いつかの王子さま


『西篠さん、どうしました?』

 何も言わず突然電話を掛けた私に、東雲はいつもと変わらず応答してくれた。仕事に支障が出ないよう、変な時間に掛けたわけではないけれど、出られなくても仕方ないと思っていたから驚いた。

「東雲、急にごめんね。ちょっと声聞きたくなって……」
『おや、珍しく弱気ですね。仕事で何かありましたか?』
「……まさか話す前からお見通しとはね。いや、忙しいだろうし、東雲の声が聞けただけでじゅうぶんだよ」

 そんなに私は分かりやすいのか。情けないやら恥ずかしいやらで、切り急ごうとしたのだけれど、東雲は別に気にしていない様子だった。

『私で良ければ話を聞きますよ』
「……大丈夫なの? 仕事」
『無理なら無理だとはっきり言います』
「あはは……そうだよね。タイミング悪くなくてよかった」

 別に悩みを聞いて欲しくて電話したわけじゃなくて、東雲の声を聞いたら元気が出ると思っただけなのだけれど、ここで打ち明けないほうがかえって申し訳ない。東雲ももしかしたら忙しいのに気を遣ってくれているのかも知れないし、その優しい気持ちを無視したくはなかった。

「実は今、ドラマの撮影をしてるんだけど、どうも動きが固いって言われて……」
『固い? 何度か共演していますが、西篠さんにそんなイメージはありませんが。指摘された事もないですよね』
「ああ、固いっていうのは……」

 具体的に説明しなかったから、東雲は私の『演技』が固いと思ったのだろう。まあ、ある意味それも正しいのだけれど。

「演技というか、所作が固いって言われて……アイススケート選手の役なんだよね」

 外部に漏らしたらまずいかも知れない。でも役柄だけならまだセーフ……だと思う。それに、東雲なら口外する事はまずないはずだ。

『成程。優雅さを求められる競技ですね』
「そうなんだよね……難しい技は現役選手がスタントでやってくれるんだけど、普通に滑るシーンは自分でやらないといけないんだ。……バレエの経験でもあれば違ったのかな」
『バレエ……なんとかなるかもしれません』
「へ?」

 別になんとかして貰うつもりで打ち明けたわけではない。東雲もそれは分かっているはずなのだけれど。

『水嶋さんに相談してみるのはどうでしょう。確かバレエの経験があったはずです』
「えっ!? いや、ちょっとそれは、まずいんじゃ……」
『ドラマの話は伏せておけば大丈夫じゃないでしょうか。西篠さんの役は私たちだけの秘密にしましょう』
「秘密……」

 別に恋愛的な意味ではなく、ただただ機密情報を守りましょう、というだけの話なのに、私の顔は瞬く間に熱くなった。これがただの音声通話で本当に良かった。今、私の頬は真っ赤に染まっているだろうから。

 そして東雲はこの後咲ちゃんに、私にバレエを簡単に教えてあげて欲しいと話してくれて、撮影の合間に会う事が叶ったのだった。



 315プロダクションを訪れた私はプロデューサーさんに挨拶して、待ってくれていた咲ちゃんと合流し、一緒にレッスンルームに向かった。

「あたしが深雪さんに教えるなんて、で、出来るかな……」
「咲先輩! パピッとよろしくお願いします」
「せ、先輩!? あたしが!?」
「うんうん。咲ちゃんは経験者だし、年齢は関係ないからね」

 咲ちゃんとレッスンルームに足を踏み入れて、最後にプロデューサーさんが入って扉を閉める。いきなり他の事務所の役者が大事なアイドルをお借りするのだから、プロデューサーさんが同席するのは当然だし、私もそのほうがなにかと安心だ。

「じゃあ、深雪さん! パピパピッと行くね!」
「はい! ご指導のほど、よろしくお願いします!」



 バレエのレッスンは穏やかに進んでいった。私も撮影の合間で時間が限られているのもあり、咲ちゃんは基礎的な事を要点をまとめて教えてくれた。文字だけ、言葉だけではなく、実際に手取り足取り教わる事は上達への一番の近道だ。後で復習できるよう、プロデューサーさんが動画で撮影してくれている。至れり尽くせりだ。

「そうそう! 深雪さん、上達早い!」
「付け焼き刃だけど、これで少しは動きも優雅になったはず……!」

 指先の所作で腕が長く見えるなんて、意識した事がなかった。つま先立ちは基礎とはいえ、さすがに短時間での習得は出来ないからスキップしたのだけれど、姿勢が美しく見える身体の使い方をメインに教わって、本当に勉強になった。今回の仕事だけでなく、今後様々な事に役立ちそうだ。

「そろそろ時間だね。咲ちゃん、プロデューサーさん、お忙しい中本当にありがとうございました!」

 ふたりに向かって深々と頭を下げると、「これくらいどうって事ないですよ」と言うプロデューサーさんの声が聞こえた。
 顔を上げると、プロデューサーさんも咲ちゃんも笑みを浮かべていた。急なお願いだったのに、嫌な顔ひとつしていない。本当に有り難い事だ。

「えへへ……あたしが深雪さんの役に立てたなんて、夢みたい……」
「もう本当に大助かりだよ! 今から本格的にバレエを習うわけにもいかないし、咲ちゃんが初心者向けに優しく教えてくれたお陰で、なんとかなりそう」

 拳を握ってそう言うと、咲ちゃんは恥ずかしそうに頬を染めつつも、どこかそわそわして私を見ていた。まるで何か言おうと――いや、聞きたい事があるのだろう。

「あの、深雪さん……! どんなお仕事なのか、今度教えてください!」
「うん、勿論。さすがにバレリーナじゃないんだけど、それっぽいというか」
「ふふっ、今はまだナイショですよね! 楽しみにしてます」

 東雲にぽろりと話した私と違って、咲ちゃんはリテラシーがしっかりしていて尊敬するしかない。勿論今回のレッスンはマネージャーにも話しているのだけれど、「相手が315プロだからいいけど、情報漏洩すれすれだよ」と苦言を呈されただけに、以後気を付けなければ。
 ただ、プロデューサーさんは楽しそうな笑みを浮かべていて、まるでこちらの仕事を把握しているような素振りだった。



 点と点が線で繋がったのは、無事クランクアップした後の事だった。
 ドラマの主題歌が決まったと聞いて、誰が歌うのかマネージャーに訊ねた私は、この後思い切り脱力した。

「BeitとCafé Paradeがユニットを組んで歌うそうだ」

 マネージャーから聞かされた私は、もうこれは情報漏洩もなにも、実質315プロダクションとのコラボなのではと思ってしまった。

「……私が出ているドラマって、315プロのプロデューサーさんは前々から知ってましたよね」
「へえ、先方がそんな話してたんだ」
「いえ、そういうわけではないんですが……」

 マネージャーはすっ呆けているけれど、問い詰めたところで何がどうなるわけでもないし、話はここで終わる――はずだった。
 315プロの人と遣り取りしているのか、スマートフォンを見ながら、マネージャーは私に向かって言葉を続けた。

「彼らのMVも監督直々に監修するみたいだ」
「へえ、随分力入ってますね。BeitとCafé Paradeのファンもドラマに取り込めたら、視聴率も上がるかも……!」
「ははっ、深雪ちゃんも業界人じみて来たな」
「いや、やっぱり数字は気にしちゃいますよ。舞台ならチケットの売れ行き、映画なら興行収入やランキング……より多くの人に見て貰う事は重要です」

 がっついていると思われるのも癪で、それっぽい事を言ってしまったけれど、私よりずっと大人なマネージャーは私の考えなどお見通しだろう。

「そんな深雪ちゃんに朗報だ。監督がMVの練習風景を見に来ないか、ってさ」
「監督が? 良い勉強になりそうですし、是非、と言いたいところですが……どうして私に?」
「『ドラマが大成功するか、うちの子が凄く気にしてる』って伝えたらすぐに返事が――」
「監督と遣り取りしてるなら、そう言ってくださいよ!」

 恥ずかしさのあまりマネージャーの肩を揺さぶってしまった。とはいえ、監督が録るならドラマと共通した世界観のMVになりそうだ。どんな映像になるのか、早くも私は興味津々だった。役者として共演するのではなく、ドラマと主題歌で繋がるというのも新鮮だし、クランクアップした今となっては、純粋に楽しみで仕方がなかった。



 監督からのお誘いを受けて、私は練習日にスケートリンク場へと足を運んだ。監督に挨拶して招待頂いた事への御礼を伝えると、「アイドルたちにアドバイスを頼むよ」なんて言われてしまった。所作が固いと言われていたのが遠い昔のように感じるほどだ。

「大丈夫ですよ! 私、あのツインテールの……あの子です、水嶋咲ちゃんに所作を教えて貰ったんです」

 315プロのアイドルたちは、既にアイスリンクで練習していた。咲ちゃんは左右の髪の束を軽やかに靡かせて、悠々と滑っている。
 監督やカメラマンの人たちは感心して咲ちゃんを見遣って、意外な繋がりだな、なんて零していた。確かに、咲ちゃんとはCM撮影で一緒に仕事をした事はあるけれど、共演というわけではないから、私とCafé Paradeの関係性が分からなければ意外だと思うのは自然な事だ。

 咲ちゃんだけでなく、Beitのピエールくん、渡辺みのりさんも優雅に滑っている。その傍で鷹城恭二さんが勢いよく転んでしまい、思わず声が出そうになって両手で口を覆ってしまった。ただ、すぐにふたりが鷹城さんを助けて、良いチームワークを見せている。氷に乗るのは最初は大変だけれど、コツを掴めばあっという間に滑れるようになる。大丈夫だろう――そう安心したのも束の間。

「わ!」

 今度はしっかり声が出てしまった。
 東雲がカーブを曲がれず直進して、柵にぶつかってしまったのだ。
 まさか、なんでもそつなくこなす東雲のこんなシーンが見れるとは……レアだとは思いつつも心配だ。捻挫したり、打ちどころが悪くて腰を痛めたりしたら大変だ。

「ちょっと、咲ちゃんに挨拶して来ますね」

 東雲が心配と言うのも気が引けて、監督たちに咲ちゃんに会いに行く事を伝えると、「きっと喜ぶよ、励ましておいで」と快く送り出してくれた。見学のつもりで来たけれど、確かに応援の言葉を掛けたら、咲ちゃんも喜ぶかも知れない。だとしたら、私もこんなに嬉しい事はない。なんといっても咲ちゃんのお陰で、ドラマの撮影を乗り越えられたようなものなのだから。



「咲ちゃん! 東雲!」

 ふたりの近くに駆け寄って、アイスリンクの外から声を掛けると、咲ちゃんも東雲も驚いた顔で私へと顔を向けた。

「深雪さん!」
「これは、恥ずかしいところを見られてしまいましたね」

 咲ちゃんに手を引かれながらゆっくりとこちらへ滑って来る東雲は、苦笑を浮かべていた。東雲の気持ちを思うとタイミングが悪かったけれど、どこも痛めてないなら良かった。

「監督に見学に来ないかってお誘いを受けたの。まさかふたりが主題歌を歌うなんて、驚いたよ」
「えへへ……あたしたちも話を聞いた時はびっくりしました! 深雪さんがバレエの優雅さを求めていた理由が、パピッと分かって納得しました……!」
「ふふっ、バレエを教えてくれた咲ちゃんが主題歌担当なんて、本当に嬉しいよ。MV撮影、頑張ってね!」

 雑談もほどほどに、東雲へ顔を向けると、ちょっと疲れ気味に見えた。本当に怪我はしていないのだろうか。やっぱり心配だ。
 私のそんな心境が顔に出ていたのか、東雲は言い難そうに暫し黙り込めば、遠慮がちに咲ちゃんに声を掛けた。

「……すみません、少し休憩させてください。水嶋さんはどうしますか?」
「あたしは大丈夫! リンクに残ってるよ。そういちろう、ずーっと頑張ってるもん。しっかり休んでね!」
「ありがとうございます、そうします」

 東雲はそう言うとリンクから出て私の傍に来て、咲ちゃんは再びリンクの上を滑り出した。若いって良いなあ、なんて年寄りじみた事を思ってしまった。いや、私も東雲もそんな事を思う年齢ではないのだけれど、やっぱり十代のキラキラした姿は、二十代のそれとは違うのだ。

「東雲、どこか痛めてない?」
「ええ、心配無用です。それよりも……」

 どちらともなく、近くにあった備え付けのベンチに腰を下ろす。

「多少はマシになってきましたが、まだ一人ではできないことばかりです」

 そう零す東雲に、「東雲でもそんな事があるんだね」なんて言えなかった。
 東雲が努力家な事は知っている。Best GameやCybernetics Warsのアクションシーンも、初めから完璧に出来たわけではなく、事前に特訓したのだと思う。それに高校時代、私によくお菓子を作ってくれていたのも、パティシエの道に進むために試行錯誤していたのだろう。
 そんな東雲に、私は適切な言葉を掛ける事が出来るのだろうか。

「……氷の上って、難しいよね。私の場合、なんていうか……子どもの頃はじめて自転車に乗れた時みたいに、練習してたら突然滑れるようになった感じだったんだけど」
「果たして本番までに、私もその域に達する事ができるのでしょうか」
「できない事はない、と思うけど……」

 如何せん時間が足りない。東雲と咲ちゃんふたりだけならともかく、Beitの三人も一緒だから、東雲ひとりの為に皆がスケジュールをずらすわけにはいかないだろう。周りが許しても、東雲のプライドが許さない……と思う。私が東雲の立場なら、多分そう思う。

「私に比べて、水嶋さんは素晴らしいですね。氷上の踊り子と言わんばかりに優雅で……ん……?」

 リンクの上を滑っていた咲ちゃんに視線を移した瞬間。
 突然咲ちゃんが、バランスを崩して転んでしまった。

「み、水嶋さん!?」
「東雲、早く咲ちゃんの元に……!」
「はい!」

 スケート靴を履いていない私がリンクに上がる事は出来ない。咄嗟に東雲に言うと、東雲は即座に立ち上がって、リンクに足を踏み入れ――そして、颯爽と咲ちゃんの元に向かった。

「……なんだ、滑れるじゃん!」

 咲ちゃんを助けに行く東雲の後姿は、まるで王子様みたいに優雅で美しかった。つい見惚れてしまったのも束の間。
 東雲も咲ちゃんの傍で転んでしまった。最後は格好がつかなかったけれど、でも、それまでは間違いなくちゃんと氷に乗って滑る事が出来ていた。
 ふたりはゆっくりと起き上がって話し込めば、私のほうに顔を向けて手を振ってくれた。大丈夫だ、と言いたいのだろう。

 咲ちゃんと東雲は暫くそのままリンクで軽く滑り込めば、私の元――というよりリンクの外に戻って来た。

「咲ちゃん、無理してない?」
「えへへ、今はもう大丈夫です! あたし、調子に乗っちゃいました……でも、そういちろうも滑れるようになったし、結果オーライかな、なんて」
「もう……でも確かに、東雲もコツ掴めたんじゃない? やっぱり、決める時はしっかり決めるよね」

 そう言って東雲の腕を軽く小突くと、どこか照れ臭そうに微笑んだ……ように見えた。さすがに王子様みたいだったとは言えなかったけれど、きっと咲ちゃんが東雲に同じ事を伝えているだろう。それくらい、氷上で女の子を助けに行く姿が嵌っていた。



 練習期間を経て、MV撮影は本番の日に恙なく進み、無事終了したと東雲から連絡を受けて、ほっとしたと同時に見るのが今から楽しみで仕方がなかった。
 放送が始まったら、いち視聴者としてドラマも主題歌も存分に楽しもう。撮影している間は大変だったのに、喉元過ぎればなんとやらだ。苦労したのも今となっては良い経験だ。

 それにしても、私だけでなく東雲も、咲ちゃんのお陰で壁を乗り越える事が出来たなんて。ひとりではきっと乗り越えられなかったと思うし、人と人との縁は大事だと改めて実感していた。
 こうして皆で高め合えるような関係が、ずっとずっと続いて欲しい。東雲への恋心を胸に秘めながら、私は密かにそう願ったのだった。

2023/10/30

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