出会いはビターチョコレート
高校三年の初夏。皆卒業後の進路を決めつつあり、大学へ進学する人も、就職する人も、皆各々のペースで学業に勤しみながら高校生活を送っていた。私は進学組で、特に勉強したい分野があるわけでもなく、取り敢えず大学に行けば将来やりたい仕事も見つかるだろう、なんて甘い考えで決めただけだ。
ちゃんと大学卒業後のビジョンを見据えている人、追求したい学問がある人とは根本的に違った。だからこそ、挫折するのも早かった。
模試の結果が散々だったのだ。この高校の偏差値、そして自分の成績を踏まえて決めた大学のボーダーにはまるで達していなかった。
つい前までは余裕だった筈なのに。どうして、と思ったけれど、中学時代の自分を思い返せば答えはすぐに分かった。皆、大体最終年でラストスパートをかけるのだ。全生徒の学力が底上げされれば、『今まで通り』の勉強をしているだけでは抜かされてしまう。実際に中学三年の時にそれを思い知り、三年後の今まさに同じ体験をしている、ただそれだけの話だ。学習能力がないとはこういう事を言うのだろう。
そして、模試の結果が悪かった事に引きずられ、モチベーションが切れた私は、校内のテストまでも散々な成績を叩き出してしまった。
赤点。生まれて初めての事だった。
「もう駄目だ、人生終わった」
放課後、まるで魂が抜けたように口をぽかんと開けて、呆然と虚空を見つめていたら、思わぬ人物が私の顔を覗き込んで来た。
「西篠、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないからほっといて……」
「放っておけないよ、『人生終わった』なんて余程の事がないと言わないだろ」
見つめていた虚空は相手の顔面によって遮られ、嫌でも会話せざるを得なかった。頼むから今だけは誰も彼も放っておいて欲しいのに。
その男は神谷幸広――このクラスだけでなく、校内きっての有名人で、そのルックスと人当たりの良さから、女子にモテにモテまくっている男だ。
案の定、神谷くんが声を掛けてきたものだから、クラスの女子たちも私の席に集まって来る。だから放っておいて欲しかったのに。
「深雪ちゃん、どうしたの?」
「彼氏にフラれた? それとも好きな男子に彼女がいたとか?」
「そういえば神谷くんって本当に彼女いないの?」
「ねえ神谷くん、好きなタイプってどんな子?」
寄って来た女子たちは、はじめこそ私を心配する素振りを見せたものの、いつの間にか神谷くんの話に移っている。頼むから私の席以外でやってくれ。
取り敢えず、注目の的が神谷くんに移ったところでこの隙に避難しよう。そう思って、机上に裏返しに置いていた赤点のテスト用紙を手に取り、音を立てずに椅子を引いた瞬間。
「あ」
うっかり手を滑らせて、テスト用紙を放してしまった。それはひらひらと虚空を舞い、事もあろうに神谷くんの足元に落ちた。
当然、神谷くんだけでなく、周りにいる女子たちもそれを見る。
最悪な事に、裏返していたテスト用紙は床に着地した時には見事に表を向いていた。
『28点』という輝かしい数字が彼らの目に留まり、私は社会的な死を覚悟した。
「成程、そういう事か」
神谷くんは28点を拾えばあっさりとそう言って、悪気ひとつない明るい笑顔で私に『それ』を差し出した。
「西篠は頭良いしそりゃショックだよな。まあ、次頑張れば大丈夫だって」
そう言って、神谷くんは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。決して恋愛感情などなく、ペットの犬を撫でるとかそういう感覚だ。断言出来る。本当に好きな女の子相手にこんな雑な撫で方はしない。
ただ、神谷くんの周りにいる女子たちはそうは思わなかったらしい。良い意味とは思えない視線が突き刺さる。もう耐えられないと思って、私は力なくテスト用紙を受け取れば、お礼も何も言わずに鞄を掴んでとぼとぼと教室を後にした。
「たかが一回赤点取ったくらいで大袈裟すぎない?」
私の背中に女子の何気ない言葉が投げつけられる。神谷くんがいる手前『それだけ』で済んだけれど、彼がいなくなった後は結構な陰口を叩かれそうだ、と起こってもいない事を想定して内心うんざりしてしまった。
これまで赤点を取った経験のある子にしてみたら、確かに私の発言は大袈裟だし、相手にしてみたら「じゃあ赤点取った事がある私も人生終わってるのかよ」という話になってしまうからだ。
完全に自業自得だ。今日は運が悪かっただけ。それも一年で一番とかそういうレベルで。とは言っても私自身はこの点数にショックを受けている事に変わりはなく、愚痴のひとつでも言わせてくれというのが本音だった。
「――さん、西篠さん」
とぼとぼと廊下を歩いていると、後ろから声を掛けられている事に気が付いた。念の為周りを見回して、私以外の西篠さんじゃないか確認していると、後ろに居た相手は緩慢な足取りで私の前に回り込んだ。
本人が几帳面だからなのか、いつ見ても切り揃えられている黒髪。細い双眸。口許のほくろ。特徴といえばそれくらいだ。どちらかと言えば影の薄い存在だけれど、誰もが彼の名前を知っていた。
「なに? 東雲くん」
東雲荘一郎――皆が彼を知っているのは、どういうわけか、いつも神谷幸広とつるんでいる男だからだ。
「神谷のアホがやらかしたせいで、嫌な思いをしているのではないかと思いまして、代わりにお詫びをと」
「東雲くんが謝る必要ないじゃん。ていうか、別に神谷くんも悪くないし……」
神谷幸広に『アホ』と言えるのは、この学校ではこの東雲くんただ一人だけだろう。同性だからノーカウントなのか、女子からは嫌われていないし、それどころか東雲くんもそれなりに人気がある。神谷くんと一緒にいるからというよりも、彼は彼で女子の心を掴む良いところがあるからだ。心というより、胃袋を掴むと言った方が正しいか。
「いえ、元々神谷が西篠さんにちょっかい出さなければ済んだ話ですから。神谷には後で改めて叱っておきますが……」
「いいって、そんな。ていうか、こんな事で二人が喧嘩するなんておかしいよ」
「喧嘩? 私が一方的に神谷を叱るだけです」
「……なんか神谷くんが気の毒になって来たから……本当何もしなくていいです……」
私は肩を落として、もう話したくないオーラを出しつつ踵を返して歩き出した。
東雲くんがわざわざ私を追い掛けて話し掛けて来たのは、きっとあの後教室で一部の人たちが私の事をああだこうだと言っていたからなのだろう。じゃないとここまでする理由がない。
いつもは大して気にしない事も、今日ばかりは全てをマイナス思考に考えてしまい、ひとり勝手に落ち込んでしまう。いや、さすがに今日は仕方ない。
ただ、やらかしてしまったものはしょうがないし、いくら落ち込んだところで失言が消えるわけではない。神谷くんの言う通り、次挽回する為に勉学に勤しんだ方が余程建設的だ。寝て起きて全てを忘れて、明日から淡々と頑張るしかない。そう分かってはいつつも、この日ばかりは気が晴れなかった。
翌日、お昼休みに友達が失笑しながら私の脇腹を小突いて来て、何かを聞くより先にすべてを察した。
「何も言わないで。何を言いたいか分かってるから」
「いやいや、神谷幸広に絡まれたばっかりにいらん嫉妬買って大変だったねぇ」
「言うなっつーの」
友達の二の腕を軽く手でどついて、私は盛大な溜息を吐いた。
「いや、完全に私がやらかしただけなんだよね。余計な事言ったから」
「『赤点取って人生終わった』?」
「なんで知ってんの!? あ、いや、言わないで。なんとなく察したから」
昨日、友達は部活の練習で授業が終わった後は早々に教室を後にしていて、一連の出来事は知らない筈なのだ。それを簡単に一言で纏めただけとはいえ……というかその一言がすべてなのでもう察するしかなかった。クラス中に知れ渡っているのだ。私の失言も、そして私が赤点を取ったという事も。
「深雪が帰った後、東雲が神谷に関西弁で怒ったんだって。それでその他大勢も把握したっていうか、単純に面白ネタとして私の耳にも入って来てさあ」
「いや、なんであの人が怒るの!? おかしくない!?」
思わず食べていたサンドイッチを落としそうになってしまった。そういえば、『後で改めて叱っておく』って言ってた……ような。『改めて』とは、既に叱ったからこそ出て来る単語だ。
「いや、なんで? 神谷くん別に悪くなくない?」
混乱する私に、友達はコンビニで買ったおにぎりを平らげるまで食べる事に集中して黙っていたけれど、咀嚼を終えて一息吐けば私の質問に答えてくれた。
「神谷って自分の影響力分かってないじゃん。自分が動けば追っかけの女子も付いて来るし、神谷が深雪に話し掛けなかったらこうはなってなかったワケだしさ」
「いや、でもさあ……それで東雲くんに怒られるのは理不尽でしょ……」
「まあ怒るって言ってもお笑いのノリだけどね。東雲ってたまに神谷で遊んでるところあるじゃん」
「…………」
つまり私をネタにコントが繰り広げられたという事か。怒りとか恥よりも、もう頼むから今後は私の事を放っておいてくれという感情が圧倒的に勝っていた。
サンドイッチを食べ終わって、ペットボトルに口を付けつつ、ふと教室を見回すと、よりによって偶然神谷くんと目が合ってしまった。
神谷くんは両手を合わせて「ごめんな」と言いたげに困った笑みを浮かべていて、この遣り取りすら見られていたらまたろくな事にならない……と思いながら、「私は気にしてない」という意味で首を横に振って顔を背けた。果たして意図が伝わっているかどうかは分からないけれど。
私の横で見ていた友達が、周囲を軽く見回して小声で呟いた。
「誰も気付いてない。大丈夫」
「いや……別に疚しい事は何もないんですけど……」
「そうは言っても、見られたら何かと面倒だろうしさ」
友達も食後の緑茶をペットボトルで堪能しつつ、どういう訳か私をじろじろと見遣った。
「え、何?」
「いや、神谷が深雪の頭ナデナデしたのが尚更まずかったんだろうなあって」
「うわ! なんでそこまで知ってんの!?」
「東雲が『ペット感覚で女子の頭撫でるアホがおるか!』って怒ってたから」
「…………」
なんだか、だんだん神谷くんではなく東雲くんに非があるのではという気すらして来た。
私としては、自分自身が反感を食らう発言をしてしまった事が全ての原因だという自覚はある。というか赤点ではなく、それこそ最初に彼女たちが言っていた「彼氏にフラれた」だの「好きな人に彼氏がいた」という色恋沙汰が理由であれば、寧ろ共感されたと思う。
別に神谷くんは批判される事はしていない。寧ろ東雲くんがツッコミを入れてコントが始まった(らしい)事でより多くの人に知れ渡ってしまい、そっちの方が私にとっては大ダメージだ。
「……ていうか、神谷くんのはどう考えても恋愛のそれではないでしょ」
「うーん、私は深雪の事よく知ってるからそうだねって言えるけど、そう思わない人もいるしねえ」
「だってどう考えても神谷くん彼女いるよ。あんなかっこいいんだしさ」
「周りもそう思ってて、その『彼女』が深雪だと思われる可能性も無きにしも非ず」
「もうさ〜、やめようこの話……」
そもそも嫉妬しているらしい女子も気付いて欲しい。私のような影の薄い女子を、神谷くんが好きになるわけがないだろう、と。もっと好きな男子の事を信じてあげてくれとすら思う。尤も、それはそれとして、影の薄い女子に優しくしたのが気に食わなかったのかも知れないけれど。
神谷幸広という人は、誰に対しても分け隔てなく優しく、気さくで、女子だけでなく男子からも一目置かれ、頼りにされている稀有な存在だ。多少破天荒なところがあっても、人柄の良さで許されていると言ってもいいだろう。そんな神谷くんが暴走しかけた時に止めるのが、専らいつもつるんでいる東雲くんだ。今回はそれが逆効果になってしまっているけれど、多分そう思っているのは私だけだ。なにせ害を被っているのは私ひとりなのだから。
人の噂も七十五日と言うし、寧ろ二ヶ月半を待たずに皆こんな出来事など忘れるに違いない。そう思うと少しは気が楽になった。
願わくばこの二人が今後私に関わる事はなく、静かに卒業出来たら良い――そう思っていたものの、とんだ運命の悪戯が私を翻弄する事となるのだった。
2022/05/15