
「はあ……」
東雲くんは『あの』神谷くんの親友という自分の立ち位置をまるで理解していないのか、分かっていても気にしていないのか。どちらにしても周囲、特に神谷くん親衛隊みたいな女子たちの神経を逆撫でするような発言は控えて貰いたいのに。いや、さすがに彼女たちの前で私にこんな接し方をする事はないだろう。それこそ昨日の今日で『男好き』が確定してしまう。私たちにそんな気は一切なくてもだ。
「ていうか、なんで勉強教えようと思ったの?」
「やっぱり嫌ですか?」
「……だって、東雲くんにとって何の得もないじゃん」
相手のペースに乗せられて堪るかと、今度はしっかりと自分の疑問をぶつける事が出来た。私が知らないだけで、誰に対してもここまでするのか。それも女子相手に。まあ、するんだろうなと思ったけれど、東雲くんはさも当然かの如くはっきりと答えた。
「強いて言うなら、神谷が迷惑を掛けたからです」
「や、それは東雲くんは関係ないって……」
「これでも友人ですからね。神谷もあれで気にしてるんですよ」
お昼休みに目が合って「ごめんね」のジェスチャーをされたから、それは分かっている。けれど、それで終わりにして貰った方が私としては一番有り難いのだ。とにかく残りの高校生活を平穏無事に過ごす事が出来ればそれで良い。
「ですが、神谷が下手に動けば、更に西篠さんに迷惑を掛けてしまうのは明白です。という訳で、私が一肌脱いで――」
「脱がなくていい!」
「比喩ですよ」
「分かってる!」
またもや東雲くんのペースに呑まれてしまった。このまま話し込んでいたら、それこそ誰かに見られて最悪の事態が起こりかねない。もう明日の事は明日考えよう。それこそ今日の夜、自分なりに勉強法を見つけ出せれば、東雲くんの手を借りる必要はなくなるのだ。というかそれが当たり前だ。
「もう帰る! 明日の、まだ確定じゃないからね!」
「え? 確定って言ったの西篠さんですよね?」
「〜〜ッ、もういい!」
何を言ってももう駄目だ。これ以上醜態を晒す前に早く帰った方がいい。どう考えても東雲くんは落ち込んでいないのだから、もう知らない。そう思って別れの挨拶すらせず、足早にその場を後にした。さすがに東雲くんはもう追って来なかった。
明日になったら東雲くんもこんな遣り取り、忘れてくれるといいのに。というか勉強を教えるのだって冗談で言ったのかも知れないし。それなら冗談を真に受ける方がどうかしている。東雲くんが人との約束を忘れるようなタイプではないと分かっていた筈なのに、帰宅した私は自分の都合の良いように物事を考え、新たな勉強法を見つけ出す事もなく、翌日を迎える羽目になったのだった。
2022/08/21